ヒロシマ忌
毎年この日、夏中でいちばん蝉がうるさく鳴くような気がする。
8月6日、ここ広島に原子爆弾が投下されたあの日から60年。
今年もまたこの日が巡ってきた。
60年という節目の年だからか、国内外から
ヒロシマにやってくる人たちも多い。
しかし、観光地図片手に歩く人よ、
いますれ違った子乗せチャリで疾走するこのかーちゃんが
被爆2世と呼ばれていて、
そのかーちゃんや、そのまたかーちゃんがあの日焼かれて、
しかしここでずっと生きてきたことを
現実的に想像できるでしょうか。
8月5日の夜、筑紫哲也と綾瀬はるかがナビゲートする
報道特別番組を見た。
「なぜ原爆投下は止められなかったのか」
原爆投下は必要ではなかった、なんども投下を防ぐチャンスがあった、
その視点から歴史資料を紐解いて見せてくれた。
なーんだ、60年前のアメリカも今のアメリカも
ぜんぜん変わってないんだな。
様々な利益の計算と、強い国としての固執と妄想とで、
もはや大義のないところに無理矢理大義をこじつけて
人を殺し続けているんだな。
歴史は繰り返されていると思うとやりきれなかったけど、
「原爆投下」その日その惨劇だけを考えても
あまり意味がないのだと知った。
そういう平和教育しか知らなかったわたしにとって
今更だけど大切な気づきだった。
またその番組では、あの日を証言する人のあの朝が再現されていた。
今ではおじいちゃんおばあちゃんになってしまった人も
当時はまだ若く幼く、
モノクロの古めかしい写真ではなくまるでたった今のように
普通に生活している普通の朝だった。
そして8時15分、凄まじい熱線と爆風で吹き飛ばされた。
ああ、おばあちゃんもこうだったんだなあ。
そのころたしか祖母は出勤のため駅前の猿猴橋にいて、
ものすごい爆風で吹っ飛ばされ、揺り戻すように吸い上げられたと
話しを聞いたことがある。
開衿シャツのあとがくっきりとのこるケロイドがむごく、
「まひげ(眉毛)がのうて書くのがやねこい」と笑っていたけど、
美しい顔を焼かれた彼女の気持ちを思うと、痛い。
その祖母も亡くなって10年経つ。
母は当時幼稚園くらいだったはずだ。
「おばあちゃんを探して焼け野原をずーっと歩いたんよ」
とは聞いたけれど、その幼い目に映ったものを詳しくは話してくれない。
直接被爆してなくても、後日市内に入って残留放射能にやられ
亡くなった人もたくさんいると聞いた。
なのになぜ小さい母は死なずにすんだのか。
しかしそれを聞けば、老齢にさしかかった母の中の
まだちっちゃくて、お母さんを探して泣いている彼女を起こしてしまう。
それはどんなにつらいことかわからない。
だからわたしは怖くて聞けないでいる。
ともかく母は死ななかった。そしてわたしが生まれ、
60年後の広島でこうして生きている。
わたしの命は、あやういつながりのなかにあった、
でもたしかに産まれ、こうして生きている。
この奇跡にあらためて深く祈る日が、今日のこの日だ。
世の中から原爆がなくなればいい。
そりゃそうだけど、夢みたいなことを言うだけでは
とても叶わない。
とても注意深く、そしてだまされず、
大きな利益の動く深部を見張らなくてはいけないと思う。
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コメント
早速来ました。はなみさんにまた会うことが出来て嬉しいです。
そして、ワタシも被爆2世デス。母は親戚を探すため両親と共に入市被爆してしまったそうです。
今年の8月6日。ワタシのムスコを抱きながら、「こうやってわが子をかばうように抱いたまま亡くなったお母さん」がたくさんいたことを想い、切ない気持ちで8時15分に黙祷しました。
投稿: コンチャン | 2005年8月16日 (火) 午後 11時53分
コンチャンさん、ようこそようこそ!
見に来てくださってありがとう〜。
また暇なときに覗きにきてくださいね。
被爆2世がハハとなり、被爆3世が誕生するわけです。
この3世たちがおおきくなったころ、もしかしたら、
被爆1世たちはもうこの世にいないかもしれない。
わたしもコンチャンも、おかあさんから聞いたことや感じたことを、息子に毎年話して聞かせるのでしょう。
それが繰り返されて、被爆14世、15世と延々とつづき、子らが決してもう被爆者になることがないように、
願い続けるのでしょう。
そういう役目を担うかーちゃんなんですね、お互い。
息子、いっぱいだっこしましょうね。
投稿: はなみ | 2005年8月22日 (月) 午前 12時35分