トップページ | 2005年8月 »

2005年7月30日 (土)

お師匠の あゆ

月に一度、お煎茶のお稽古に通ってもうかれこれ2年になる。
今日はそのお稽古の日。

きものを着て、ちょびを実家に預けてお稽古へ。

2年も続けている割には不出来な弟子で、覚えも行儀もどーかと思うが、
お師匠はおおらかに見守り、稽古をつけてくださる。

お師匠のお宅に伺い玄関で草履を脱いだときから、日常もすこし離れる。

三日坊主のわたしがこうしてこつこつお稽古を続けられるのも、
この、いつもと違う時間の流れがとても心地よいからでもある。

折々のしつらいも目に麗しく、毎月季節が動いてゆくのをここで感じる。

そして、気が置けないお茶仲間と、お煎茶をしみじみ味わいながらかわすとりとめのない話しもこれまた楽しい。

ここ最近またひとつ楽しみが増えた。
それはお師匠お手製のお菓子である。

今月は目にも涼やかなお菓子。

ayu

清流に鮎が三匹、きもちよさそうに泳いでいるのがおわかりだろうか。
水底には小石に見立てたあずきが。美しい〜!

お師匠はわたしとそんなに年が違わない。
若くして異例の早さで教授になられた才能の人。
もちろん才能やひらめきだけじゃなくて、長年しっかりとお勉強もされている。
なのにちっとも気取ったところのない、かわいい方。

好きなことにはものすごい集中力を発揮されるのよね。
だからお菓子作りも玄人はだし。すごいなあ〜。

わたしがいただいたのはこのあゆだけど、ほかに金魚となでしこのお菓子があった。
みんな宝石のようなお菓子をみつめて、しばし我を忘れる。

どこかの山陰の清流の音や香りを思い出していました。

イマジネーションで味わう日本のお菓子。ほんとうに美しいですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月26日 (火)

なんでもない自分

会社辞めました。
どうして辞めたかはここで語るほどのことではない。
会社のことをあれこれ言うのも、別れた男の悪口を言うようで潔くない。

と、さらっと思えるようになるまで1ヶ月かかりました。
いつのまにか染み付いた灰汁のようなものを流すのに必要な時間だった。

しかし、会社を辞めた働かない自分というのはこう、宙ぶらりんな感じがする。
この感じ、いつかどこかで感じたことがあるなあと思い出すと、
それは大学を卒業したあとの日々であった。

就職はとりあえず決まっていて、4月からは社会人になる。
今まで長年「学生」をやってきたが、もはや学生ではない。
つまり今は「なんでもない自分」なわけだ。

人に説明するときに、なんと言えばよいのだろう。
「えーと就職待ちの学生上がりです」
なんともなさけない。

「学生」だったらキャリアも十分、いばって名乗れるところだ。
しかしこれからなる「社会人」としてはぺーぺーで、使えないただの22歳。
そう考えるとたいしたことのない自分がことさら不安だったなあ。

今、その当時と同じような気分でいる。
「わたくし、○○のはなみです」と所属するもののない自分。
こらからのこともまだわからない自分。

当時と違うのは、オットがいて息子がいること。
「○○の妻」「○○のおかあさん」というポジションがあるわけだ。

しかしこれはとっても危険だな。
チャレンジが怖いから目をつむり、そこに甘んじてしまう可能性があるからだ。
「こどもが小さいうちは側にいてあげなくちゃ」などというもっともらしい言葉も、弱気なこころにすうっと入ってきて腰を重くする。

そんなとき、あの社会人未満の自分が言っていた言葉を思い出す。

『どんなプロも、最初はみんな素人だった』

そう気がついてからどれだけ勇気がわいてきたか。

ずいぶん月日がたって年もとったけど、
あのころと同じ状況にいる自分が
あのころの自分に励まされている。

さあ、ゼロだ。今以下にはならない。気楽にやってみよう。

かーちゃん、未知なる世界にチャレンジ開始いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月23日 (土)

なんだか座りがわるいなぁ

デザインをかえてみました。眠るこどもは息子ちょびです。どーでしょう?

それにしてもブログ、始めたもののなんだか慣れない。
なんというか、もじもじするというか、スカートの下にパンツをはき忘れたような。
なんでだろう?
デザインがありていなテンプレートだからかなと思っていじってみた。

むー、ちょっとはよくなったけどまだしっくりこない。

よくよく考えてみたら、書く“立ち位置”が微妙なのであった。

今まで「広島話しまショウ」で小話を書いていたときには、内容こそド私的なものであったが、気持ち的にはオオヤケなものであった。
例えるなら、ステージの緞帳の前下座でざわつく観客に向かって「えーみなさまぁ」とぼそぼそ話す司会者のような気分だった。前座のあいさつだけどもできるだけ真心込めて、みたいな感じだった。

それがこう、タイトルも「はなみの・・・」なんつってまるで個人の日記になったとたん、楽屋裏で衣装を脱いで独り言を言ってるような、そんな気分。
ふりちんのまんまで偉そうなことを言ってるようで、恥ずかしいー。

その照れがこう、書くものをよれよれにしてるというか、居心地がわるいというか、
そんな感じなのであります。

まーこーなったら捕まるほどの勢いで粗末なものをお見せするとしますか。よろしく。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年7月21日 (木)

こどもの絵本、ちょっとすごい

息子が産まれてから、絵本をいただいたり買ったりすることが増えた。

不思議なもので、今までさっぱり忘れていたのに、本屋で突然お気に入りだった絵本を見つけることがある。

わたしが絵本を読んでもらったりしていたのはもう数十年前。なのにこうして本屋にあるなんて!

懐かしさもあって、息子にはまだ早いかなと思う絵本もついつい買ってしまう。

そんなこどものための絵本を長年編集されてきた福音館書店(現相談役)の松居直さんの手記を読んだ。(「編集とは何か」藤原書店)

こどもの本は、こどもが読むものなのに、大人が選んで買う。

ここに絵本の編集の難しさがあるのだという。

たとえば今でもベストセラーの『いやいやえん』、これを書いた中川李枝子さんは当時無名のひとだったけど、かつての絵本にはない文体だった。ぜひ絵本にしたくて、どうしてこんな文体ができるのかと尋ねてみたら、中川さんは保育園の保母さんだったのだ。

いつも子供の声をそばで聞いているから、イメージがはっきりしていて目に見えるような語り、そして息づかいがあるような文体がそこから産まれたのだ。

大人の視点で書かれたものではなく、こどもが読んで喜ぶものであることが大事、そのために文体と絵とのかねあい=「編集」が大事なんだと。

そして対談ではこうも話されていた。

今絵本を読んでいるこどもたちが大きくなった頃の未来には、今では考えられないようなことがおこっているかもしれない。少子化も歯止めがきかず、移民などの問題もある。

そんな世の中を生きるために、異人種、異文化、異言語をどう受け止めいかに共存共生するのか、そのための感性や知性を今のこどもたちの中で養い、将来に向けて備えをすること、これが絵本編集者の重大な課題である、と。

絵本を選ぶのに、それを読んで育つ息子の将来を考えて選んだことがあっただろうか。

「こどもだまし」なものを与えてはいなかっただろうか。

編集者の、こどもに対する愛と仕事に対する自負、すごいなあ。かっこいいなあ。

ここまで考えて絵本を作っている人の絵本、ぜひとも息子に読んで聞かせてやりたいと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月12日 (火)

これまでのあらすじ

さて、ブログなるものを始めてみましたよ。

そもそもこういうものを始めたのは3年前。
「広島話しまショウ」というサイトを立ち上げたのがきっかけでした。

当時はまだブログなぞ一般的でなくて、テキストだけで魅せる読み物サイトがにぎわっていたころです。
なんかこう、酒飲みながら話しをするっておもしろいよなー、なーんにも生産性はないがいいよなーというのをサイトでやったらどうだろう、しかも市井の無名の人たちのムダ話しが案外すごかったりするんだよなー・・・
これ、今じゃブログでこんなに簡単にできるんですよね。

わたしが会社を辞めたのもあって、この「広島話しまショウ」は8月末で閉鎖されることとなりました。
そこでこつこつ、ぶつぶつ、日々のイントロのつもりで書いてきた「小話」、このブログで続けてみることにしました。

「小話」書けば書くほど勉強になった。勉強というと大げさだけど、漠然と感じたことを書くことでみるみる輪郭がはっきりしていって、改めて自分の気持ちになっていくような作業だった。

ぽつぽつ見てくださる方も増えていって、恥ずかしいというか、もっと見てっという露出好きの性というか、まあとにかく書き続けていきますのでよろしくお願いします。


ぷは〜〜〜っ!!
ブログ立ち上げたのはいいけど、デザインしっくりこないし、慣れないし、うううう・・・
もうちょっとあちこちいじりたいのは山々だけど、
あ〜〜〜〜しゃべりたくってしゃべりたくってもう辛抱たまらんかった。

ああ勇み足、こりゃもう一生治らん持病でしょうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月10日 (日)

誰も教えてくれない出産:10.だからわたしは子を産んだ〜産もうと思った理由わたしの場合〜

(2005年06月23日に書きました)

結婚して数年たった夫婦は、必ずこう聞かれる。
「あかちゃん、まだ?」
例外なくわたしも耳にタコができるくらい聞かれた。
聞く方は、「二人のなれそめは?」的な軽いネタ振りくらいのつもりで聞いてくるのだが、聞かれる方はたまったもんじゃない。

結婚して数年たった男女は次のステップとして子どもを成し、2人、3人と家族を増やし、夏休みには家族でディズニーランドに出かけるのが世の中の常識だと信じて疑わない人が大勢いる。

しかし、子どもが欲しくない人だっている。
それに、欲しくてもなかなか授からない人だっているんだ。
なのに無神経な想像力のなさで、気軽に「あかちゃん、まだ?」などと聞かないでほしい。

わたしも、子どもはまだ当分欲しくない、と思っていた。

結婚した時、いつかは子どもを産むんだろうなとは、漠然と思っていたが、
それがいつかはぜんぜん想像もつかなかった。
遠い遠い先の話のような、あんまりちゃんと考えたくもないことだった。

だって、子ども産んじゃったら、なにもかもあきらめなきゃいけないじゃない。

やっぱり子ども産まれたら、手もお金もかかるし遊べないよなあ。どうせおしゃれもしなくなっちゃって、旅行に行ったり、おいしいもの食べに行ったりもできなくなるもんな。
仕事だって中断しなきゃいけない。こんな流れの早い仕事1年休むなんて、今まで積み上げてきたものぜんぶ台なしだ。

そんなデメリットを承知で子どもを産むメリットって、何?

