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2005年8月23日 (火)

香りを纏う

所用で出かけたお店で、季節のセールをやっていた。

ふと足を止めると、ルームキャンドルがお安くなっているではないか。

燃焼時間はどのくらいだろうか、とにかくちょっとした

マグカップほどの大きさのキャンドル。

そしてその香りは、「tabac feuille」。

そう、タバコの葉の香りである。

わたしはタバコを吸わない。

だけど、タバコの葉のにおいは好き。

火をつけるとどうしてあんなにおいになっちゃうのだろう。

珈琲も、どちらかというと挽いた豆のにおいの方が好き。

このルームキャンドルの香りも、蜜のように甘く、濃厚で、

でも甘いだけじゃなく・・・

カサブランカあたりの、麻のスーツが似合ういい男、

そんなイメージ。会ったことないけど。

眠るすこし前、このキャンドルに灯をともし、

琥珀色のお酒のグラスをかざせば美しいであろうなあ。

朝晩すこしだけ涼しくなって、秋を感じ始めたからか

そんなことを想像し、買うことにした。



ふと壁際の棚を見ると、見たことのないオーデコロンが並んでいる。

几帳面に四角いガラスの小瓶には、モノクロのラベル。

それぞれの名前にちなんだデザインのそれはまるで

ワインのラベルか、上等なオリーブオイルのラベルのようだ。

いちじくの香りやスパイスの香り、どれも個性的。

ひとつずつくんくんしていたら鼻が麻痺してきた。

その中でひとつ、ふっと心をとらえた香りが。

ブラジリアンローズウッドの、低く重いトップノートで始まる

その香り。

ベトナムの熱帯雨林にある避暑地の名前を冠した香水だった。



高校を卒業し、大学生になってお化粧を覚え、

海外旅行して免税店で香水を買った。

それ以来、香りはいろいろと変わったけれど、

いつもつけていないと不安だった。

まるでテリトリーを主張する動物のように。

それが、いつのまにか中国茶を楽しむようになって、

余計な香りが邪魔になった。

お茶を含んだときの揺らぐ淡いかおりを追いかけるのに夢中になって、

いつからか香水をつけなくなった。

妊娠してからはますます香りに敏感になったし、

こどもを抱っこするにも香りは邪魔だった。

自己治癒目的のアロマテラピーを覚えたりして

純度の高い香油を好んで使ったけど、

香水をつける行為すら忘れていた。

だけど、ふと、この香りが今の自分に似合うような気がした。

ずいぶんと重くて深くて、どちらかというと男性的な香りだけど、

もうすこし涼しくなればきっとここちよく包まることができる

香りだと思った。

自分の外側をうっすらと包むベールのように、

あたたかい香りを纏う。

母でも妻でもない、ひとりの女性としてのわたしを

こうやってラッピングしてあげたい、

そう、思ったのである。

異性を惹きつけるためでも、虚勢を張るためでもなく、それは、
自分をやさしくしてあげる心地よさのひとつだと思う。

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2005年8月21日 (日)

一瞬も 一生も 美しく

今朝寝ぼけマナコで新聞をめくっていて、ハッとした。

細かなラメがうつくしいピンクの口紅の全面広告が目に飛び込んできたのだ。

「一瞬も 一生も 美しく」

それは、資生堂の新メーキャップブランド《マキアージュ》誕生
を知らせる広告だった。

「一瞬が積みかさなって、一生をつくる。だとしたら、
 それは美しい一瞬であってほしいと思います。・・・」

そう始まる広告文は、得も言われぬ心地よさで共感を産み、
わたしの心にすっと落ちていきました。
こりゃすごいなー。

お化粧をすること、毎朝のルーティンになってしまうと
手が慣れて心が慣れて、仕上がりも慣れっこになってしまう。

でもほんとはメーキャップってもっとドキドキするものじゃない?
最後に口紅を塗って鏡を見るとき、胸をきゅっとはるものじゃない?
そうやって美しい一瞬を、それにつながる美しい一生を、
自分で演出して獲得するものじゃない?
そーだったそーだった、ほんとにそうだった。

そして夜、「Tokyo美人物語」という番組を見た。
これまた資生堂の冠番組で、今をときめく美人たちが、
個性的な生き方で支持されている女性たちから
そのライフスタイルや生き方を学び、“本当のキレイ”を探る番組。

