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2009年2月25日 (水)

おくりびと

映画「おくりびと」がアカデミー賞の外国語映画賞を受賞したそうで、ニュースをにぎわせている。映画は見ていないが、今までも何度かお葬式は経験しているから、納棺師のお仕事も見せてもらったことがある。
丁寧に、死者を扱うのだなと思い、その所作はまるで茶道のようで、美しいもんだなと思ってみていた。
ニュースで何度も流れる映画の予告編を見ながら思い出していた。
「あ、あのくるま、じいちゃんのったよねぇ!」
棺がローラーを滑って格納される霊柩車を紹介する映像を指差して、息子が言った。



先日、父が亡くなりました。73歳でした。
大学病院から転院し、状態も安定しているから自宅で看ようと、退院の手続きの話を主治医の先生とした日の夜でした。
朝3時、兄から連絡をうけ、病室に着いた時にはまだあたたかかった。
眠るような最後だったと聞きました。苦しまずにすんでよかったです。
もう十分、しんどかったので、楽になってよかった。
几帳面な父が、最後の二日はひげも剃らずにいた。死ぬほどしんどかったのだろう。
看護師さんが身体を拭いてくれました。電気シェーバーでひげをきれいにそってあげた。
葬儀社の車が迎えにきてくれて、自宅に戻りました。先生も、見送ってくれました。まだ若い女医さんで、「せっかくおうちに帰れるところだったのに」と泣いてくれました。

未明の自宅に父は帰宅しました。通夜はその日の夕方6時、3時にお迎えが来るという。
2時間ほど自宅に戻り支度。黒いスーツに着替えて実家に戻り、それから葬儀社の方との打ち合わせ、弔問客の対応、なにがなんだか分からないうちにばたばたと時間が過ぎ、昼時になったので弁当を買いに走りました。
こんなことになるとは思ってなくて、仏壇の花も枯れかけていて、駅の売店で少し白い菊を買って帰りました。
こんなときにも、駅には人がいそがしそうに行き交い、普通の一日がふつうにすぎてゆく。喪服の自分だけこの世のふつうから離れたところにいるような気がした。

3時、葬儀社の車が迎えにきて、式場に向かう。母と、兄と、3人で同乗する。おとうさん、次におうちに帰るときはもうお骨なんだ。
式場に着くと、「湯棺の儀」がとりおこなわれた。着衣をとり大きなバスタオルをかけ、浴槽のようなものの上に乗せて、温水シャワーで身体を洗ってもらう。スポンジに泡立てて、足の先から頭のてっぺんまで、それはそれは丁寧に丁寧に洗ってくれた。髪も丁寧にシャンプーし、リンスまでしてくれた。転院して以来、身体を拭くだけだったので、「気持ちいいのぅ〜」という父の声が聞こえて来るようだった。身体を触るたびに「失礼します」と声をかけ、静かに身体をかたむけ、背中を流し、身体にかけたバスタオルの上からゆっくりゆっくりお湯で泡を流してくれた。顔に剃刀をあて、タオルでさっぱりと拭き上げた。
「逆さ産湯」というのもやった。生まれてきた時と同じように死んでいくのだ。柄杓で湯をくんで、足下から胸元へひと杓掛け流す。柄杓は決して後戻りしてはいけないんだそうだ。
男性と女性、二人が、無言のうちに、心を込めて洗ってくださった。「おくりびと」の映画は見ていないけど、こういうことなんだろうなあと思った。
拭いて、服を着せてもらう間、控え室で待つ。しばらくして呼ばれ、先ほどの部屋に戻ると、まるで眠っているのかと思うような父がそこにいた。
気に入って、通院の時に着ていたシャツとズボンをきりっと身につけ、少し化粧をしてもらったようで、ほんとに今にも目を開けそうだ。
「おだやかないいお顔をされていらっしゃいます」と、筆をおいた納棺師の方が深々とお辞儀をされた。
ああおとうさんよかったね、さっぱりして、きもちよかったねぇ。
病院から引きずってきた、寒々しい現実が洗い流され、みんなほっとしたのだった。
遺体を洗う、死んでいるのに意味がない、それでも「せめて」、ああすればよった、こうしてあげればよかったと、今になって思い返して悔やむ取り返しのつかない思いを、「せめて」慰めてくれるあたたかい儀式だった。