子どもを持つ友だちにそう聞いてみた。
「かわいいよ」。答えはそれだけだった。

たったそんなものでこの多大なデメリットをあがなえるというのか?へっ?
そんな疑問に答えなんか出るはずもなく、共働き夫婦の気侭な生活は4年ほど続いた。

しかし。
それまで自分の中で一番大きなウエイトを占めていた「仕事」の状況が刻々と変化していった。
仕事をし始めて10年近くなる。
最初のうちはがむしゃらで、触ったら切れそうなそのころの私は、青臭くてアホ丸出しだが、原始的なパワーでそこそこのことをやってきたように思う。
なんとか一人前に仕事がこなせるようになったころ、周囲の状況が激変、会社も仕事もずいぶん様変わりしていき、それに流されるようにしてここまで来た。
そうして、数年。
あれ?わたし、こんな仕事がしたかったんだっけ?
なんだか最初の、憧れとか目標とかの世界から遠いところにいる自分に気がついた。
気がつけば、どうしようもなく傲慢で怠惰な仕事の仕方しかできない自分があぐらをかいて目をつむっていた。
社会人になって初めて、そんな状況にいやけがさしてきた。
もう、こんな自分いやだ。抜け出したい。
煮詰まってドロドロに考え込んでいた時、ふと、

こども産んでみようかな

なんてことが頭に浮かんだのだった。

32歳。そろそろいいのではないか。
オットもその前年、念願の開業を果たしたところで、家族のタイミングとしても申し分なかった。
ひょっとしてこれがわたしのタイミングなんじゃないか。
今が産み時なんじゃないか。

そうひらめいてオットに話をし、ほどなくして妊娠が判明した。
(うちのオットはエースストライカーと呼ばれている)

うわー!もう授かっちゃったよ!
あまりの急展開に我ながらびっくり。
でも、自分の体の中に、小さな心臓がぴくんぴくんと鼓動しているのを見た時、
理屈ぬきで嬉しかった。
体の底から震えるほど嬉しかった。

妊娠を報告した全ての人が喜んでくれた。
その喜びの反響の大きさに、一番驚いたのはわたしだった。
こんなに喜びをもたらすことだったんだ、コレって。

でも喜びの影で、まだ戸惑う自分がいた。
現状から逃げるために子ども産むなんて、卑怯だよなぁ。
将来子どもに「どうしてぼくを産もうと思ったの?」なんて聞かれて
「それはね、かあさんお仕事いやになったからよ」なんて答えられるか。
あかちゃん欲しい!と熱望したわけじゃないのに産んじゃって、
ちゃんと子ども、愛せるのだろうか。

などと考えていてもしかたがない。
もうできちゃったのだから、産むしかない!

頭を切り替えて、出産準備モードに突入。
仕事のことはもう、つつがなく引き継ぎを終わらせることだけ考えて、と。

さて次は・・・子どもができたら当分できそうにないことをかたっぱしからやろう。
旅行に行けなくなる、おいしいものを食べに行けなくなる、子どもができたらあれもこれもあきらめなきゃいけない・・・・

だんだん憂鬱になってきた。「死ぬ前にしたい10のこと」じゃあるまいし!!
そして鼻息荒く、心にかたく誓った。
なんでハナからあきらめなきゃいけないんだ。
子どもがいるからってやりたいことを我慢したりなんかしない!
絶対に今の生活スタイルを崩したりしないぞ!、と。


そして、出産。

産後のしんどい時期も過ぎて、今、やっと分かったことがものすごくたくさんある。

子どもを産んだらできなくなってしまうと考えこんでいたこと、
わたしの楽しみはたったそれっぽっちだったのか、と。

そりゃあ確かに身一つでぽいっと動けていた頃に比べて機動力は格段落ちた。
ベビーカーじゃエスカレーターも使えずエレベーターを待つイライラもつのる。
授乳のことを考えたらワンピースも着られない。
べろんべろんに酔っぱらって嫌なことを吹っ飛ばすような無茶もできなくなった。

だが、それにも増してわたしには、魅力的な世界が新たに広がったのだ。
たとえばこうして息子とぴったりそばにいる充足。これはまったく新鮮な喜びだった。
息子の匂いをかぎ、やわらかい手足をにぎり、体中でだっこしているとき、
ちょっとうまく言えないような充実感につつまれる。

「かわいいよ」、そう、子ども産む理由なんてその一言に尽きるのであった。
友だちの言ったことは過不足なく本当だった。
自分の子どもがこれほど愛しいものとは、想像をはるかに超えていた。
見た目は南伸坊似のおじさんくさい息子ではあるが、ただそこにいるだけでかわいい。
毎日、寝顔を見てはニヤリ、泣き顔を見てはぷぷぷ、笑顔を見ては泣きそうに愛しい。

しかもその息子が、何の疑いもなくわたしを心の底から信頼し、必要としてくれるのだ。
こんなふがいないかーちゃんなのに、だ。
そばにいてそっと触れると安心しきったなんともいえない表情をする。
これほど充実した気持ちは今まで味わったことがない。

結婚する前も恐かった。
二人の関係が変わってしまうのではないか、と。
そんなの、結婚してしまえばどーってことない心配だったとわかった。
子どもを産むのも、そうだった。
こうしてまた一つ、自分の中の問題がクリアになった。

仕事にしたってそうだ。
子育てをして仕事をしていない今の方が、はるかに見通しがよくて思考もクリアだ。
そう、仕事を休んでいるあいだ、せっかくのスキルがどんどん錆びていくようで恐かったけど、それは全くの杞憂であった。
“せっかくのスキル”なんてもったいぶっていた自分が小さすぎて恥ずかしいくらいだ。
もちろん、企画書制作などの実務から離れて1年、多少カンは鈍っているかもしれない。
でも、取り戻せばいままでよりもうちょっと深くなった懐から、なにか新しいものが取りだせそうな気がするのだ。

これから、またいろいろ頭を悩ます問題もたくさん出てくるだろう。

だいたい、逃げ出してきた「仕事」の問題も先送りしたままだし。
育児休暇明けには、ちゃんと向き合わなくてはいけない大問題だ。
息子を預けて働くとして、仕事と育児、ああ、自分が2倍になるわけじゃなし・・・

だけど、大丈夫。乗り越えてしまえばきっとどーってことないコトだ。
そう思えるようになった自分が、最近はちょっと好きになった。


今は、子どもを産んで本当によかったと、素直に思える。
この気持ちも、きっと誰も他人に上手に説明なんかできやしない。
だから、誰も教えてくれなかったんだ。

わたしはわかった。
だから、すべては老婆心から、こうして誰かに教えたかったんだ。

出産、これはたまらなく甘美な出来事なんだと思う、きっと。


《ひとまず、おしまい》

| | コメント (1) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:9.満足な出産とは〜産み方選び篇〜

(2005年01月14日に書きました)

産前のわたしが吟味して選んだ産院、スタッフの方々はみんな親切だし、個室はきれいだし、ごはんもおいしいし、大満足だった。

でも、大満足したのは「母親になる以前の自分」だった。
母になってみて、いかに「産むこと」の意味を知らなかったか痛感する。

出産が、まるでゴールのように思っていた。
それは大間違いで、出産は、あかちゃんとの生活の大事なスタートなのだった。
それが分かって産院を選んでいたとしたら・・・
産院選びはもう少し違っていたかもしれない。
よりよいスタートをきれる出産、それは一体どんな出産なのだろうか。


■産み方も、いろいろ選べるんだ

産後、ふと立ち寄った本屋で「贅沢なお産」というタイトルの文庫本が目に止まった。
漫画家の桜沢エリカさんの本だ。
おしゃれな彼女の“贅沢”なお産って、さぞやゴージャスな産院なんだろうな・・・と思いつつ手に取ると、帯にはなんと「セレブなエリカは自宅出産を選んだ」とあるではないか。

自宅出産!?
自分のうちで産むってこと!?

一昔前はみんなそうだったかもしれないが、今や病院で産むのが当たり前と思っていたわたしはびっくりした。
しかしさっそく読んでみて、納得。
病院での機械的な処置(会陰切開は当たり前、とか)に疑問を抱き、いろいろ調べて自宅出産にたどり着いたのだそうだ。

そしてその“贅沢”さは、産んだ後にあった。
それは、出産の翌朝、もうすでに家族の日常が始まっているということだった。

産んだあかちゃんが、そばにいて、ずっと一緒に過ごすということ。
誰からもなんにも指図されず、なんのスケジュールもなく、すべてあかちゃんと自分の都合だけで時間が過ぎていく贅沢。
これは考えてみれば当たり前のことだけど、ああ、うらやましいなあ、と思ったのだ。

わたしの場合、産み落とした後しばらく胸の上でだっこし、産湯をもらってさっぱりした息子にはじめてのおっぱいを含ませた。それはどのくらいの時間だったか分からないけど、その後息子は新生児室に連れていかれてしまった。
その晩は分娩台となったベットで一人、呆然として過ごしたのだった。

翌日も身体がしんどいのを理由に離れて過ごした。
その次の日も、夜は新生児室に預けた。
それは一見、疲れた身体にありがたいようでいて、実はわたしを母親になかなかさせなかった。
気持ちのどこかで、あかちゃんとずっと一緒にいるのがこわくて逃げていたといっても過言ではない。

もし、産まれてすぐの興奮状態からずっとそばにいたなら、はじめてみる息子の顔をもっともっとよく眺め、いとしい気持ちになって、母になる強い気持ちが産まれたのかもしれない。

それに、母乳スタートもつまづいた。
吸わせないからおっぱいも出ず、初乳もそこそこに新生児室でミルクを飲まされていた息子。

後に読んだ本には初乳の大切さが書かれていて、腸管をペンキのように初乳が覆うことで、アレルギーを起こす抗原が体内に入るのを防いでくれるのだという。その防護壁ができる前に、ミルクのような人間のタンパク質とは異なるものを吸収すると、アレルギーを起こしやすいのだとあった。
(参考文献:「育児の原理−あたたかい心を育てる−」内藤寿七郎 著 アップリカ育児研究所刊)

それを知ったからといって「ああッ!息子がアレルギーになっちゃう」などと神経質に考えたりはしないけれど、やっぱり息子の消化管をはじめて通るものは自分のおっぱいにしたかったなあ、としみじみ思う。

「あかちゃんは弁当と水筒を持って産まれてくるんだよ。だからさいしょはおっぱいでなくても大丈夫。とにかく出るまで吸わせてごらん。ミルクなんか足す必要はないんだよ。3時間おきなんて守らなくても、泣いたら吸わせる、でやってごらん」
そう誰かが教えてくれていたら、(そしてそれを実践するサポートをしてくれていたら)どんなに心強く、自信を持っておっぱい生活をスタートできただろう。


産み方に関していえば、他にも考えるべき点がたくさんある。

たとえば、陣痛促進剤の使用について。
これには様々な考え方があると思う。
ベッドの空き具合や勤務時間など、医者の都合で出産をコントロールされ“産まされる”感じがしていやだという人もいる。安全性に疑問を抱く人もいる。
しかし、ちゃんとした管理の元で適切に使えば問題なく、陣痛が微弱な場合、母体もあかちゃんも消耗してしまうことを考えれば母児安全のため使用すべきだと考える人もいる。

わたしなんか破水後数時間待っても自然な陣痛がつかなかったので、錠剤→点滴ともうバンバンに促進された。促進されまくって一挙に産んだ、という感じだった。
それがよかったのか悪かったのかはよくわからない。

