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2010年2月25日 (木)

旅のはなし

Ume_3

父の命日の翌日、ちょっと旅に出た。

行き先はもちろん温泉。ちょうど雪も気にせず行けそうだったので、島根・玉造温泉に。

レッツゴー!と出発したはよいが、「あ!!ひげ剃り忘れた!」と自宅に戻る。
まあすぐ気がついてよかったねなどと笑っていると、後部座席から

「パパちゃん、“うっかりわすれものにきをつけよう”だって!」

バレンタインデーに保育園のお友達からもらったチョコを食べていた息子がこう読み上げた。
そのチョコの個包装には、おみくじがついていたのだった。

あはー当たってるね、なんていいながらドライブ。気持ちがいい天気だ。

高速降りて日本海沿いの国道9号線、追い越し禁止の1車線、先頭はパトカー。
ちんたらちんたらの閉塞状況に、発作的にハンドルを切って降りた先が「琴ヶ浜」。

Kotogahama

鳴き砂で有名な海岸。砂は鳴らなかったが、気持ちいい。裸足でしばらく遊ぶ。

車に戻って走りはじめると

「“おさんぽすると、よいことがあるよ”だって!」

おお!今お散歩してきたからいいことあるんじゃない?
なんかうれしくなるおみくじだね。

昼ご飯前に、出雲・湯の川温泉に立ち寄り湯。
日本三大美人の湯というだけあって、肌つべつべ。

さあ、お腹空いたね、とランチに向かおうとした時
「“おいしいものがたべられそうなよかん”だって!」

・・・・!!!
なんかびたびた予言があたる。
オットが
「ちょび、じいちゃんついてきとるよ・・・」と。

そうか、そうだよ。命日、一周忌記念でシャバに帰ってきてるんだよ。
じいちゃん、ちょびが大好きだったからなぁ。
ちょびにひっついて、付いてきてるんだ。

春のようないい天気、1年前の今日も、葬式の日、こんな青い空だった。

おとうさん、息子、もうすぐ1ねんせいなんよ。
後部座席に息子と並んで座ってるであろう父に、ランドセル姿を見せてやりたかったなぁと思うと泣けて仕方がなかった。

「あーっ!!!」
先ほどの温泉に時計を忘れたといってUターンするオット。
「ぜったいお父さん来とるんよ。なんかソワソワするもんー」
オットよ、目に見えなくとも緊張するのね・・・。


さて昼食は奥出雲葡萄園にて。

Okuizumo

あはーーーー
なんて美しいんでしょう。シャルドネ。

料理は出西窯の皿に盛られている。美しく豊かだ。

パンと一緒に出てきたディップ、ひとつはオリーブオイル。白いのはカリフラワー、茶色いのはアンチョビ、グリーンはほうれん草、なんて勝手に思っていたらオットが複雑な顔で「・・・ちがう」。
なんだろう、なになに、あ甘い、何の味?と盛り上がっていたら、サービスのソムリエの方に「蜂蜜ミルクと、抹茶と、珈琲のコンフィチュールです」と。

美味しいし、美しいし、もう楽しくて、息子もクラムチャウダーがよっぽど気に入ったのだろうみんなのスープを飲み干した。

メインのポトフ、うまーといただいていると小さいグラスにピンクのワインが注がれて出てきた。
「豚にもよく合いますので。」

えーロゼって甘いんじゃないのと思ったら、すっきりと辛口で、なんというかベリーというか果物のようなフレッシュな香りがほんとうに豚によく合った。
ポトフのスープも「ずっと飲んでいたい」殿堂入りの美味しさだった。

最後のデザートも、あつあつのアップルパイにラムレーズンのアイスが添えられ、そこにまた小さなグラスでデザートワインを出していただいた。
このアップルパイ、アイス、デザートワイン、魂がめろめろになってゆくのがわかった。
「炭酸水で割っていただくと、美味しい食前酒になります」という言葉で、買って帰ろうと決意。

先ほどのロゼ「きすきのさくら」とデザートワインと、西製茶所の出西生姜紅茶と木次乳業のヨーグルトを買った。

Budouen


玉造までは遠くない。
宿は「湯の助の宿・長楽園」。ここにお世話になるのは2度目。

車で到着すると、わらわらといろんな方が出てきて荷物を持ってくれたり車を移動させたり、古き良き旅館のおもてなしが感じられる。

なんてったってここには“120坪の源泉掛け流し混浴露天風呂”があるのだー。

女性は花柄の“巻き布”を装着して入る。
家族みんなででっかい露天風呂を満喫できるなんて極楽だ。


Kyodairotenburo

Tamatukuri

「ひとたび濯げばかたちきらきらしく、再びゆあみすれば万の病ことごとに除こる」(出雲国風土記)

玉造の湯は湯上がりがいい。肌がもっちもちのしっとりつやつや。ずっとつかっていたい・・

翌日、近くの「作玉湯神社」にお参り。
古代、祭祀用の勾玉が作られていた聖地だそうだ。
そこには「叶い石」というお守りがあって、中の石(水晶)を境内の「願い石」という丸い石にあてて御神水をかけるとそのパワーが宿るのだという。
紙に願い事を書く。
息子の願い事は
「かっこいいいちねんせいになれますように。」
たぶん叶うぞ。