間もなく通夜が始まった。
しばらくぶりに会う親戚や知人が挨拶にきてくれる。ああ、お久しぶりです、と笑顔で応えると、みんな眉間にしわをよせて暗い顔をしている。なんで?湯棺でほっとした気分でいたから不思議だった。しかし友だちの顔を見つけたら、急に涙が吹き出してきた。わけがわからない。
通夜も終わり、控え室で通夜振る舞い。といっても母と兄家族とうち、ごくごく身内だけ。オードブルが並べられたテーブルにさーみんな座って、子どもたちもわーいご飯だご飯だとにぎやかに座る。父の席は、と探している自分にびっくりする。父は棺桶に入ってあそこにいるじゃないか。ビールの栓をぬき、コップになみなみ注ぎ、大きな声で「おとうさんおつかれさま〜、カンパーイ!」といって飲み干す。ほんとにお疲れさま。今日はおとうさんの送別会だ。おおいに飲もう。といっても飲むのはわたしくらいのもので。

食事を済ませてみな帰宅。母とわたしだけ、このまま控え室に泊まる。

控え室には立派なお風呂もあって、浴衣も洗面道具も備え付けられていた。
通夜に間に合わなかった親戚がぽつぽつと訪れる合間をぬって、お風呂に入り、浴衣に着替えた。さっぱりして女二人、「あー泣いて顔がぐちゃぐちゃだわ」とクリームやらなんやら塗ってみる。なんだかちょっとした旅行気分で、線香とろうそくの守をする。
「ろうそくつけといていいんかね?火事になったりせんかね?」「そしたらひと足先に火葬ってことで」「ばか!おとうさんに叱られるよ!」などとバカ話する。

さあ、寝ようか、という段になって、文箱をみつける。「伝えられなかった想いをお手紙に綴ってください」とある。あけてみると、折り紙が入っている。
母の目を盗んで、「おとうさん、ありがとう、おつかれさま、大好きです、ありがとう」と書いて、鶴を折る。
「あら、じゃあわたしも」と母もなにやら書き、折りはじめる。
が、二人とも鶴の折り方がうろ覚え「こーじゃないの」「ちがうよこーよね」「えー??」
あっちを折ったり開いてみたり、だんだん思い出して「ああ!できた!こうよ!」くしゃくしゃの不格好な鶴が二羽できた。
「お棺の中に入れよう」孫らが書いた手紙が棺の上に置いてあったので、それと一緒に枕元に入れる。息子にもじいちゃんに手紙をかきな、と言ったのだが、まじめに書かない。みんなを笑わせようと「ぶりぶりまん、おまたさん」と書いた。なんじゃそりゃ。ぶりぶりまんも一緒に入れる。「えっとえっと入れるな」と父が言う。いいじゃんみんなの気持ちだからとかまわず入れる。

就寝、母はあんまり寝られないようだった。わたしは気がついたら朝だった。
朝食をとり、兄家族がやってきたので、母と実家に一度戻る。
喪服に着替えるためだ。
結婚した時、訪問着と喪の着物をつくって持たせてくれた。
一生に何度、仕立ておろしの着物のしつけを抜くのだろう。
黒々と、ぼってりと重い縮緬の着物に袖をとおし、支度して式場に戻る。

式は13時半から。
朝から喪主である兄は紙にむかってごにょごにょと挨拶を考えていた。昨日の通夜では式場から用意された定型文を読むのがやっとで、なんか気の利いたことを言えと母にクギをさされていた様子。
兄のあいさつは、完璧だった。本人の希望で病状をあまりお知らせしなかったことを詫び、病気と病状を説明し、昨年本人が「なんの悔いもない幸せな人生だった、千の風になってみんなを見守るから心配するな」と話していたことなど、的確に伝え、かつ、兄がどれだけ父のことが大好きだったか痛いほど伝わるあいさつだった。

お別れに、棺の中に花を入れる。式場中の花を手折り、皆が父のまわりに飾ってくれた。
父はほんとうにおだやかな顔をしていて、花畑で昼寝をしているようだった。
出棺、焼き場へ向かう。
うそのように晴れて、ああ、春だなあ。父と、母と、兄と、最後の家族でのドライブだ。
みんな黙っていた。途中、自宅が見えた。「おとうさん、おうち見える?」。母が言った。

焼き場に着くとすぐに、父は炉の中へ収められた。
1時間ほど待つ。日差しがいっぱいに差し込む待合室では、コーヒーを飲みながら親戚同士が談笑し、悲しみのかけらなどどこにもない。
呼び出しがあり、階下に降りると、喪主だけが中に入って行った。なかなか出てこない。

後に兄に聞くと「まさかあそこでクイズが出されるとは思っても見なかった」という。
「こちらにふたつ骨壺がありますが、分け方はどのように?」と突然顔も見ずに問われたのだそうだ。「七三に、とかって間違えたらたぶん炉の中に突き落とされてやかれるんだよー」「そうだよ怖かった〜」。正解は、「分骨しますので小さい方にはのど仏を、あとはおまかせします」らしい。兄は無事に出てきた。