以前テレビで見た「自然な分娩」をモットーとする産院での出産ドキュメンタリーでは、陣痛が始まったのに微弱で行きつ戻りつし、結局出産まで70数時間かかった。おかあさんとなった彼女は衰弱しきっていた。

ぎゃー・・・あの陣痛に耐えて丸三日。衰弱もするわな。
それを思えばがんがん促進してもらって早く産めてよかったかも、とも思う。


今、ほとんどの産院では、「自然な分娩」というより「管理された分娩」が主流だと思う。
分娩を管理するということは、方法も処置も画一的で一方的なことが多い。
それぞれの産院ではそれぞれの方法で、ほぼ全員に決まったやりかたで決まった処置をする。
日々出産を迎える多くの入院妊婦をサバくには、当然のことだろう。
それをよくよく承知の上で、そこからプラスオンのサービスや処遇を勝ち取るのは妊婦自身の責任と権利だと気がついたのも、これまた産後ずっと後になってからである。

たとえば、わたしが産んだ産院では、分娩待機時、胎児の心拍モニターの端末をおなかに巻き付け、機械につながれた状態で過ごす。
これは、先生が離れた場所で診察している時も常に陣痛の様子が監視でき、安全確実を目指す分娩管理としては当然の処置だ。
でもわたしとしては、ほんとは陣痛でもがき苦しんでいる間、部屋をうろうろしたりうつぶせになったりして、少しでも楽な姿勢を探したかったのだが、機械につながれて自由がきかなかったのであきらめ、ベッドの上でじりじりと過ごしたのだった。
今考えれば「これ、はずしてもらえますか?」と聞けばよかったのだ。
歩きまわりたいんです、うつぶせになりたいんですと要求すればよかったのだ。
でもしなかった。
出産という未知のトライアルは全部不安だ。だから全部“おまかせ”してしまった。
一事が万事、そうだった。ただ一方的に受け入れてしまった。

もっと疑問を持って、聞いて、納得したり改善してもらったりすればよかったのだ。
初めてのことだからこそ、自分のことだからこそ、受け身じゃだめなんだ。

出産は、自然か自然でないかが問題ではなく、どこで産むかが問題でもなく、
自分が理解して納得しているかどうかが重要なのだ。

そしてなにより、産んだ喜びをかみしめ、あかちゃんを心ゆくまで眺め、さわり、自信を持って子育てをスタートすること、これこそが出産にとって一番大事なことなんじゃないだろうか。
自宅出産とまではいかなくても、疑問を持って相談すれば説明して改善してくれるところが、そういう贅沢を許される産院が、探せば広島にもきっとあるはずだと思う。

産む前にこのことを知り、本当に満足な出産を手に入れられる人が一人でも増えればいいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:8.満足な出産とは〜産院選び篇〜

(2004年12月03日に書いた)

「あなたの出産、満足できるものでしたか?」
そう聞かれれば、「うーん、はい」と答えるだろう。
息子は無事元気に産まれたし、入院生活も快適だった。
なんの問題もない。

しかし、出産後の今改めて考えてみるに、出産前に分かっていれば、もうすこし自分の「お産」について違う考えを持ち、違う出産をしたかもしれないという事がいくつかあるのも事実だ。


■どこで産むか?産院選び

未婚の頃、産婦人科を受診するのはとても憂鬱だった。
誇らしげに待ち合い室に座る妊婦さんの視線がいやだった。
だからなるべく待たずにさくっと診てもらえる産婦人科がよかった。
今回もしや!?と思って確かめに行き、「おめでたですよ」といわれた産婦人科もそんなところだった。そこには出産のための入院施設がなく、出産する病院を紹介すると言われた。

そうか。産むところ、選べるんだ。
さて、どこで産むか。

ここはひとつ経験者に聞いてみるべし。
以下に聞いた話の一部をご紹介しよう。


「もう○○(某総合病院)は絶対やめといたほうがいいよ! 病気じゃないんだから甘えるなって、こっちは出産初めてで心細いし痛いししんどいのに、陣痛に苦しむわたしそっちのけで世間話なんかしてー!」

大きな病院だからそうだとは一概に言えないが、日々何人ものお産があれば、スタッフだって人間だ、ダレてくるのもしかたないだろう、なーんて冗談じゃない!肝心のホスピタリティはどーなっとるんじゃ!


「入院するなら絶対個室がいいよ。相部屋だといっつもだれかの赤ちゃんが泣いてて、だれかの見舞客がしゃべってて、出産の興奮さめやらぬママが話しかけてきて、ぜーんぜん寝られないから」

これはなかなか説得力のある体験談だった。個室かー、そうなると個人病院だろうなあ。

一方で
「□□(某公立総合病院)よかったよー。相部屋だったけど、みんな近所だったから退院したあともおうちを行き来する友達になれたしね。」

なるほどー。相部屋ならではのよさもあるのね。

総合病院で痛い目にあった彼女は、第ニ子は個人医院を選んだ。
「もう、産前の母親教室も充実してるし、LDRだったから分娩台に自力で登らんでもよかったし、病室もきれいでおしゃれだったし、なんてったって食事がおいしくて、退院前にダンナとのお祝ディナーまで用意してくれるのよ〜」

目をキラッキラさせて話してくれたその病院のサービスメニューはまさに至れり尽せりのゴージャスぶり。
ちなみにLDRというのは、Labor(陣痛)・Delivery(分娩)・Recovery(回復)を一つの部屋ですべて行う施設のこと。陣痛でうんうんいってるのにあっちこっち自力で移動しなければいけないのはかなりつらいらしく、この施設は好評のようだ。

いろいろ話を聞いて、「入院は個室で、LDRがあって、ごはんがおいしくて、スタッフが親切なところがいいなあ」というイメージが固まった。それであれば、ゴージャス個人医院でほぼ決まりだ。

しかしそういうところは当然、入院費もお高い。
広島市では出産一時金として30万円の補助があるが、公立の総合病院で出産すれば、それにせいぜいプラス4,5万で済むところ、ゴージャス個人医院ではプラス14,5万〜、という話だ。

以前は「けっ!バッカじゃないの、たかだか出産にそんなに金かけて!どこで産んでもいっしょなんだから、なるべく安く産んで、差額でうまい鮨でもくったほうがよっぽどええわ」、と思っていた。
ところが妊娠し、実際に数カ月後の出産をリアルに考える身になれば、
一生に何回出産する?せいぜい1,2回じゃない?だったら少々高くてもかまわん、
そんなことよりも、いかに快適に産むか、それが一番大事。数万円の差額なんて安いものだ。
そのために今まで働いてきたんじゃ!
・・・結局自分かわいさゆえ最大級の待遇を望んでしまうのであった。


というわけで電話帳をめくって個人医院を中心に、まずは電話でいろいろ質問をしてみた。
入院は個室?入院費用は?産前の母親教室はありますか?
いやー、電話対応ひとつでその病院のホスピタリティーのレベルが知れるから恐ろしいもんだ。
電話で邪見にされるようなところは現場でもぞんざいに扱われるにちがいない。

そして、すごく丁寧で親切な対応をしてくださった産院があった。
なんか、ピンときた。
ので、受診し、先生も施設も感じがよかったので、そこで産むことに決めたのだった。

その結果は? 大正解だった、と思う。
スタッフの方々はみんな親切で、きれいな個室で、ごはんもおいしくて、大満足だった。

でも、大満足したのは「母親になる以前の自分」だった。
母になってみて、いかに「産むこと」の意味を知らなかったか痛感する。

産んだら、あかちゃんがいるのだ。
産まれてきたあかちゃんにとってのベストは何なのか。
そんなことはこれっぽっちも考えずに、自分のことだけ考えて産む場所を決めてしまった。
出産が、まるでゴールのように思っていた。
それは大間違いで、出産は、あかちゃんとの生活の大事なスタートなのだ。
でもそれは、産んでみるまで分かりようがなかった。

それが分かっていたら、産院選びはもう少し違っていたかもしれない。

もし、「出産はあかちゃんとの生活のスタート」だと意識して産院を選んでいたとしたら・・・
よりよいスタートをきれる出産、それは一体どんな出産なのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:7.凱旋帰宅

(004年09月09日に書いたものです)

出産後、実家で養生させてもらった1ヶ月。
出産の疲れも少しずつ少しずつ、癒えてきた。
考えたって答えが出ない不安にも、開き直って立ち向かうくらいの気力も出てきた。
そう、もうそろそろ、自分の家に帰る潮時のようだ。

実家はいい。洗濯も掃除もごはんも自動的にやってくれてさー。
しかしそんな母の愛にべったり甘えてたら、自分がだめになる。
このままじゃいつまでたっても子供のままで、おかあさんになりきれないぞ。

それに、1ヶ月も離れて暮らしてるオットが遠い存在になりつつあって、ヤバイ!と思ったのだった。
家を空けてる間、洗濯もごはんも自力でなんとかしてもらっていた。
おまけに、オットは仕事終わりが遅いので、なかなか息子の顔も見られないさみしい日々。
仕事も忙しい時期でしんどかっただろうが、泣き言も言わず、好きなだけ実家におりんさいと言ってくれていたのだった。
それに甘えてオットのことはさておき、な日々。
すると薄情なものでオットのことを考えない時間がじりじりと増えていった。
息子の世話でじゃまんなる、と結婚指輪をはずしてたら、曇ってた。うわー!
そう、ほったらかしにしとくと、なんでも曇るのです。
夫婦の気持ちもほったらかしとくと、どんな夫婦でも曇るのだ。いかんいかん。

さあ、自分の家に帰って、自分の家族を始めなくちゃ。

両親に、そろそろ帰ろうと思う、と告げると、いよいよその時が来たか、という表情。
娘が帰ってきて華やいだ上に、かわいい孫までいた日々。
「なんだか嫁に出す時よりさみしいのぅ」
肩を落とす二人を見て、あれだけおっぱい問題に横やりをいれられてキーっと思っていたが、やっぱりこっちもほろりとしてしまう。それでも、帰らねば。

家に帰る日を決め、準備にとりかかる。

日中どうすごし、夜はどうやって寝るのか。ちょびのベッドはどこに置くのか・・・
頭の中で念入りにシミュレーション。

しかし・・・それより何より気になるのが、家の現状である。

退院して実家に戻る前、ちょっと自宅に寄ってみた時のことが思い出される。
リビングの植木は枯れ、新聞やコンビニの袋が散乱し、洗濯物は山になっていた。
うちのオットはいい人だ。仕事もできる。
しかし、掃除と料理のIQは限りなく低い。
あれから1ヶ月。
想像するだに恐ろしい。
果たしてそんなところに新生児を連れて帰れるのか?

