いのち
父が退院した。
2週間ほど前、夜中に救急車で運ばれて手術を受け、
状態が落ち着いたので帰宅してよいことになった。
肺繊維症という病で、発病してもう4年ほどになるか。
最初頃は酸素ボンベを転がして外出もしていたが、
少しずつ少しずつ、できることが少なくなっていった。
先日も少し風邪をひき、咳き込んだ拍子に肺に穴があいて息ができなくなり救急車を呼んだ。
今朝、退院した父を病院まで迎えに行った。
よろよろと、立って歩くのもやっとだった。
ずいぶん、痩せた。
経過がいいので退院ですよ、と先生が父に告げた時、
たまたま兄が見舞っていた。
父は先生に
「ありがとうございます、もう少し、楽しい人生が過ごせます」、と言ったそうだ。
それを聞いた家族は皆「どの口が」と驚いた。
普段しゃべるのもしんどいので黙りがちだし、
たまに口を開けば「しんどい」とか「もう死ぬ」とか
聞いてるこっちが滅入るようなことばっか言うのに
父の口から「楽しい人生」なんて言葉を、聞くとは思わなかった。
父は生きることをあきらめない。
いつかは、お別れの時がくるだろう。もう近いかもしれない。
だけどその時まで、しんどくても、つらくても、生きていることが
父にとって「楽しい人生」なのだ。
父に、なにをしてあげられるだろうかと考えても、妙案は浮かばず
孫の顔をみせるくらいしかしてあげられないんだけど、
いまだに父はわたしに教えてくれている。生きることで。
だから、生きていてくれるだけで、ありがたいと思う。
帰宅する道すがら、母が「銀杏が黄色で綺麗なねぇ」と言った。
そう言えば昨年の今頃、どこか田舎の神社の境内にある樹齢ン百年というでっかい銀杏が紅葉したのを見に行ったのだった。一面黄色になった落ち葉の上を息子は走り回って、葉っぱをかき集めてぱーっとぶつけあいこしたり、それを父と母は目を細めて眺めていた。
もう、紅葉を見に行くこともできなくなった。
あれが最後の遠出、あれが最後の外食、あれがさいごの・・・
それが最後かどうかは、ずいぶん後にならないとわからない。
夏からコツコツと咳が続いていた息子が、季節の変わり目に風邪をひいたのがきっかけで、ひどい喘息になった。
夜も咳が出て寝られない。
病院に連れて行くと、「もう少し早くつれてきて」と怒られた。
アレルギー止めと風邪薬を飲ませて数日、だいぶよくなってきたかなと思った夜の明け方、
突然「ガハッ!!」という音で起き上がった。
びっくりしてどうしたの!?とだっこすると、息をしていない。
何かが詰まったような、ひゅーごふごふという音がして、咳払いしようとしてもできず、苦しんで泣きながら必死で息を吸おうとしていた。
背中をたたきながら、腹の底がしーんとする感覚が襲ってきた。
死ぬんじゃないか。
今まで、川崎病やったり熱出したり、夜中に救急車を呼ぼうかどうしようか迷いながら朝を迎えたりしたけれど、その時は、心配だったけどこんな感覚はなかった、死にはしない感じがあった。
だけど、息ができないと、救急車を呼んでも、間に合わない。
こんなときどうしたらいいのか。
やっとつっかえたものが降りて、ひゅーひゅーいいながらも息ができるようになって、すーっとまた眠りの谷に落ちて行った。
重くなったしでっかくなったとはいえ、4さい、ちいさいものだ。
腕の中にくるんと丸まっている。
この命は、あっというまに死んでしまうかもしれない危ういものなのだ。
そんなのいやだ。
これから学校に通って、いろんなことを知って、大きくなって、
恋もして、いろいろして、仕事して、結婚して、子どもできて、
子どもの成長をうれしがりながら老人になって、
孫や、奥さんや、いろんな人に囲まれて幸せな一生を閉じるまで
死んじゃだめだ。
どんな人生を送るかはわからないけど、とにかく、生ききってほしい。
いのちは
その長さはわからないけど
強いものだ。
わたしにもひとつ、そのいのちがある。
死ぬほど長生きすると占いでいわれたけど、ほんとかどうかわからない。
いつお別れかわからないけど、生ききりたい。
自分自身のためにではなく、誰かのために
生きることで役に立てるように、ちゃんと生きたい。
そう、思った。
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