骨になった父。無常を絵に描いたような風景だ。言葉にならない。
つぎつぎと箸で骨を拾う人を見て、息子はなぜみんな小さな骨しか拾わないのかと不審がっていた。「おおきいのひろって、ああちいさい、おっきいの!あーだめだ」大きいの拾ったら落っことしたらいけんじゃろ、それにあのちっちゃい壷に入りきらんじゃろと言って聞かす。「だってじいちゃん、すくなくなるじゃん」。
すくなくなった父を胸に抱いて式場に戻る。

初七日の法要では、なんだか疲れが出て、お経のリズムも心地よく、ついうたたねしてしまった。後ろの席では息子がいびきをかいている。喪主のそば最前列で居眠りする親族もあんまりいない。神妙に話を聞いているふりをしたが母に蹴られて親族みなにバレた。
つづいてお斎。急に来た親戚もいてお膳の数が合わず。追加ができなかったので自分たちの分をあててお酒をついでまわる。
「お母さんがっくりくるからそばにいてあげて」「娘がやっぱりたよりだから」と誰からも言われる。
帰宅し、近所のお帳場をお手伝いしてくださった方々に挨拶回りをし、解散。

自宅に戻り、着物を脱いで、風呂に入る。
まだ信じられない。つい、数時間前まで父は生きていたのに。
考えると、思い出す、すると恐ろしく暗くて底なしの穴が突然現れて吸い込まれそうになるのであわててふたをする。たぶんあの穴に吸い込まれたら帰って来れない。

翌日も、その次の日も、残されたものがやらなくてはいけないことは山積みだ。香典の名簿整理、いただいたものリスト、ケアマネージャーさんへの連絡、介護用ベッドの返却、保険の手続き、税金関係、銀行関係・・・・
感傷にひたる間もない。それがかえっていいのかもしれない。

しかしみんなちょっとずつどっか変だ。
手に持ったものをどこに置いてきたか分からなくなる。
電子レンジの中から老眼鏡が出てきた。
母は沈黙が怖いかのようにしゃべり続ける。なんども聞いたことを何度も。
わたしも平衡感覚がちょっとおかしくて、あちこち身体をぶつける。昨日は車の横っ腹をこすった。あぶない。なんだかへんな膜につつまれているような感じだ。平気だと思っていてもそうじゃないのかも。


最期は、ひゅーひゅー息をするのも苦しくて、まともにしゃべれなかったんだよな。
いまさらだけど、ちゃんとお話ししたかったな。
などとやっぱり、たられば話に縛られている。

ゆっくり、父の死に向きあっていこうと思う。
おとうさん、おつかれさまでした。ありがとう。

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コメント

何年か前に御自宅にお邪魔して、車で送ってもらったことがありましたね。
あのお父様が、と思うと涙がにじんできました。
遠くから、お悔やみ申し上げます。

投稿: シリウス | 2009年2月25日 (水) 午後 10時12分

ご冥福を申し上げます
合掌

投稿: mom | 2009年2月26日 (木) 午前 10時49分

 何か書きたいと思いましたが、なかなか言葉になりません…。 寂しいです。 でも、はなみさんの中に「おとうさん」は生きているとも思います。

 はなみさん、お母さん、お兄ちゃん、体に気をつけて。

投稿: こぐまちゃん | 2009年2月28日 (土) 午前 02時08分

何を言ってよいものか…
謹んでお悔やみ申し上げます。

私も父を亡くしておりますが、
私の心の中にはいつも父がいて、
何かあれば問いかけると、返答がある気がします。
演歌の歌詞にあるような「来ぬ人と」同じ、くらいにしか思っていません。

きっとお父様これからはいつも、
はなみさん、ご家族を見守って下さると思います。

投稿: Meguri | 2009年2月28日 (土) 午後 12時02分

シリウス殿
あのころは父も元気で我々も若かった。懐かしいですな。
ありがとうございます。

momさま
お心遣いありがとう。ご心配おかけしました。

こぐまちゃん
ありがとね。なんとも言えないというのはこういう感じだと思います。でも、ほんとにありがとう。

Meguriさま
そうですね。そんな気がします。
遺影があまりにかっこいい写真なので、なんか最期の印象じゃない、元気な父が戻ってきたような、黙ってそこにいるような変な感じです。
見えないけどもうすでにそばでうろうろしながら娘のすることにぶつぶつ文句を言っているような気がします。
ありがとうございました。

投稿: はなみ | 2009年3月 4日 (水) 午後 04時50分

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