電話で掃除してねと頼んでも、「ううん、わかってるよぅ・・・」と鈍い反応。
だみだこりゃ。
意を決して帰る前日、大掃除をしに自宅に戻ったのだった。

両親も手伝いに来てくれて、父が息子を見ているあいだに、母とわたしがちゃちゃっと掃除する、つもりだったが・・・
1ヶ月空けた自宅は想像を絶する荒れっぷりであった。
絶句する3人。
どこから手をつけたらいいのか途方に暮れる。
ひとまず、父と母には息子をつれて実家に帰ってもらい、1人で片づけはじめたのだった。

寒さも忘れて窓を全開にし、ゴミをまとめ、掃除機をかけ・・・
黙々と掃除しつつ、ふつふつと怒りが湧いてきた。
明日妻と息子が帰るっつーのに、なんじゃこの有り様は!てめーそれでも父親か!!
怒りのパワーを掃除力に換え、嵐のように片付けまくってぴっかぴかになったのはもうとっぷりと夜もふけたころであった。

とりあえず実家に帰り、明日の大移動に備える。

しかし、オットへの怒りは収まらない。あんなやつ、育児に参加なんかできるのか?
これからは母のサポートもなくなるのに。負担は全部わたしにかかってくるんだ。
大丈夫なんだろうか。
ちゃんと家族、できるのか・・・?

翌日。
凱旋帰宅にふさわしい、爽やかに晴れた朝。

ベビーベッドをばらしてひもで結んでいると、母がわらわらと荷物を運んでいく。
バスタオルに、おむつの買い置きに、ティッシュだのトイレットペーパーだのの消耗品、はたまた当座の米やらなんやら・・・
その荷物の量たるや、まさに2度目の嫁入りといったところだ。
よって、父の車で都合3往復することとなる。
母の心尽くし、ちとやりすぎのようだが、ありがたいことである。

その日はオットも休みで、晴れやかな笑顔で出迎えてくれた。
まったく、人の気も知らずに、と玄関に入ったとたん、
あったかい・・・
そう、かわいい息子に風邪ひかせちゃならんと、全館暖房で待機していたのだった。
そして、玄関にいつも並べて置いていたオットとわたしのサンダルの間に、ちょびっとの靴が、ちょこんと並べて置いてあったのだ。
いそいそと靴を並べるオットの姿が目に浮かぶ。そして涙も浮かんできた。
オットはこの日をどれだけ待っていただろう。
寒い部屋で息子のことを思いつつ、カップラーメンをすすってがんばっていたのだ。

「ただいま・・・」「おかえり」
やっと帰ってきた。ちょびっと連れて。
さあ、家族のはじまりだ。
新米のパパちんとかーちゃんとちょびっと、3人で始めるのだ。
これから、よろしくね。

運び込まれた荷物の山をかき分けるようにして、どうにかこうにか寝床をつくる。
差し入れてもらった天丼を食べ、お風呂に入り、親子3人で寝る。
「すごいね、川の字じゃね」
「なんか家族って感じじゃね」
ふにゃあふにゃあと泣く息子の声がこだまするこの部屋も、見なれているはずなのになんだか新しい場所のような気がする。
収まるところに収まったような安心感と、大移動の疲れとで、すぐに甘い眠りに落ちたのだった。

自宅に帰ってきて数日、山のような荷物を少しづつ整理し、使い勝手のよいように片付け、暮らしのリズムもつかめてきた。

オットは離れていた今までの時間を取り戻すかのように、チューしたりだっこしたり、もうちょびっとにメロメロである。
予想に反して自分から進んであれこれ手伝ってくれるし、気を利かせてぱっと立ち回ってくれる。
パパちんになったんだもん、と、すごいはりきりようである。
やっぱり心の底から信頼して、甘えられる人が側にいてくれるのは、ほんとうに心強いものだ。


ある日、もう春の気配がいっぱいの日ざしが差し込むリビングで、眠る息子の顔をしみじみ眺めていた。
これが幸せというものなのね。
幸せが、ちいさく丸まって、やわらかな光の中で寝息をたてている。

出産からいままで、しんどいつらいばかりで、こんなにゆっくりした気分になかなかなれなかった。
よくがんばったなあ、自分。
ものすごい御褒美が、今、目の前で眠っている。
もうすぐ目がさめれば、ぱああっと笑ってくれるだろう。
こんなに満たされた気持ちは、初めてかもしれない。
これも、産んでみるまで分かりようがなかったことの、一つである。

《続く》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:6.産後重後〜実家養生篇 その2〜

(2004年09月01日に書いとった)

出産後、実家で始まった養生生活。
家事全般一切しない、心身共に癒される日々。
のーんびりらくちん、こりゃええわい、と思ったのものつかの間、
実家での1ヶ月間はいろんなことがプレッシャーとなってのしかかる悩ましい日々となったのだった。

そのトップバッターは「息子の体重増えてない事件」。
退院後の一週間検診で「体重が増えてないじゃない!」と先生に怒られた、あのショック。
自分で産んだ息子をロクに育てられてないじゃない!母親失格!とでも言われたくらいの衝撃だった。
あかちゃんを育てるっていうコトの重大さを、わたしは分かっていなかったと痛感。
植木に水をやるのと訳がちがう。
人間の命を、育てなくちゃいけないんだ。
ああ、枯らしちゃった、なんてわけにはいかないのだ、絶対に。

そして、息子宛に1通の手紙が届いた。
びっくりしながら開けてみると、住基ネットの個人番号が記された書類だった。
出生届を出したから、日本国民として登録された、現在の制度では当然のことである。

しかしそれはわたしにとってちょっとこわいことだった。
“わたしのあかちゃん”を超え、公的に認められた1人の“人間”となったのだ、息子は。
わたしの一存でどうこうできる存在ではなく、もっと大きなもの・・・家族とか、親族とか、地域とか、国とか、人類とか・・・そういうものの共有財産を託され、育てなきゃいけないんだ、わたしは。

そんなこと、このわたしにできるのか?

すやすや寝てばかりいる息子をあらためてしげしげ見る。
突然死してるんじゃないかと寝息を確認したり、髪をなでたりしてみる。
しかし、そんなことぐらいしかしてやれないのだ、わたしは。
あんまりに情けない、これで母親と言えるのか、わたしは。


たたみかけるようにやってきたのは「おっぱい問題」。
「おっぱい、足らんのんじゃない?」
母乳で育てたいわたしと、安定供給できないおっぱいを見兼ねてミルクを足したがる両親との葛藤。
実の親だけに心境は複雑だ。
親の言うことは聞きたい。親の言うことだから正しいと思いたい心理も働く。
しかしここでミルクを足していたら、おっぱいちゃんと出なくなってしまう。
それにこれはわたしの息子だ。どうしていちいち口をはさむの!
わたしががんばろうとしてるのに、どうして信用してくれないの!
と激高してしまいそうになる。
それはひとえに、不安と自信のなさから来る気持ちだった。

入院中は、先生や看護師さん、いわばプロの方々の献身的なケアに支えられて、もしもの時はなんとかしてくれる、と大船に乗ったような気で、つまりどこか人任せな甘えた気持ちで過ごしていた。

しかし、退院したらそれがないのだ。
確かに両親は自分を育ててきた。しかし三十数年も前の新生児を育てた頃のことなんて、きれいさっぱり忘れている。(と、本人が言うのだから間違いない)

入院していた時には、同時期にママになった人たちとのおしゃべりも心の支えになっていた。
退院したらそれがない。

なんだかほんとうにひとりぼっちになってしまったような気がした。

あんなに忙しかった入院生活が懐かしく思い出されて、まるでホームシックのような感じだった。
その病院では午前中に病院のテーマソングが流れるのだが、なんともやさしくて、ちょっと憂いを含んだいいメロディだった。
それが今、頭の中をぐるぐる鳴り響いている。
病室のにおい、新生児室の明かり、スタッフの方々の笑顔・・・
懐かしく思い出されて泣けてくる。

ほんとにわたし、大丈夫なんだろうか。
ちゃんと育てられるのだろうか。
おっぱい、ちゃんと出るんだろうか。
からだ、いつになったら楽になるんだろう。

そう、退院後も体はぜんぜん癒えないままだった。
会陰の傷もまだ痛いし、手がしびれて字も書けない。貧血もひどくて立ちくらみもする。
そりゃ弱気にもなるわな、こんだけしんどけりゃ。

オットの仕事が終わるのはいつも夜9時10時。
だから帰りに息子の顔を見に寄ることすらままならないでいた。
休みの日も、ちょうどそのころ確定申告の時期で忙殺されていて来られない日も多かった。

しょうがないので、ケータイメールで息子の画像を送ったりした。
ほんとは会いたいし、話もきいてほしかったのに、オットもがんばってるんだからと無理矢理大丈夫なふりをしていたけれど・・・

ある夜、こらえきれなくて、泣きながら電話をかけた。
寝ている息子や両親を起こさないように、真っ暗なリビングでしゃくりあげながら話した。
オットが、
「結婚する前みたいじゃね」と言った。
そう、結婚する前もなにかというと深夜に電話をかけて、会いたい会いたいと泣いていたのだった。
「でも、今はもう、おかあさんじゃもんね」

おかあさんじゃもんね。

なんだかわたしは自分のことばっかりめそめそ考えて、恥ずかしいくらいだ。
そう、わたしはもう、おかあさんなんじゃもんね。
なんか、もっとどーんとしっかりせんと、おかあさんじゃないよね。

貧血をなおしていいおっぱいを出すために、明日からいっぱい食べよう。
よく寝て体を早く治そう。
泣いたら息子をいっぱいだっこしよう。
息子のどんな表情も見逃さないようにしよう。

新米かーちゃんに、今できることをちゃんとしよう。
ちゃんとしたおかあさんに、なるんじゃもんね。

それからはもう、めそめそ泣いたりすることはなくなった。
自信がないのは、自分を信じてないからだ。
大丈夫、がんばれる。だってわたしはおかあさんじゃもん!

