テレビに出たのだった
先週の放送から1週間経ち、見ていただいた旧知の方々からメールをたくさんいただきました。会う人にも「見たわよ!」「お母様おきれいね!」などとにこにこお声がけいただきました。
母はデパートで見知らぬ人数人から「あら!テレビにでてらした!?」と声をかけられて参ったと言っていました。
息子の保育園の彼女は「あー迷う」と。同じ時間帯に嵐の番組があったらしく。おまえね、嵐とどっち見ようかなんて迷われるようなことは一生ないと思うぞ。
翌日彼女からは「あまえんぼさんじゃったね」とお言葉をいただいとりました。
母と息子とわたしが出た番組はこのようなものでした。
「報道ステーション」(テレビ朝日)
2009年11月26日
『松岡修造コーナー 写真家アラーキー69歳が撮る…日本人ノ顔』
シリーズ「ニッポン元気宣言」。アラーキーこと写真家・荒木経惟が7年前に始めた「日本人ノ顔」プロジェクト。顔写真を通して、各都道府県の風土や歴史を後世に残そうというもの。7回目となる今回は広島で行われ、一般公募で選ばれたモデル1035人を撮影した。アラーキーが日本人の“顔”にこだわる原点は、亡くなった自分の両親の「顔」を撮影した体験にあった。広島市現代美術館で開催中(12月6日まで)の写真展までの道のりを追う。(番組HP/特集コーナーより)
この、“一般公募で選ばれたモデル”として、うちの家族と、脱サラしてお弁当屋さんを始められたご夫婦と、妊婦さんが選ばれたのでした。
ことのはじまりは夏でした。
2月に父を亡くし、四十九日やら分骨やらを済ませてぽっかりしたそのタイミングで、天才アラーキーが撮る「広島の顔」モデル募集の告知を知りました。
しょぼくれていた母を励ますつもりで、ほら、天才に撮ってもらうチャンスなんてなかなかないよなどと言い、母とわたしと息子の3世代で写真を撮ってもらおうと応募したのでした。
その応募用紙の応募動機欄に「母は6歳の時に被爆しました。死なずに生きてくれていたから、わたしと息子が生まれることができました。アラーキーに親子3世代の今を撮っていただきたいです」ということを書いた。
後日、モデルに選ばれた旨、撮影日時のお知らせハガキが届いた。
モデルに選ばれたよ、と母に伝えると「ええーっ・・・何着て写ろうかしら・・・」とうろたえていた。
それからしばらくして、事務局の方がテレビ朝日からの取材依頼を伝えてこられた。あらまあ、いいですよなどと軽い気持ちで受けたのだった。
しかし、何を取材したいのか、それはすぐ分かることだった。母の、被爆体験だ。
実は、母が6歳で、爆心地から2Km(全壊地域)で被爆してなぜ死ななかったのか、それは長いこと聞けずにいたことだった。
祖母は当時31歳で、爆心地から1.5Km猿猴橋の橋の上で被爆、全身に大やけどを負った。もう13年も前に亡くなってしまったが、着ていた服のあとがくっきりと焼き付いたケロイドの跡は生々しく覚えている。
毎年8月6日になると、思い出した断片を語ってはくれたが、時系列に整理されてなくてよく分からないままだった。祖母には結局詳しい話を聞くことができなかった。
心の傷は、たぶん想像を絶する。それを思い出させて追体験させるのは酷いことだと思う。「ヒバクシャの心の傷を追って」(中澤正夫著・岩波新書)という本も読んでみた。語ろうと思い出すと、あのときの情景が、においが、フラッシュバックすると、だから話すのは嫌なんだと被爆者がインタビューに答えていた。そのとおりだと思う。
しかし、母も老いた。もう時間がない。息子が「げんばくどーむ」がわかるようになった昨年の夏、思い切って話をきかせてとお願いして、あの時のことを最初から聞かせてもらったのだった。
その時に書き留めたものがこれ。「sobotohaha.pdf」をダウンロード
6月、ご説明とヒアリングにということで、ディレクターの方が家にこられた。
「お母様に当時のことをお話ししていただきたく・・・」
やっぱり・・・どうしよう。娘に語って聞かすのではなく、テレビで話すのだ。今まで誰にも話したことなかったのに。まだ断るかどうか悩んでいた。
母に説明するのが気が重かった。
「あのね、取材に来られるって。原爆のこと、聞きたいんだって。テレビで話すの、大丈夫?」
「ええっ!うちに!? どうしよう・・・スタッフの方は何人来てんかね?」
母の心配は、来客の茶菓子の用意が真っ先だった。母らしい・・・昔からうちに突然友だちを連れて来ても、いつでもなにかしらケーキやらお菓子やらわんさと出し、友だちの評判は至極よかった。
「あのー・・・カメラの前で被爆体験しゃべるんだよ、大丈夫?いやだったら断ってもいいんだよ?」
「まあ、あなたが受けてきた話だから、しゃべるわよ、大丈夫よ」
ということで取材当日、わたしは美味しい水出し珈琲の準備を厳命された。朝早く実家に行くと、慌ただしくお皿やカップをがちゃがちゃやっていた。
レポーターの松岡修造さんが爽やかに登場。例えばこれが「食いしん坊万歳」のロケだったら、明るくいろんな人に声をかけて、撮影現場はギャラリーで一杯だったかもしれない。だけど内容が内容だけに、母もわたしも誰にも話す気になれなかった。
ピンマイクを装着、ライト、カメラを前に、松岡さんにインタビューされる。これはかなりの極限状態だった。息子はただならぬ雰囲気にもぞもぞしっぱなしで、「ごめんね、ピンマイク外そうか」。松岡さんに「ちょびくんはじゃあ保育園でその絵本を読んでもらったの?」「・・・・・」「おーーーーいちょびっ!!」と喝をいれられていた。だめだこりゃ。