出演者たちのゴージャスなこと。
チェ・ジウ、栗原はるみ、蜷川実花、山本容子、
後藤久美子、オノ・ヨーコ・・

番組のナビゲーターたちがそのままマキアージュのCMに出演し、
これはもう2時間半まるまる資生堂渾身の広告であった。

みんなきれいだった。
あー、口紅がほしいと思った。

この口紅をぬればこの人のようにきれいになれますよ、
というメッセージではない。いまどき当たり前か。

なんというか、ああもっと爪をきれいにしようとか、
ちゃんと自分をかまって大事にしてあげようと思う、
前向きな気持ちにさせてくれる番組だった。

エンドロールのクレジットに ブレーン:秋元康とあった。
そーかー。健在なんだなー。


この番組や広告に関わるすべての人たちの
祈るような気迫が込められている新ブランドなんだなあ。
その情熱にサイフが緩んでしまいそうなわたくしであります。

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2005年8月20日 (土)

僕らの夏が終わってしまった

甲子園、決勝。
勝ち残るのはたった1校だけ。
そしてその最後の1校になるための、この夏最後の試合。
それはまぶしく熱く、戦いは長かった。

優勝を決めた瞬間、マウンドにわっと集まり、
人差し指を高々と夏空に突き上げ叫ぶ、勝者たち。


毎年毎年甲子園で戦う球児たちをニュースで見てきた。

この時期、夏も熟しきっていてだるく、そのくせそろそろ確実に
日暮れの時間が早くなっている。
夏ももう、おしまいだ。
宿題が、まだだ。

圧倒的なやり残しの宿題の量と後悔とで胸を痛めつつ見るのが、
この甲子園決勝のニュースだった。

だから、こう、一生懸命で、燃え尽きた感じの「お兄さん」たちが
やけにまぶしくうつったものだ。

その印象の名残がずっとあって、球児たちの年齢をはるかに超えた
年になっても、どことなく「お兄さん」たちの甲子園だった。

今年はその決勝戦を見ながら、何度も胸が痛くなり、涙腺がきりきりした。
どうしたことだ。
これは「球児たちのハハ」の視点であり、
球児たちはまるで息子のようではないか。

エラーした、走りよって抱きしめてやりたい。
ヒットを打った、冷たいおしぼりでねぎらってやりたい。
勝った方も負けた方もエライ。よーがんばった。
ほんまに自慢の息子じゃわい。


毎年甲子園のニュースを見ながら母が泣いていた理由が
ようやくわかった今年の夏であった。

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2005年8月 6日 (土)

ヒロシマ忌

毎年この日、夏中でいちばん蝉がうるさく鳴くような気がする。
8月6日、ここ広島に原子爆弾が投下されたあの日から60年。
今年もまたこの日が巡ってきた。

60年という節目の年だからか、国内外から
ヒロシマにやってくる人たちも多い。

しかし、観光地図片手に歩く人よ、
いますれ違った子乗せチャリで疾走するこのかーちゃんが
被爆2世と呼ばれていて、
そのかーちゃんや、そのまたかーちゃんがあの日焼かれて、
しかしここでずっと生きてきたことを
現実的に想像できるでしょうか。


8月5日の夜、筑紫哲也と綾瀬はるかがナビゲートする
報道特別番組を見た。
「なぜ原爆投下は止められなかったのか」
原爆投下は必要ではなかった、なんども投下を防ぐチャンスがあった、
その視点から歴史資料を紐解いて見せてくれた。

なーんだ、60年前のアメリカも今のアメリカも
ぜんぜん変わってないんだな。
様々な利益の計算と、強い国としての固執と妄想とで、
もはや大義のないところに無理矢理大義をこじつけて
人を殺し続けているんだな。

歴史は繰り返されていると思うとやりきれなかったけど、
「原爆投下」その日その惨劇だけを考えても
あまり意味がないのだと知った。
そういう平和教育しか知らなかったわたしにとって
今更だけど大切な気づきだった。

またその番組では、あの日を証言する人のあの朝が再現されていた。
今ではおじいちゃんおばあちゃんになってしまった人も
当時はまだ若く幼く、
モノクロの古めかしい写真ではなくまるでたった今のように
普通に生活している普通の朝だった。

そして8時15分、凄まじい熱線と爆風で吹き飛ばされた。

ああ、おばあちゃんもこうだったんだなあ。

そのころたしか祖母は出勤のため駅前の猿猴橋にいて、
ものすごい爆風で吹っ飛ばされ、揺り戻すように吸い上げられたと
話しを聞いたことがある。
開衿シャツのあとがくっきりとのこるケロイドがむごく、
「まひげ(眉毛)がのうて書くのがやねこい」と笑っていたけど、
美しい顔を焼かれた彼女の気持ちを思うと、痛い。
その祖母も亡くなって10年経つ。