実家で暮らした1ヶ月。
そろそろ自分の家に帰らなくちゃな、と思いはじめていた。

《つづく》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:5.産後重後〜実家養生篇 その1〜

(2004年08月30日に書いたです)
退院後、約1ヶ月間実家で養生させてもらうことにした。
オットには申し訳ないが、当分自分のことは自分でしてもらうとして、
わたしは実家で体を休めつつ息子のことだけして過ごそうと思ったのだ。

リビングの横の6畳の和室が、わたしと息子の部屋として用意されていた。
両親もはりきって掃除して、万全の体勢で迎えてくれたようだ。
さっそく“巣づくり”。
ベビーベッドはここでふとんはこう敷いて、本はここで荷物はこう積んで・・・
異様な神経質さでモノをならべ、居心地のいい“巣”をこしらえた。
これは動物の本能だろうと思うが、赤ん坊を守るテリトリーをやっぱり必要とするのね。
実家の両親も気を使ってくれて、わたしが自分からリビングに出ていくまで決して部屋を覗いたり、戸を開けたりしなかった。それだけわたし自身がピリピリしていたんだと思う。

さて、始まった実家生活はあまりにのどかだった。
病院でのあわただしいスケジュールはここにはない。
寝たければ寝て、食事も食べたい時に用意してくれる。
やった〜!やっと心身共にゆっくりできる〜。

とりわけ母の献身的なサポートはほんとにありがたかった。
朝昼晩の食事も貧血ぎみな娘のためにあれこれ考えておいしくつくってくれ、
孫と娘が起きてるわずかなすきに布団を干して掃除して、息子の汚れ物も嬉々として洗ってくれた。
いや〜有り難や有り難や。
まさに上げ膳据え膳。極楽ですわ。
父も仕事が終わったらすっ飛んで帰ってきて、でれっでれの顔で息子を眺める。
母と争うようにだっこしあって、甘〜い声であやしている。
そんな様子をみると、実家で甘えさせてもらいつつ、かつ親孝行までできているようでうれしかった。

息子が寝てる間は母とお茶などしながらテレビを見たり、雑誌をめくったり。
この家で暮らしてた独身のころを懐かしく思い出しながら、ゆったりと過ごした。

そのころ息子は驚異的な眠り力を発揮、授乳時間になっても爆睡したまんま、ということが多くなっていた。
わざわざ起こすのもかわいそうだし、かーちゃんものんびりしたいので寝たいだけ寝かし、結局1日の授乳回数は5・6回、という日々。


そして退院後1週間健診。
なんと・・・そこで先生に怒られちゃったのである。
いや、寝耳に水の衝撃。
この時期1日にだいたい30g増えてないといけないのに、この1週間あまりに増えてない!と。
確かに退院までは1日30gペースで増えていたのに・・・
やっぱり寝かせ過ぎだったか・・・
授乳回数も最低でも1日7回はないと!とハッパをかけられてしまった。

これにはかーちゃんかなりショック。
たった1週間ぽっちもちゃんと育てられてないじゃん!
早くも母親失格じゃん!!
ううう、明日からは時間が来たらむりやり起こしてでもおっぱい飲ませなくっちゃ・・・。

そして「おっぱいノイローゼ」の日々が始まった。

相変わらず病院で習ったあの授乳儀式を正直にやっていたのだが、体重が増えてなかったショックもあって、1回につくるミルクの量を増やすことにした。
それまでの40cc→60ccに。
それでも息子はぺろりと飲んで哺乳瓶を空にするではないか。

それにミルクは腹もちがいいのか、また爆睡し続ける。
授乳時間にむりやり起こしておっぱいを含ませても、ねぼけているのかあんまり吸わない。
それなのに60ccのミルクは完飲するのである。
ミルクを80ccにしてみようと思ったところでふと気付く。

もしやこれは・・・・「おっぱいのデフレスパイラル」なのでは!?
→ミルクたくさん飲む
→おなかへらない
→おっぱい吸わない
→おっぱいつくられない
→おっぱい出ない
→ミルクの量を増やす
→ミルクたくさん飲む
・・・・

こっ、これじゃあおっぱい出なくなってしまう!
もっとおっぱい吸わせないと!

でも・・おっぱいやっぱり出てないんかなあ。
体もしんどいし、乳首も切れて痛いんだよなあ。
息子の体重増やさねばならんし・・・
も、もういっそのことミルクオンリーにしてしまうか???
・・・弱気になっておっぱいをあきらめようかとも思った。

でも、やっぱり本能が納得しない。
自分の子供を自分のおちちで育てるというあたりまえのことが、
なんでわたしにできんのか?
なんで湯でといたような粉ミルクを飲ませんといけんのか?
そりゃあ今や粉ミルクも優秀なんだろうけど、やっぱり母乳にはかなわないと聞く。
サルでもできるおっぱい、わたしにできんはずがない。
やっぱり、やっぱり、母乳で育てたい!

夜中に友人からもらっていた母乳育児の本を読んでみる。
「出ないおっぱいはない」 ふんふん。
「泣いたら吸わせる、それをくり返せば必ず出る」 そ、そうか。
そして、赤ちゃんは「弁当と水筒を持って産まれてくる」といわれていて、母乳が出るまでの数日は自力でがんばれるんだとも書いてあった。
1日何グラム増えてないとダメ、なんてくよくよ考えるのはナンセンス、だとも。
じゃあ、その弁当と水筒が有効な産後2、3日のうちに、とにかくおっぱいを吸わせ続けて母乳分泌を促さないといけなかったんだ。
もう過ぎたことはしかたないけど、今からでもとにかく吸わせて吸わせて刺激してもらって、そしたらきっとおっぱいちゃんと出るようになる!
なめるように何度も何度も、自分に暗示をかけるかのごとくその本を読み返した。
そして、ミルクの量をちょっとずつ減らし、授乳スケジュールなんか無視して、はいよ!はいよ!とおっぱいをだしては吸わせるのをがんばって続けてみたのだった。

そうこうしているうちに1ヶ月健診がやってきた。
体重は・・・ものすごく増えていて、元気そのもの!と太鼓判を押されたのだった。
よかった〜!「かーちゃん失格」免れた!
おっぱいもちゃんと出てたんだ!
これがちょっぴり自信となり、とうとう、思いきってミルクを足すのをやめ、母乳だけでやってみることにしたのだった。

翌日からは母乳だけ。これがなんとラクで楽しいことか!
いちいちミルクをつくる手間もなく、授乳スケジュールに縛られることもなく、あの授乳儀式もせんでもよく、ただただ、息子の表情だけを眺めていればいいのである。
泣いたら、ほれっ、ぽろりと胸を出し、思う存分吸わせればいいだけだ。

と、簡単そうに書いたが、そのころまだ授乳に慣れていないわたしの授乳スタイルはもう大変。
片乳ずつ出せばよいのに、もろ肌ぬいで両方だしてスタンバイ。
あちこちにクッションをあててポジションをキープし、肩に力が入りまくった授乳であった。

母乳はミルクよりもすぐにおなかがすいてしまうので、泣く回数も当然増える。
そのたんびにまたかーちゃんはもろ肌脱いでクッションを・・・

そんな様子を見ていた両親が思わず口をはさんだ。
「おっぱい、足らんのんじゃない?あんなに再々泣いてかわいそうな。ミルク飲ませたら」
と、勝手にミルクを作ってくる。
息子もこれまたごくごく飲み干す。
両親は得意げに「ほら!おなかすいとったんよ。かわいそうに」
「おっぱい、ボロいけ出んのんじゃないの」と、こうだ。

確かにおっぱいの出にはすごくムラがあった。
ぱんぱんに張ってぽたぽた漏れるような時もあれば、しょぼーんとしていかにも出てない時もある。
今はおっぱいもがんばって需要と供給を調整してるんだ。
それなのに「ボロおっぱい」呼ばわりされるとは・・・トホホ。

わたしを育てた母の世代は、ミルク全盛の時代だったらしい。
母乳の研究がまだ十分に進んでおらず、栄養バランスのよいミルクで育てるべし、という指導がされたし、病院でもミルクを勧められた、そんな時代だったのだ。
だから、こんないい時代のいいミルクがあるのに、母乳に固執する娘が不思議でしょうがないといった感じなんだろう。

たしかに今の粉ミルクはよくできているらしい。
それでも、ミルクメーカーの栄養指導員が「母乳が一番」と認めるほど、母乳の成分はあかちゃんにとって素晴らしいものなのだ。
だからここ数年、母乳育児が再認識され、産婦人科でもこぞっておっぱいで育てましょうと指導しているのである。

と、理路整然と説明する余裕もなく、自分のやり方を否定されたくやしさでカチーン。
まあ、両親だって孫可愛さに口出しするんだから・・・
ぐっとこらえて部屋に閉じこもる。

普段なら冗談で笑い飛ばすところだが、産後のこのゆらゆら精神状態ではムリだった。
ただでさえ何もかもはじめてのことで、自信も確信もない育児。
ほんとに大丈夫なのだろうかとすごく不安なのに、それでもおっぱいがんばろうって思ってるのに、「おっぱい足らんのんじゃない?」この一言はどれだけ私を否定し、傷つけ、自信をなくさせたかちょっと分かってもらえないかも知れない。

自信が持てない育児、プレッシャーがますます心に重くのしかかる。
それは、おっぱいだけじゃなくて、わたしは本当にしょぼーんとなってしまっていた。

(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:4. おっぱい、いっぱいいっぱい

004年07月28日
「痛いっ!もっとやさしくしてぇーん!」

・・・やさしくしてほしい相手は息子である。

あかちゃんがおっぱいを吸う力はものすごく強い。
ためしに十円玉を含ませたら曲げて出しそうなくらい、強い。(鯉じゃないんだから)
この吸引力に冗談で対応できるような余裕が出てきたのはつい最近。
現在、息子とのおっぱいライフ6ヶ月。ここに来るまで紆余曲折。
おっぱい、あなどれない大問題であった。


妊娠中、産婦人科の母親学級の科目の一つに「おっぱい指導」というのがあった。
おっぱいを人任せにせず、自分できちんと管理して、つつがなく母乳育児をすることを学ぶその教室では、「おっぱい体操」というマッサージを習った。

おっぱいって、血液から作られるんですね。
だから、おっぱいをマッサージして血液循環をよくすることが大切なんだそうだ。

妊婦が一同に会して片肌脱ぎ、真剣に自分のおっぱいをマッサージする様は壮観であった。
ああ、わたしたちってホ乳類なのね。
マッサージは真面目に習ったし、家でもお風呂上がりにきちんとやった。

妊娠末期、自分のおっぱいをしげしげ眺めてちょっと不安になる。
ほんとに母乳出るんじゃろうか。まるでその気配すらないが。
おっぱいの出にその大小は関係ないとは聞いていたので、微乳のわたしとしてはひとまず安心していたのだが、自分のおっぱいの先から母乳が出るなんて、ぜんぜんイメージが湧かなかった。
それでも、心のどこかで「ま、産まれたら、そのうちでるんだろう」と楽観していた。

そしてとうとう出産。

あかちゃんは生後1時間ほどははっきりとした覚醒状態にあるらしい。
その後深い眠りに落ちてしまうので、その前に最初の授乳、というかおっぱい挨拶をする。
この時の乳頭とのふれあいがあかちゃんに刷り込まれ、その後の授乳もスムーズにいくようになる、らしい。

産まれてすぐ、さっそくおっぱいを含ませてみたけど、息子はまぶしそうな顔をするばかりで、いっこうにおっぱいを吸おうとしない。疲労困ぱいでそれどころじゃない感じだった。
まあ、ゆっくりいきましょうや。かーちゃんものんきなものである。

その数時間後、母子同室となり母乳育児のスタート、となるはずだった。
しかし、多量の出血のためふーらふらで同室は無理と判断され、息子は新生児室へ。
丸1日離れて過ごすことに。

2日目昼頃からようやく授乳スタート、しかし、おっぱい出ない!