すでに何度もディレクターの方に話していたことを、まるで初めて話すかのように話すのはほんとうにしんどかった。母は血圧が上がっていく音が聞こえてくるようだった。
母が被爆体験を話す。「もう、そのへんの死体にいっぱいうじがわいていましてね、祖母が見ちゃいけんのよ、こっちにおいで、と言っていたのを覚えています」
この話は初めて聞くことだった。思い出したくない映像を今母は見ている。忘れていたものをほじくりかえして見せてしまった。ごめんなさい。アラーキーに、きれいな服着て楽しく写してもらうだけのはずだったのに。
実家から、タクシーで移動して撮影。そこは母が祖母たちと逃げる途中に通った峠だ。
「もう市内は一面火の海で・・・」母の目にはあの日の景色が写っている。わたしには見ることができない景色を。
撮影終了。母もわたしもぐったりした。なにをしゃべったかよく覚えていないし、緊張したし、なんだかとても疲れた。
そういえば、「お母様の小さい頃のお写真をお借りしたい」ということで、古いアルバムをごそごそ探した。母が七五三で晴れ着を着た写真があった。「これは焼けずに済んだんじゃねぇ、どっかに疎開させとったんかね」。そして、祖母の被爆前の写真も出てきたのだ。びっくりした。今どきのアイドルというか女優というか、輝くような笑顔の美しい女性だった。負けた。というか、こんな顔を焼かれて、それでも生き続けた祖母の気持ちを思うと・・・想像がつかなかった。
7月、マツダスタジアム会議室で「広島の顔」撮影。アラーキーはもうすごい精力的に「エイッ!」「ハイッ!」「いいねー!!」と気合いをぶつけて撮影されていた。
わたしたちの番。撮影ポジションに立ったとたん、もうアラーキーは母しか見てなかった。わたしと息子はオマケである。息子はわけがわからず歯を食いしばって崩れ落ちそう。「ちょっとボク!酔っぱらいみたいにしない!女ったらしになるんだろ!?」わたしは結局「おかーさんね、背筋伸ばして」と猫背をたしなめられるにとどまった。いやー、年期が違うというか、母には勝てません。
それから数ヶ月経ち、写真集ができ上がった。
「あらー。よく撮れてるじゃない」母の顔が明るかった。
現代美術館で展示された自分たちの写真の前でひとこと、という撮影も無事終了。
放送日も2転3転したがやっと放送になった。
あれだけの取材ボリュームを、よくこんなに上手に爽やかに編集されたなあと感心した。
母も、よう写っとってよかったねと言っていた。
だから、よかったのだろうと思う。
ディレクター、スタッフの方々はいい方だった。マスコミはとか、テレビは、とか、ひとくくりにしてものを言ってはいけないな、こうしてほんの数分のために地道に取材をしているちゃんとした人々もいるのだからと思った。
それにしてもこの夏は、取材をすることとされることについてしみじみ考えさせられた。
いつも取材をする立場なのだが、取材をされるということはこんなに負担が大きいのかと驚いた。話していることがちゃんと伝わっているか、過不足なくしゃべれているか、しゃべったことが果たしてちゃんと表現してもらえるのか、そしてしゃべったことになにか意味はあったのか。迷いと恥ずかしさと、取材を受けた後悔と。
わたしが今まで取材していた人たちも、こんな思いで取材を受けていたのかと思うと、その思いにちゃんと応えていただろうかと腹の底が冷たくなるようだった。
だから、ほんとうに勉強になった。
取材をさせてもらう人には、話を聞かせてもらった人には、話してよかったと思ってもらおう、最低限、意味のあることだったと思ってもらおう、それに加えて、なにか取材されることで自分も気がつかなかったことを発見してもらえるような、そんな取材をしなくてはいけないと思った。
テレビに映っていたわたしたちを見た人たちは、概ねにこやかに微笑ましく、わたしたちのことを見てくださったようだ。それが救いだ。
そして、被爆者の父を持つ友人からこんなメールをもらった。
ーーーーー
はなみが話していたことは、私も父のことで同じように感じているよ。そういうことが全国放送で取り上げられたことは、よかったと思うし、うれしいです。
ーーーーー
友人がお父さんに話を聞くかどうかはわからない。ほかにも両親にちゃんと聞いたことがない被爆2世はたくさんいる。
どっちがいいのかわたしにもよくわからない。でも、話してくれた母は、やっぱり後世に伝えていかんにゃあいけんのんかなあと思うようになったと言っていた。(でもテレビはもうこりごりだそうですが)
忘れるのは簡単だ。思い出すのは痛すぎる。だけど、被爆2世という、望んだわけでもないアイデンティティと向き合わなくてはならないのではないかとわたしは思います。
それが、このたびのテレビ取材のお話でした。見てくださった方、取材してくださった方、ありがとうございました。
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コメント
心に響く話、ありがとうございました。
僕は映像で見れていないのですが、
文章から、映像が目に飛び込んでくる
感じがしました。ああ、見たかったなあ。
投稿: doumori | 2009年12月 6日 (日) 午後 12時50分
doumoriさま
ありがとうございます。
テレビ朝日・報道ステーションHP内「特集」「動画」というコーナーにアーカイブされているようです。
わたしのパソコンでは再生できなかったのですが、見られると思います。
しかし・・・・いいですご覧にならなくても
投稿: はなみ | 2009年12月 6日 (日) 午後 06時22分