母は当時幼稚園くらいだったはずだ。
「おばあちゃんを探して焼け野原をずーっと歩いたんよ」
とは聞いたけれど、その幼い目に映ったものを詳しくは話してくれない。

直接被爆してなくても、後日市内に入って残留放射能にやられ
亡くなった人もたくさんいると聞いた。
なのになぜ小さい母は死なずにすんだのか。
しかしそれを聞けば、老齢にさしかかった母の中の
まだちっちゃくて、お母さんを探して泣いている彼女を起こしてしまう。

それはどんなにつらいことかわからない。
だからわたしは怖くて聞けないでいる。

ともかく母は死ななかった。そしてわたしが生まれ、
60年後の広島でこうして生きている。
わたしの命は、あやういつながりのなかにあった、
でもたしかに産まれ、こうして生きている。
この奇跡にあらためて深く祈る日が、今日のこの日だ。


世の中から原爆がなくなればいい。
そりゃそうだけど、夢みたいなことを言うだけでは
とても叶わない。

とても注意深く、そしてだまされず、
大きな利益の動く深部を見張らなくてはいけないと思う。

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2005年8月 5日 (金)

シューフィッターの意地

先日、ふらっと立ち寄ったデパートの靴売り場で、すてきなサンダルをみつけた。
そういえば今年の夏はサンダル新調しなかったなあ。
見ればプライス大幅ダウン。ほほーう、ますますヨシ。

さっそく「履いてみてもよろしいですか」と声をかけ、ためしてみる。
ちょっと大きいか?
歩いてみる。
甲の部分を覆うデザインなので、多少大きくても歩きづらくはない。

うーん迷う。
かかとのストラップを固定する展示用のパーツをいじっていると、
すすすっとお店の人がやってきて、
「結構でございます」
と受け取り、なおしてショーウインドウに戻した。

他のサンダルも眺めたが、やっぱりこれが気に入った。
手に取り、試し履きをし、また迷っていると、
「結構でございます」
またもや取り上げられた。

片付ける方向ではなく売る方向に持ってってくれればいいのに、
どうも商売っけがないなあ。

しばらく迷ったが、この値段だし、思いきって購入を決意。
「これください」
「・・・左様ですか。お決めになられましたか。・・・
 では申し上げますが、こちらのサイズはお客様にはおすすめできません」
「え!?」
やっぱりちと大きかったようだ。

「お買い上げいただくほどお気に召していただけましたのでしたら、
 調べてみますので少々お待ちください」
なにやら電話をかけている。

「お客様、これより下のサイズのものをお取り寄せいたします。
 入りましたらご連絡いたしますので、またお越しいただけますでしょうか」
「はぁ」

わたしとしてはソレを今買って帰っても問題なかったのだが、
言われた通り連絡を待った。

数日後。
入荷したと留守電が入っていたので行ってみると、そこには同じデザインのサンダルが3足並んでいた。
「こちらが先日お試しいただいたもの、こちらはそれより0.5cm小さいもの、こちらはさらに0.5cm小さいものでございます。どうぞ、履き比べてくださいませ」

この0.5cm差というのは非常に微妙である。
しかもサンダル、どれがいいのかよくわからない。
「うーん、一番小さいのはちょっと痛いような・・・これかなあ・・・」
「どうか絨毯からはなれて、たくさん歩いてください」

3足を交互に履き比べ、結局真ん中のサイズに決めたのだった。

それから、靴クリームで丁寧にお手入れし、やわらかな薄紙でていねいにくるみ、しずかにしずかに箱のふたをして、紙袋におさめ、手渡してもらった。
お客様カードに記入した内容を確かめて、
「はなみさま、つい先日お誕生日でらしたんですね、おめでとうございます。すてきな1年でありますように」とお祝いしていただいた。

紙袋をうけとり、売り場を離れるまで、彼は深々と礼をして見送ってくれた。
上等のスーツがびしっとした、少々中性的な感じの人であった。

セールでほぼ半額である。
なのにこの渾身の対応はどうでしょう。

まるでガラスの靴をいただいたシンデレラのように、
誇らしくうれしい気持ちで売り場を後にしたのでした。

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2005年8月 3日 (水)