出産して胎盤が出ると、おっぱいを作るのを抑制するホルモンが一気に減り、おっぱい分泌スタンバイOK状態になる。でもそれに加えて、あかちゃんに乳頭を吸われる刺激が必要なのだ。それがないとおっぱいを分泌させるホルモンが十分に出てこないのだそうだ。

吸われなければおっぱいつくられない。つまり、おっぱいを出すにはとにかく何度も何度もおっぱいを吸わせることが大事なんだそうだ。

ところが、わたしはしんどいのをいいことに授乳開始を遅らせ、夜間も3日目も4日目も新生児室に預け、その間息子はミルクを飲まされ、何度もおっぱいを吸わせる機会を逸した。
それじゃ出るものも出ないで当然だったのだ。

それに、入院生活では「何度も何度もおっぱいを吸わせる」ことが自由にできる状態ではなかったのだ。

わたしが入院した病院では、3時間ごとのきっちりした授乳スケジュールが組まれていた。
2:00 5:00 8:00 11:00 14:00 17:00 20:00 23:00、1日8回の授乳。

そしてその授乳の手順はこうである。

《授乳時の手順》
(1)手洗い→おむつ交換→手洗い
(2)おっぱいマッサージ(基底部マッサージ3クール、乳頭圧迫左右5分ずつ)
(3)清浄綿で乳頭を拭き、直接母乳を吸わせる
 母乳を吸わせる時間:産後2日目は左右3分ずつ、3日目は左右3分ずつを2クール、産後4日目以降は左右5分を2クール
(4)排気させる(げっぷ)
(5)搾乳する(搾乳した母乳を哺乳ビンで飲ませる)
(6)ミルクを作って飲ませる
(7)排気させる
(8)オムツ交換→手洗い
(9)哺乳記録をつける 
  終了

これひと通りこなして、軽〜く1時間はかかります。
あかちゃんを触ることすら慣れていないのに、もう大変。
しかも加減が分からないもんだからこの手順をバカ正直に全部やっていたのだ。
それがアダとなり、そのうちだんだんこの授乳儀式が苦痛になってきた。

まだ息子も吸い方がヘタでおっぱいをうまく吸えないし、わたしもだっこがヘタでいいポジションになかなかできない。吸ったって出てないようで、むずがって泣く。
さんざん格闘した後、ミルク作ってのませるとなんとも平和な顔でごくごく飲むじゃないか。
あーもうおっぱいやるのいやになった!

そもそもあかちゃんは機械じゃないんだから、3時間きっかりにおなかが空くわけじゃない。
この授乳タイム以外にもにゃあにゃあ泣くことだってある。
そんなとき新米かーちゃんはおろおろして、次の授乳タイムを祈るようにして待つのだった。

今考えたらアホである。
泣いたらホレ、と、ぽろりとおっぱい出して吸わせりゃよかったのである。
でもその時は言われた通りにきちんとしないといけないんだと思い込んでいたし、あかちゃんのニーズに応えようなんてそんな機転もきかないほどいっぱいいっぱいだったのだ。

それに追い討ちをかけるかのように、おっぱいに異常発生。
おっぱいが、かっちんかちんの石のようになり、熱を出したのだ。

おっぱいをつくらなきゃ!とはりきって分泌を始めたものの、乳管がまだよく通らず、おっぱいが中で溜ってパンパンになっちゃったのである。
おっぱいがカーッと熱を持つ。ボディビルダーの胸筋のようにかっちかち。
あまりのつらさに眠れず、ナースステーションに助けを求めに行った。

「あら〜、もうこうなったら冷やしつつ搾って出すしか方法はないわね」
看護師さんにおっぱいを搾ってもらうのだが、その痛さったら!
陣痛の痛みよりイタ〜イ!
絞り出すようにうめき声が出る。
はあ情けない。こうして人様に乳しぼりされるなんて。
ほんと、おっぱいより涙のほうがたくさんでました。

その後、おっぱいを冷やす専用のアイスノン(Cの形になってる)をあてて冷やすがすぐにぬるくなる。朝までナースステーションの冷凍庫と病室を足をひきずりつつ何往復もした。

おっぱいの分泌を押さえる薬をもらい、なんとかかちんかちん状態を脱し、熱も引いたのは退院する少し前。
そのころには別の問題が発生。
あの、鯉のように強い吸引力で乳首が切れてしまったのだ。

普段、そんなに強い力で乳首吸われ慣れてる人なんかおらんでしょう(おるかもしれんけど)。
そんなデリケートでやわらかい部分が擦り切れ、真っ赤になって傷になる。これがまた痛いのなんの。
シャワーを浴びるのすらもしみて痛いんじゃもん。
ステロイドの塗り薬をもらったけど、息子の口に入るかと思うと大丈夫と言われてもなんだか塗るのもためらわれ、乳首の乾く間もなく次の授乳という状態では良くなる暇もなし。
授乳のたびに息子に含ませるのが恐くて苦痛だった。


・・・はあ。
こんなにも痛くてしんどくてめんどくさくて大変な思いをしてまで母乳にする必要があるのか?
あたりまえの疑問が浮かんだ。
いちいち痛い思いをしておっぱい吸わせたあと、どうせ足らなくてミルク作って飲ませなきゃならないんだもん、ミルクだけなら楽なのになぁ。

退院時にミルク1缶と哺乳瓶をおみやげにいただき、非常に腑に落ちないものを感じる。
やっぱり母乳じゃなくてもいいってこと?

退院後は実家にて、息子との新生活がスタートした。
そこでも頭を悩ましたのがこのおっぱい問題だったのである。


《続く》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教えてくれない出産:3.産後重後 〜入院生活篇〜

(2004年06月26日に書いたんよ)
人生最大にして最高の瞬間、出産。
その余韻に身も心もしびれるような気分で一夜を過ごした、翌朝。
それから「産後」が始まった。

7:00、朝ごはん。うまい! さあ、これから新しい生活が始まる、そんな高揚した気分で完食。
看護師さんに車椅子にのせてもらい、自分の部屋に移動。
ごはんがおいしいよとの評判と、病室は個室だということでこの病院を選んだのだった。
事前見学会で見たその部屋は、こじんまりとシンプルなインテリアで居心地がよさそうだった。

わくわくハイテンションで看護師さんと話していると、
「いやー、こーのさん一番出血ひどかったのに一番元気ね!ごはんも残さず食べてたし」
「え?」
通常分娩では500ml程度の出血が普通らしいが、わたしはなんでも1000ml近く出血したらしい。
「先生も心配してたけど、元気そうでよかった!」

・・・いやいや。それ聞いて一挙に元気じゃなくなりましたとも。
部屋にて点滴を受けながらしみじみ具合が悪くなってきた。
1000mlつったら牛乳パック1本分だよ、そんなに失血して大丈夫かわたし?
お昼ご飯はサイコロステーキ。食欲はなかったけど「血つくらねば」と必死に食べる。
午後、息子つれてきてもらい顔を見るが、「母子同室はまだムリね」と新生児室へ。
大貧血の頭はふーらふらで、その日はぽかーんとして終わった。

出産したら、そりゃまあしんどいし痛いだろうけど、2、3日で元気になるものだと勝手に思い込んでいた。
それはあまりに甘過ぎた。
むしろ出産よりも産後の方が過酷だと思い知るのに、そう時間はかからなかった。

まず気がつくと全身筋肉痛。ふんばりまくってがんばったせいで、腕足肩背中、あらゆるところが悲鳴をあげている。内臓の平滑筋まで筋肉痛になったかのようだった。
もちろん、会陰の痛みも生半可なものではない。切って縫っているのだからにして。
ドーナツ型のクッションなくしては椅子にもすわれない。寝てても痛いし起きても痛い。
え、これで排尿?冗談でしょ?しかもその後清浄綿で消毒?信じられない。
重度の貧血で、腕の上げ下ろしだけでも目がまわる。頭がずきずきする。

満身創痍って、今の自分のことじゃわい。

にもかかわらず翌日から怒濤のような入院生活が始まった。
ある一日(入院3日目)のスケジュールをざっと書き出してみる。

6:00  起床、検温、朝の身支度
7:00  新生児室にあかちゃんを預けてラウンジに移動、朝ごはん 
8:00  新生児室に迎えに行き部屋で授乳 
    この「授乳儀式」慣れないもんだからやたら時間かかる
    先生回診、片ちち出したまんま応対
9:00  処置室にて会陰抜糸 え、もう抜いちゃうの?涙でるほど痛し
    哺乳瓶の交換、部屋の清掃などで人が出入り
10:00  他の日はこの時間、会陰の消毒、点滴、授乳指導、沐浴指導など
    日替わりスケジュール
11:00  そうこうしてるうちにまた授乳
12:00  うわもう昼だよ
    新生児室にあかちゃんを預けてラウンジにてお昼ごはん
13:00  粉ミルクの調乳指導などがある日もあった
    母が差し入れ持ってくる
14:00  またまた授乳
15:00  いつもは3時のおやつ(紅茶とお茶菓子を部屋でいただく)の時間だが
    今日はエステ! フェイス&フットマッサージを受ける
    むくみまくった足に心地良いマッサージ
    なんにも考えずしばしうっとり
16:00 友人がお見舞いに来てくれる
    義母も孫の顔見に寄ってくれる
17:00  またまた授乳 あれ?おっぱいに異変
    異様に張ってきたような
18:00  新生児室にあかちゃんを預けてラウンジにて夕ごはん 
    食後迎えに行き、部屋でやっと一息 すこしうとうと
20:00  授乳 
    オットがくる 親子3人で過ごす
    寒い家に帰らなきゃいけないパパちんを見送り
23:00  授乳 いよいよおっぱいかちんかちんに
    痛いのにがんばって授乳
24:00 ひとまず就寝 
    息子泣いておろおろ 寝られず
2:00  授乳 おっぱいが熱もって震えが止まらない
    ナースステーションに助けを求めに行く
    アイスノンで冷やしつつ横になる
    すぐにアイスノンぬるくなり交換しに行く
5:00  授乳 ああ、もうすぐ朝だ・・・


お気付きでしょうか。ほとんど寝てません。
あーもうとにかく泥のように眠りたかった・・・
しかしスケジュール満載で横になることすらもままならない。
あっちこっち痛いから、小腰をかがめてずりずりのろのろとしか歩けない。
そんな体にムチ打ってスケジュールをこなしていくのである。
もう、感覚的には「分刻み」でこなしているような慌ただしさ。

そもそも「授乳」についてはまた改めて書くが、その儀式、優に小1時間を要する重労働。
慣れないし体痛いしでのろくさしてたら、うわ、もうごはんだ行かなきゃ、うわ、点滴の時間だ、うわ、お見舞いありがとう・・・そんなこんなでベットで横になれるのもほんのひとときだけ。
ああ体を休めたい・・・なにもかも忘れて眠りたい・・・
おいしいごはんを上げ膳据え膳であかちゃんとまったり、などという予想を鮮やかに裏切られた入院生活であった。

そんな入院生活で心のささえになったのは、スタッフの方々のやさしいケアと、同時期にママになった人たちとの交流だった。

自分が出産したその日、ほんのわずかな時間差で出産したママがもう2人いた。
授乳指導で授乳室に行った時に対面し、「あ、もしかして隣で産んだ・・・??!!」
がっちり握手。もう、同志よ!という心強さであった。
ごはんも体がしんどければ部屋食にもしてもらえるのだが、なんとなく重い体をひきずってラウンジに行くのは、みんなと話ができるから。
「もうおっぱいがカンカンに張っちゃってさー」
「あ、うちも〜〜〜!!!」
ああ、みんなしんどいのよね。話せば気持ちは少し楽になる。
同じ痛みを持つもの同志、気持ちも分かち合えるようだった。


