余命
「あなたはあと長くて3年の命でしょう、
仕事はやめて、あとは好きなことをして、
心安らかに過ごしてください」
と医者から言われたら、どうするだろう。
先日取材でお話を伺った岡山のベンチャー企業の社長は、
起業したきっかけをこう、話してくれた。
40歳の時に大学病院の権威にガン告知され、
冒頭のセリフを聞かされたのだと言う。
抗がん剤の副作用の中で、激しい幻覚を見た。
会社で、自分を含めた数名で会議をしている様子を
俯瞰で眺めている。
すうっと、自分が消える。
それなのに誰もそのことに気がつかない。
なにもなかったように会議は進行してゆく。
自分は、いてもいなくても一緒なのだ。
自分の存在などなんの意味もないのだ。
「これほどつらいことはないよ。
何度も涙があふれて、なにも考えられなくなった。
それから逃れるにはもう、“飛ぶ”しかないんだよ。
病気を苦に自殺、その気持ちは、こういうことなんだ」
今、自分がいなくなっても誰も困らない。
誰も気がつかない。
生まれて生きた痕跡がすべて消えてなくなる。
そんな悲しいことがあるだろうか。
想像は及ばないが、泣きそうになるのをこらえて聞いた。
「あなたは余命が3年と聞かされて、なにをしたいと思う?
本当にやりたいことはなにか深く考えた。
残された人々にいい人だったと言ってもらいたい、
この時代に誰だか知らないがこの人がいてくれたおかげだと
思われるような仕事がしたい、と思った」
真実を、歪みなく限りなく正確に記録し残す、
その技術に固執したのは、そういう理由からだった。
会津の100歳近いおじいちゃんが、民謡を歌う。
決して朽ちない、歌声と姿という重要な民族学的資料。
「100年先もこうしていつでも歌うおじいちゃんと会えるんだよ」
後世に伝えること。
命の執念。
わたしがあと3年しか生きられないとしたらなにをするだろう。
南の島で遊び暮らすほどのお金もないし、
どうしたらいいかわからなくなるだろう。
かといって死ぬこともできずに、泣くんだろう。
そして息子に手紙を書くだろう。
毎年誕生日に開封して読むように、
3さいから、20さいか、30さいか、
そんな息子を想像しながら、体に気をつけろとか
そんな手紙を書くんだろう。
それは未練。
未練のない、今死んでもいいと思える毎日を過ごすのは、
口で言う程簡単ではない。
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