おこしやす納骨【1】
【納骨/京都1日目】
父の納骨を済ませました。
よく晴れた日曜、朝10時からということで、現地(墓)集合だった。
もうすでに母と兄一家は到着していて、墓石屋さんが墓石を動かし開けていた。
墓の真ん中部分、花を生けるところがぱかっと手前に倒れて中が開くようになっているのだった。
墓の中を見るのはこれがはじめてだ。
中の底は土だった。古ぼけた白い骨壺が二つあった。ひいじいちゃんと、ひいばあちゃんだそうだ。
考えてみたらあたりまえだけど、墓の中に骨があるというのはなかなか驚きの事実だった。
骨壺から出して、ざらざらと入れるところもあるらしい。土に還すためだと言う。
「では入れさせていただきます」と、墓石屋さんが父の骨壺を袋からとりだし、二つの骨壺の前に置いた。ぞりぞりっという音がして骨壺は三つになった。
父の骨壺は濃いブルーに金彩で華やかに模様が染め付けてあった。
趣味が悪い、と母がぶつぶつ言っている。骨壺の柄を選ぶような余裕も選択肢もなかった。
皆が手をあわせ、墓石が元通り閉められた。
お坊さんにお経をあげてもらい、花を供えて納骨は終わった。
父は転院の時も従順だった。
時間に遅れては迷惑をかけると、きちんと支度をして車椅子に乗り、病院を移った。
新しい病院では大学病院から来た先生と、肺機能のリハビリをするんだと言ってはりきっていた。
転院すればするほどケアの質は落ちると聞いたことがあるが、やっぱりその通りだった。
おとうさんよかったねぇなんて連れてきたのに、酷い。
自宅で看るのを決心するまで2週間かかった。家に連れて帰ることを決めて主治医に話したその日、もう今から帰るなんて言い出したら大変だよといって父には伝えなかった。
準備がすべて整って話すつもりだった。その晩に父は亡くなった。
きっと絶望して死んだのだ。
どうして、ひとこと、もうすぐ家に帰れるよと言ってあげなかったのだろう。
そのひとことが希望になって、もう少しがんばれたら、父は家で死ねただろう。
父は黙って墓に入った。
おとうさんよかったねぇなんて、これで安心だねぇなんて、墓の中では希望もなにもない。
■
分骨、という風習があるそうで、ひいばあちゃんもばあちゃんも、京都に分骨したんだそうだ。だから父も、のどぼとけを小さな骨壺に分けてもらった。
それを納めるため、母と息子と京都に行ってきた。
小さな骨壺をどうやって運ぶか?と母は悩んでいた。
白い三角巾で息子の首からぶら下げたら?と言うと、おとうさんはそれが一番喜ぶかもねぇとため息をついた。
結局、白い大きなハンカチを買い、ふんわり包んでハンドバッグに入れたようだ。
「朝、おとうさん行こうかってハンドバッグに入れたらね、からんって。
まぁおとうさん、かわいらしい音させてから、ねぇ」。
息子は「ホテル」に泊まれるのでもうウキウキだ。「ホテル」が憧れだったのだ。
新幹線も大好きだが、もうお兄ちゃんだから、それよりも「ホテル」が楽しみなんだそうだ。「ホテル」に行きたいなんてよそであんまり言うなよ。
京都駅に着き、タクシーで大谷祖廟へ。祇園さんのそば、円山公園にある。
えーホテルじゃないのぅ?と息子は不満げだがこれがこのたびのメインイベントであるからにしてしっかり参拝するように。
受付を済ませ、待つ。骨壺と最後の記念撮影をする。
しばらくして名前を呼ばれ、その他大勢の参列者と講堂に入る。正面に骨壺が6つほど並び、読経が始まる。参列者が順に焼香する。その後、骨壺を持って数段石段を上り、廟へ。
骨壺を渡すと、廟の鍵をあけて裏手にまわり、「ただいまお納めいたしました」とカラのお盆を持ち戻ってきた。鍵が閉められ、納骨が終わった。
そこは親鸞聖人や歴代の遺骨が門徒の遺骨と一緒に納められてるんだという。
倶会一処〈くえいっしょ〉、死んだら右も左もみな一緒。
「きっと裏でじゃーっと骨うつしておしまいなんよ」。
母は、「わたしのときは分骨、しなくていいから」とぽつんと言った。
タクシーをひろい、とりあえず寺町通りへ。
ああここが四条、ここが南座、そういえば結婚前、父と母と独身最後の旅行に行ったのも京都だった。
おとうさんと京都、来たよねぇ。
「ああ、そうだったねぇ」。あれから10年。それきり黙って京都の街を眺めた。
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