そんなこんなで入院4日目、体は癒えるどころかますます具合が悪くなっていた。
血液検査をすると貧血がさらにひどくなっていた。
今日こそはよくなってると思っていたのに、がっくりである。
体を動かすたびにふわふわし、めまいがする。
筋肉痛もまだ治らない。
おっぱいが緊満してうっ滞し、発熱が続く。
足がむくんで象のようになり、痛くて歩けない。
手に力が入らなくなり、字が書けなくなった。

体がつらいと心もつらくなってくる。
マタニティ・ブルーというやつがやってきた。

体の中では出産を境に、恐ろしい勢いでホルモンのバランスががらりと変わる。
その変化に適応できない心と体がきしんで涙を流すのだ。

ハイテンションでお見舞いに来てくれた人としゃべりまくったかと思うと、
オットや親の顔を見てぽろぽろと涙をこぼしたり。
慣れない授乳もうまくいかなくて自信もなくし、
泣き止まない息子を見てるのがつらかった。
夜中にあかちゃんが息をしていなかったらどうしようと恐くなって寝息を確認したり、
なんでこんなにしんどいんだろうとくよくよ思ったり、
あれこれ悲しい考え事をしてしまい眠れない夜を過ごした。

それでも朝は偉大である。
午前6時の起床前、始発の市電の音が聞こえ、今日も世界が始まったことを知る。
窓の外が白くなる。
朝の光は希望の光。
闇夜の憂鬱を照らしてくれる。
お見舞いの花があふれた明るい部屋で
また忙しいスケジュールが動きだし、
なんとかかんとか1日1日と入院生活は過ぎていったのだった。


そして、退院の日。
冬晴れの、美しい日だった。
体はまだまだしんどいけれど、やっぱり心は晴れやかだ。
息子に、病院の産着ではないベビー服をはじめて着せる。
真っ白いおくるみにくるまった息子をしみじみと見る。
さあ、外の世界にいこうね。

最後の診察の後、お世話になった先生やスタッフの方々に挨拶をして
迎えに来たオットとタクシーで病院を後にした。

産後1ヶ月くらいは実家で過ごすことにしていたので、実家に帰る。
その前に自宅に戻ってみた。

玄関のドアをあけて中に入った瞬間、どっと涙があふれてきた。
ああ、こうして無事に息子を抱いてここに帰ってこられたんだ。
ほんとによかった。
出産の不安を抱えて「いってきます!」と家を出たのは1週間前のことだ。
たった1週間留守にしただけなのに、ものすごい長旅から帰ってきたような懐かしさで胸がいっぱいだった。

リビングに入ってまた涙があふれた。
植木が枯れてら・・・。
取り込んだままの洗濯物や、新聞やコンビニの袋などが散らかり放題だった。
たった1週間留守にしただけなのに、こうも荒れるものなのか。
違う意味で泣けてきた。

まあしかし、仕事が忙しい時期で、病院に寄ってチャリこいで寒い家に帰り、コンビニ弁当食べて倒れるように眠るオットの姿が見えるようで、かわいそうで、仕方のないことだ。
ああ、この現状を放置したまま実家に帰らなくちゃいけない心残り。
これから1ヶ月、ますます悪化していくであろうこの状況、
この家で、親子3人、ふつうに暮らせるようになるのは一体いつになるんだろう。
途方に暮れるって、こういう感じだろうかなどとぼんやり思った。

見なかったふりをして荷物を整理し、実家へと向かったのだった。


いやー、ひとまず退院です。
実家では上げ膳据え膳、甘えられるし、なによりやっと寝られる!
しかし「産後」のココロはそう単純なものでもなかったのでした。

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:2.これがわたしの出産

004年05月31日
冬のいちばん最後の日、2962gの元気な息子がこの世に産まれた。

・・・そう、出産なんてこうして書けば1行で済んじゃうのよね。
でも、実際にはおっそろしく長くて苦しくてびっくりする、激動の時間がそこにはあったのです。

■予定日より早く、とうとうそれはやってきた

2004年2月。出産予定日は2月10日。臨月を迎え、もうこれ以上ないほどのでっかいハラをもてあましつつも、それまでなんにも異常もなく順調に妊娠期間を過ごしてきたわたしも、さすがに予定日が近付くにつれてだんだんそわそわし始めた。毎晩「うーんまだ産まれない」という夢にうなされ、ああ陣痛って痛いんだろうなぁ恐いなぁとそればっかり考える日々。気を紛らわすかのように連日遊び歩いて予定もぎっしり。予定日の1週間前くらいからはおとなしくしておこうと思っていた矢先だった。

2月3日、節分の日の明け方3時40分ころ、ちろっと流れ出る感じにハッと目がさめる。
まさかと思いながらトイレに行く。うすいピンクの水がおりてくる。これはきっと破水だ。
「・・・始まった・・・」
あれだけ出産コワイと思っていたのに、その瞬間すーっと冷静になっていく自分がいた。
「“産まれる”んじゃない、今から“産む”んだ」
なんだかぴたっと覚悟が決まった。
破水したら即入院といわれていたのでさっそく仕度にかかる。
節分だしちらし寿司でもつくろうと思って買っていたあなごなんかの食材をすべて冷凍庫へ移し、ハラがへっては戦はできぬとばかりにおにぎりをつくり、洗濯物をかたづけ、早めの朝食をとり、入院グッズをつめたカバンの中身を確認した。
そして寝ていたオットに「あのー。今から入院するけど」と声をかける。
陣痛にもがき苦しむツマを支えながらタクシーに乗り、と想像していたオットは私のなんでもなさそうな様子に「・・・ぼく、寝とく・・・」。寝ぼけとる。
あーそーですかそうですか、もう勝手に入院しちゃうからね。
憮然としてタクシーを呼んでると、さすがに状況が飲み込め目がさめたオットがあわてて出かける準備をしだす。
しんしんと冷え込む未明に大荷物を抱えた妊婦とそのオットをのせたタクシーは一路産婦人科へ。
午前6時30分ごろ、病院に到着。
さあ、夜が明ける。今日、いよいよ産むんだ。
前代未聞の一大イベントの幕開け、なんだか妙な高揚感でワクワクしていた。


■はい、ナメてましたーすいませーんもう許してー!!!

案内された陣痛待機室は、リビングルームにベットが置いてあるような普通の部屋だった。差し出された出産服(?)に着替えてベッドに横になるも、肝心の陣痛は一向に来ず。
朝食が出され、さっき食べたけど、また完食。オット帰宅。
なんかこう、やる気まんまんなのに待つ時間というのは手持ち無沙汰だ。
予定日まだ先だし、その週は遊ぶ予定をびっしりいれていた。かたっぱしからメールで断る。
自然な陣痛が来る気配がないので、9時ころから陣痛促進剤の錠剤を1時間に1つ服用。
・・・き、きた。きゅーっときてる。これか陣痛って。うう、痛いもんだな。
などと言ってるうちに昼には10分おきに陣痛が走るように。
「ほんとは今入院だから。これからが本番よ」と先生爽やかに笑い去る。
うわー、こんな状態になるまで自宅待機か、こりゃしんどいわい。破水して余裕のあるうちに入院しといてよかった。
お昼ご飯は節分にちなんで巻寿司。すでに恵方にむかってかぶりつく余裕もなく食べられず。(でもケータイのカメラで撮る元気はまだあった)

午後、いよいよ陣痛促進剤の点滴開始。「え、まだ促進すんの?」 
看護師さんが来るたびに点滴のペースがあげられていく。
滴下の目盛りを増やすと確実に痛みも増し、間隔も狭まっていく。
それまではメモ帳に痛みが来る間隔を書き留めていたけど、2時過ぎからもうペンも持てなくなった。
夕方4時過ぎから1分おきの陣痛に。1分ですよ1分。1分ハアハア肩で息をして、ぐぎゅ〜〜〜ッっとものすごい痛みが30秒から40秒続くのをこらえる。また1分ハアハア息継ぎをして・・・壁の時計の秒針だけを見つめて過ごす。
こっからはもう、地獄のような痛みとの戦いである。
波のようによせては返す恐ろしいほどの痛み。骨盤の内側がめりめりきしむような痛さ。脂汗。
その痛みで徐々に子宮口が開かれていくんだそうだ。
5時すぎ、内診で「うーんまだ3センチくらい」などと言われて絶望。子宮口全開大というのは約10センチ。まだ!まだたったそんだけしか開いてないの!?あとどれだけ耐えればいいのだろう。もうごめんなさい、ナメてました、こんなに痛いとは思いませんでした、すいません、許してください、もう腹かっさばいて出してください・・・誰に向かってか知らないがなんだか謝ってみる。ただひたすらこの痛みがなくなってくれるのを祈る。
痛みを少しでも散らそうと、リクライニングのベットを起こしたり倒したりして楽な姿勢を探す。点滴やあかちゃんの心拍をモニターする機械なんかにつながれているので自由に動けない。散々もがいて楽な姿勢なんかないのを発見。「お尻の穴にテニスボールをあてて圧迫するとよい」となにかで読んだことがあった。テニスボールはないので自分のかかとをぐーっとあててみる。少しはマシなような気がしたがそのうち足がつった。最悪である。

そんなものすごい痛みに悶絶する娘の腰を、母がずっとさすってくれた。
昼過ぎから産まれる寸前までの約6時間、ずっと立ちっぱなしで腰をさすってくれたのだ。指紋がつるつるになったんじゃないかと思うくらい強く。「もういいから」と言ってもやめない。そのうち甘えて「もっと下の方をぐーっと・・・」などと注文をつけたりした。それで陣痛が軽くなるわけじゃないけど、あたたかい手が触れていてくれるのは心強くて、なによりありがたかった。

途中何度か先生が様子を見に来てくれた。最初は「痛いです・・・」とか訴えていたが、そのうち虚ろな目でうらめしそうに見据えることしかできなくなった。先生もまぁ、「がんばって」としか言いようがないわけで。

痛みに耐え続けてもう何時間経っただろうか。心も体ももう、限界に近かった。意識も朦朧、弱り切って涙もでなくて、つけっぱなしのテレビの明滅をぼーっと眺めていた。
ふと、モニターする機械から流れてくるあかちゃんの心拍音が耳に入ってきた。
ふごっふごっふごっと、かなりのハイペースで鼓動するおなかの中のあかちゃんの心臓の音。

産まれる時、あかちゃんもただ産まれるのを待つのではなく、自分でも産まれようとしてがんばるんだと聞いたことがある。あごを引いて、体をぐぐっとよじりながら狭い産道を自力でおりてくるんだそうだ。

そうだ。しんどいのはわたしだけじゃないんだ。
痛いからって息を止めれば、あかちゃんも酸欠になって苦しいはず。
あかちゃんもがんばってるんだ。
そう思った時から、また冷静になれた。痛みから逃げるんじゃなくて、「こいッ!」と受け止める気持ちになった。
ちきしょー痛みやがれ!んで子宮口こじあけてくれ!


■ 産まれた、産まれた!