息子ちょび、1さい6かげつ

chobi
←これは「カップ入りもずく酢を一気飲みする息子、ちょび」である。
今日でちょうど一歳六ヶ月。産まれて一周半したわけだ。

このちょび、いつのまにか“あかちゃん”から“こども”になっていた。

先日の一歳半検診では、身長82cm体重10kg。
服のサイズは80cmと90cm。80cmだと小さめで、90cmだと大きい。
10cmしか違わないのに、この差は大きい。
80cmまではなんだかちっこくて、Tシャツもズボンも干すのが楽しかったが、
90cmともなるともうすっかり「こども服」。

1歳になる少し前から歩き始めたが、今では足取りも確かになってきた。
ちょっとガニマタ気味だが、もう、でけでけでけっと小走りする。

オムツを外された開放感からか、フルチンのまんまで逃げ回るのが趣味。
まて〜と追いかけると、きゃはきゃはきゃはと笑い転げながら逃げる。

なんでもかんでも電話にみたてて耳にあて、「おうっ?はむはむにゃあ」と
日本語にならない話しをとめどなくするのも趣味。
はっきりとわかる唯一の日本語は「はいっ!」
オットは「イエスマンめ・・」と言う。

なにかして欲しいとき、独特の音階で甘えてくる。
「ふっふ〜ん」、それはイオングループのCMのサウンドロゴそっくりだったりする。
いまだにおっぱい大好きなやつは、「ふっふ〜ん、ふっふ〜ん」と甘えつつ、
人前だろうがなんだろうが容赦なく服をめくりあげチチを要求する。

「んもー、おっぱいする人!」「あーいっ!!」
お返事がよろしい。

時には向こうの方からすごい挙手をし、「あいっ!あいっ!」とチチに突進してくるときもある。
真剣そのもの、必死の形相にかーちゃん吹き出しつつポロリ。

どんどん知恵もついて、ここ最近ではウソ泣きを覚えた。
叱られたら、口をぱっくりあけて、上を向いて「あ〜〜〜〜〜」と泣く。しかし涙は出ない。
ちらっと横目で見たりする。
しゅんとして下を向いたりする。
眠いときには目をこすり、楽しいときには手をぱちぱちたたく。
マンガかおまえは。
感情を表すジェスチャーというのは、大昔からあんまり変わらないのかもしれない。

産まれたときからおっさんくさい子であった。
生後すぐは南伸坊に似ていたし、しばらくするとガッツ石松だった。
横縞のポロシャツを着せると「ゴルフ場にいるおじさん」になったし、
今でも真顔のときは常に眉間にシワが寄っている。

保育園でも「ちょびく〜ん」と呼んでも気づかず「おとーさ〜ん」と呼ばれて振り向くらしい。

しかし、あんまりおっさんくさいおっさんくさいと言わないようにしようと思ったことがあった。

夜、ねんねの時、横になって添いチチしつつ寝つかせるのだが、
子守唄のように息子をほめると、おっぱいをくわえたまま、照れ笑いをする。

「ちょ〜び〜は かしこいねぇ〜」「んふっ!」
「ちょ〜び〜は かわいいねぇ〜」「ぐふふぅ」
「ちょ〜び〜は せかいいち〜」 「ぶふふっ」
「ちょ〜び〜は かっこいい〜」 「んふう〜」
「ちょ〜び〜は すてきですぅ〜」「ぐふふう〜」
「ちょ〜び〜は おじさんっぽい」「・・・・・・・・」

ちゃーんと何を言われているのかわかっているのである。
横で聞いていたオットは大爆笑であった。

1歳4ヶ月になる少し前、高熱がつづいて下がらず入院した。
川崎病だった。
日々元気に走り回っているこの子が、まさかそんな病気になるなんて。
目の前の、憔悴しきった姿の息子にどうしてやることもできず、
心臓に後遺症が残るかもしれない不安で胸が一杯になった。

病院のせまいベッドで添い寝しつつ、点滴の滴下を眺めて寝られなかった。

神さま、どうか、この子にもう一度健康が戻りますように、
それがすべての望みだった。

幸い、早めのガンマーグロブリン投与が効いて、心臓にはなにも残らなかった。
すこしずつ元気と笑顔が戻り、退院できたのだった。

今じゃウソのように元気にはしゃいでいる。

息子を産んで、家族が3人になって、1年半たった今、あらためて思うのだ。
このちっちゃい人がこうしてここにいてくれることの幸せを。

みそ汁をひっくりかえしたって、障子をやぶいたって、
かーちゃんのファンデーションを粉々にしたって、
あーもう許す。ヨシ!

この勢いでぐんぐん、あつかましく育ってください。
とーちゃんもかーちゃんも、いっしょに行きますからね。

1さい6かげつのちょびへ。ありがとね。

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