6時過ぎ、ふと隣の部屋が慌ただしくなる気配がした。可動式の薄い壁を隔てたそこは分娩室。しばらくして苦しそうな声が聞こえてくる。やがて絶叫ののちに産声が聞こえた。
ああ、産まれたんだ・・・よかった・・・ 次はわたしだ。
内診でもいよいよ十分に子宮口が開いてきた。さあ、分娩室に移動か、と思いきや、またもや誰かが先に運ばれた様子。
え!タイミングかぶってんじゃん!どーすんの!? は、早く産んでくれ、後がつかえてるんだよぉ〜などと狼狽。かなり苦しそうなうめき声がこだましている。

そうこうしているうちに、痛みだけじゃなくてたまらなく“いきみ”たくなってきた。
それは不思議な感覚だった。きゅうううっと、出そうな出なさそうな、「出たい」という表現が近似か。
うわ、これもう出ちゃうよたぶん、どうしよう!!! そんなタイミングで先生内診、
「はい、ここで産みましょう!こっちが先だ!」
その一声で助産師さん動く。
ベットからしゃきーんしゃきーんといろんなパーツが出てきてたちまち分娩台に早変わり!
え、イルカ見れないじゃん!!
この病院の分娩室はなんと巨大プロジェクターに映るイルカの泳ぐ姿を見ながらの出産がウリなのだ。陣痛にあわせて色が変わる照明にあわせてイキんだりするのだ。
イルカ代まけてくれー、などと心で叫びつつ、準備が整うのを待つ。
まあしかし後になって冷静に考えると、陣痛も極まっていきみたくなってるのに小走りで移動して分娩台に飛び乗るなんて、かなりつらい。移動せずに済んだのは、それはそれでよかったのかも。

準備が整った分娩台で剃毛。え、剃っちゃうの?知らなかった・・・ あまりに助産師さんの様子が「あたりまえ」な雰囲気だったのでなにも言えず聞けず。そういえば浣腸すると聞いていたけどここではしなかった。産院によって事前準備も様々なのだろう。

「ううう〜〜〜いきみたい〜〜〜」
「まだいきんじゃダメっ!はっはっはっって息して逃してっ!」
そして先生再登場、とうとう麻酔をして会陰切開。
普通だったらそんなデリケートなところに刃物をあてると想像しただけでゾッとするのに、その時ははーもうどーとでもしてくれ、切るならばっさりいってくれと豪快な気分。
そんなことよりもう一刻も早くゴーサインをくれ!!
「立ち会いは?!」
「ありません!」
「え、ほんとに立ち会いなし?!」
「ないですっ!!」
かなり何度も念を押されたということは、今やむしろ立ち会い無しの出産のほうがめずらしいくらいなんだろう。うちのオットはたぶん血を見ると気絶する。以前オリンピックの柔道の試合中、選手の腕がありえない方向に折れるのをテレビで見て、この人はほんとうに気絶してぶっ倒れたことがある。一緒に入院するハメになるのは明確なので、お互い無言のうちに立ち会い出産はしないと了解していた。

「それじゃいくよ!はい、イキんでー!!」 先生のかけ声。いよいよ産む!
出産の少し前、福岡の友人から電話でアドバイスを受けていた。
「誰も教えてくれんばい言うとくけど、産む時はウンコ出すとこに力入れんと産まれんばい!」と。
彼女は「ウンコでたらごめんなさーい!」と絶叫しながら出産したらしい。
その心づもりでイキもうとすると、ずっと介助してくれていたかわいい助産師さんが
「はい、でっかいかたいウンコだすつもりでーっ!!」
!!!
そうなのか。
モノの本にははばかって書いてなかったけど、これが出産の真実だ。
もう失うものはなにもない。
なにもかも出すつもりで渾身の力をふりしぼっていきむ。
まだまだーっ!もっと力入れてーっ!と激を飛ばされ、体中の毛細血管がぶちぶち切れるほどさらにイキむ。
その時、つっかえてる感じとともにギシギシきしむ感じがした。
あっ!これ、あかちゃんの頭蓋骨だ!
あかちゃんの頭蓋骨はパーツに分かれてぴったりくっついておらず、狭いところを通れるように変型しつつ出てくるらしい。
うわ、頭きしんでるよ!早く出さんと!!
いきみの波にあわせて、息を大きく吸い込み、あごを引いて、息を吐かずに、渾身の力を込めて、その空気の圧力をおなかに向けて押し出すようにいきむ、いきむ。
今わたし、全世界でいちばんぶっさいくな顔してる、などと余計なことがちらっとよぎった頭はもうほとんど真っ白。
引き続きでっかいウンコー!の大絶叫に導かれ、3回か4回のいきみののち、午後7時55分、息子はこの世に産まれ出たのだった。

産みおとした次の瞬間の記憶がない。
ほんの1、2秒か、1、2分か分からない。
気がついたら、逆光の中、自分の足と足の間からぬうっと差し出された息子の姿が見えた。
「しっかり抱いてあげて」

はじめての彼の声を聞き、産まれたままの彼を胸に抱いた時、
もう、いままでの死ぬ程の苦しみはチャラになった。
滝のように涙があふれて彼の名前を何度も何度も呼んだ。

よくがんばったねぇぇ。かあちゃんだよ。
びしょびしょでふやけてふにゃふにゃの息子はわたしとおんなじ体温だった。


■感動で頭も体もくーらくら

しばらくして息子は産湯をもらい、いっちょまえにかわいい産着を着せてもらってやってきた。
目を開いてはじめてかあちゃんの顔をじーっと見る。
前をはだけておっぱいを含ませる。疲労困ぱいの様子でくわえたまんま吸おうとはしなかったけど。
これかー、あんたがさっきまでおなかの中にいたわたしのあかちゃんかね。
なんだかすんごいことをやり遂げた達成感と、陣痛から解放された安堵感と、初めて見る息子への説明のつかないたまらなく酸っぱいような思いとで、もう胸はごうごうと渦巻いて苦しく、涙は引き続き止めどなく流れ、世界中の誰も彼もにありがとうと言いたいような気持ちだった。

押しつぶされそうな高揚感に呆然としながら息子を見つめていると、となりの分娩室でも元気な産声があがった。ほんの数分の差で、息子の他に2人も産まれたんだ。喜びもなんだか3倍になるような気分だった。

おなかを押されて後産。胎盤を産み落とす。
先生が銀色のトレイに入れて運び出そうとしていたので、
「あ、先生、胎盤ってどんなんですか」と呼び止め見せてもらう。
「余裕じゃね〜」と先生苦笑い。
だってついさっきまでわたしの体の一部だったものだ、見たいのが人情だ。
「でっかいキノコみたいたい」福岡の友人の言葉がよみがえる。連れていかれる胎盤に「おつかれさま」とそっとつぶやいた。
引き続いて会陰縫合。「ご主人今日は?」「何のお仕事されてるの?」先生は世間話で気をそらそうとしてくれてるようだが、これが痛い。麻酔も切れたようで、陣痛の痛みとは違う、ちくちくという痛みはこれまた堪え難し。

さて、このあたりで親族がみんな入って来て、産まれたばかりの息子と記念撮影、のはずだった。しかし先生たちがあわただしく何度も出入りし、おなかを押したり処置したり、いつまでたっても親族は入れてもらえない。
処置と後片付けに時間がかかったらしい。
出血がひどくて、通常500ml程度の出血なのだが、1Lくらい出血したと後から聞かされた。
そのうち息子は新生児室に連れていかれてしまった。
しばらくしてやっとばあちゃんたちが入ってきた。ばあちゃんと疲れ果てむくんだ顔の経産婦のツーショットというなんとも地味な写真だけが残った。

仕事を終えたオットもやってきた。息を切らしてチャリぶっとばしてきたオットの肩には、うっすら雪が積もっていた。なんにも言わずに手を握ってくれた。ふたりして涙があふれてあふれて、でもそれだけでもう、よかった。

夕食を出してもらい、味もよく分からなかったけど、とにかく食べた。
そしてそのまま誰もいなくなって明かりを落としたその部屋で、一晩過ごす。
空になった子宮と泥のような疲労とアイスノンを抱いて目をつむる。
頭の中で長かった一日がぐるぐるよみがえる。
ともかく、今日は終わったんだ。
明日からは息子との新しい日々が始まる。


ここまで読まれた方、まるで1人産んじゃったような疲労感でしょう。
お疲れさまでした。

この疲労感、2、3日で癒えるものと思っていました。
ところがところが・・・・
さらなる「聞いてないよ〜!」の日々が待っていたのでした。

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰も教えてくれない出産:1.それは想像もつかないことばっかりだった

(2004年05月26日に書きました)

産まれてはじめての出産から3ヶ月。息子はぐんぐん育っています。
新米かあちゃんは頼りないけど、なんとかよちよち毎日の生活を楽しめるようになりました。
しかし、妊娠が分かってから今までを振り返ってみると、初めてのことばっかりで戸惑いっぱなしだったなぁ。
あまりの自分の知らなさ加減にあきれ、想像をはるかに超えた事実を前にして茫然自失、というかんじ。

もちろん妊娠期間中、熱心にいろんな本やら雑誌やらを読み漁ったり、インターネットでいろんな情報を調べたりしてだいたいの知識を頭にいれといたつもり。でも、でも、出産、それは「聞いてないよ〜!」の嵐だったのです。

私には姉も妹もいないから、妊娠出産を間近に体験したことがなかった。もちろん友人たちの何人かはすでに子供産んでてちょっとはその時の様子を聞いたりしたけど、子供産む予定もなかった私には遠い世界の話で実感もなにも伴わない話だった。それに経験者に話を聞いても聞きたいツボをあんまり語ってくれなかったし。その理由をはっきり悟ったのは、第2子を妊娠した友人の言葉だった。

「産んだ時のことって、もうよく覚えてないよ。なんか、すんごい痛かったってことは覚えてるけど、その痛みがどんな痛みだったかはもう、思い出せんのよね〜」

・・・そりゃそうだ。あんな痛みいつまでもリアルに覚えてたら、二度と子供なんか産もうと思わないだろう。それじゃ種の繁栄に不都合だ。だからきれいさっぱり忘れてしまうようになってるのだ。うまくできてるねぇ。

事実、産後3ヶ月経った私ももうすでに記憶が朦朧としている。目の前のこどもにはらはらしたり笑ったりしているうちに、出産のあの時のことなんかもう遠い過去になろうとしている。
特に、あの陣痛の痛みは、思い出そうと記憶を辿っていくと、カギのかかった重い扉が立ちふさがっていて、もうニ度と取りだせない深いところに仕舞われてしまったかのようだ。不思議だな〜。

もちろん想像だにしなかったのは痛みだけじゃない。産んだ瞬間の、あの、魂をぎゅううううっとわしづかみにされるようなすばらしい感覚も。
たぶん、いままでの人生のうちで一番感動した瞬間だったと思う。

自然の摂理に流されてきれいさっぱり忘れてしまう前に、私の出産の「聞いてないよ〜!」を残さず書いておきたいと思った。

人生に、そう何度も経験することのない、「あまりに想像もつかないこと」の数々を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2005年8月 »