ちょっとドライブして、安来のカフェロッソでパニーニとはちみつロールケーキとバリスタチャンピオンタイトル保持者のカプチーノをいただく。

そして「マリンタラソ出雲」。

ここは我が家の聖地と言っても過言ではない。

ああ、魂ってこんなに綺麗だったのかと思うくらい洗濯できる。

多伎の目の前の海から汲み上げた新鮮な海水の「元気海プール」。
ずーーーーーっとつかっていた。


目に見えないものに耳を澄ませば
あの世から遊びにきた父にも会えた。

自分を信じてあげること。家族と仲良く暮らすこと。

少々のことじゃゆらがないくらいに満ち満ちた。
いい旅でした。

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2010年2月19日 (金)

逃げろ

 ツイッターって中毒性がある。
 じゃんじゃん更新するタイムラインに、いろんな会ったことないけど知ってるような人の満を持したつぶやきが現れて、そういう中からへーとかふーんとかこりゃいいなと楽しんでいたのだ。楽しんでいただけならよかったが、いちいち読まなくちゃ落ち着かなくて、旅に出ても仕事をしてもつぶやくとしたらという言葉を考えて、読まない今のタイムラインが気になって、あいほんを手放せない日々が続いていた。

 で、
 知らなくていいことまで知ってオーバーフローして、一気に嫌悪感が増していやになって、ぶっつり止めた。

 なんなんだ。
 いつもわたしはそうだった。
 夢中になって、いっしょうけんめいになって、ぜんぶがそれになって、なにか見えてきて、嫌になって、いやなのが耐えられなくなってぶちっと切り捨てて逃げるのだ。
 仕事もそうやって転々としてきた。ああ負け戦人生。


 自己嫌悪でうつうつとしてたとき、たまたま通りがかって「恋する化学物質」というはなしを読んだ。
 恋すると生まれる感情は、脳内のドーパミンとセロトニンの働きによるらしい。
 ドーパミンはこう、寝食忘れて夢中になる作用があるわけだが

(以下引用)ーーーーーー

恋をしている人の脳は
セロトニンの分泌量が低下するのです。
ドーパミンは増加するけど、セロトニンは低下。

セロトニン分泌量が低下すると
一種の強迫観念を抱くようになります。
強迫観念とは
「わかっているけど、やめられない」状態。

ーーーーーーーーーーー

 おお、ツイッターに恋していたのかわたしは。アホくさ。
 というわけで今は脳内物質も安定し、ツイッターもたまにひやかすくらいのつきあいを心がけようと思っている。


 それにしても。
 朝青龍をやっつけて、腰パンの国母くんの競技が終わって、さあ次は誰を吊るし上げるのか。それともヒーローにまつりあげてハシゴを外すのか。
 ざまあみろ、そういう胸のすくカタルシスのシナリオはもう用意されているはずだ。
 なんなんだ。


 なんかいやだなと思っていた先日、実家の母が
 「雑誌買ってみたけどどうも若い人向けだったみたい。読んだからあげるわ」と雑誌をくれた。表紙に“35歳”がどうたらって書いてあるじゃんか。買う時わかるじゃろとぶつぶつ言いながらも普段絶対自分では買わない雑誌だったので興味深くめくってガクゼンとした。

 有名モデルが“ファッション雑誌のエディター”という設定で「金曜日、ファッションブランドの展示会巡り」などとスタイリッシュな1週間コーデを披露していたり、「大勢の前でのプレゼンもシャイニーニットでオーラ倍増」「ふたりきりの打ち合わせロングニットで急接近」などと妄想爆発しているのであった。

 なんというか、35歳、そんなことでいいのかよ、と腰が抜けた。

 「これが名誉で幸せなことだ」というわかりやすい例がエディターだったり、大勢の前でプレゼンする私だったりするのだ。

 幼稚すぎるじゃろと思いつつバラバラめくっていると、最後の方は「働きながら子どもを産むこと」についての特集だった。そして不正出血に悩む人へのアドバイス、産婦人科を受診しましょうという読み物もあった。

 怒りをとおりこして切なくなってしまった。

 この雑誌を読む35歳の女性たちは、勝ったり幸せだったり、与えられるそういうイメージと自分とのミゾを埋めようとしてどれだけのお金をつかいどれだけ努力しているのか。
そのミゾは永遠に埋まらない仕組みなのに、気がつかないように目隠しされてる。

 JMM (Japan Mail Media)から配信されたメールニュース「[JMM571W] 心理経済学講座セカンドシーズン 第32回/妙木浩之:東京国際大学人間社会学部教授」
の中にこういう記述があった。

(以下引用)ーーーーーー

 ちなみにファシズムとは何か、これが精神分析を始め心理学が取り扱ってきた権威主義的人格についての研究の主題でした。そしてその研究を始めたフランクフルト学派にいた時代のエーリッヒ・フロムが述べた「自由からの逃走」という、経済状況が悪くなることと関連して、私たちの心の中に自由から逃走して、画一的な全体主義的
な、カリスマ待望の心性があることが明らかになりました。この心性は以前にお話しした集団における原始心性の現れ方のひとつです。そして資本主義社会では、不幸にもユダヤ人虐殺と対になっているのです。その原始心性が生み出す想定が、私たちの深部にある依存傾向、そしてそれを逆転させて競争を勝ち残ろうとする権力志向、さらには排除を説明してくれるものです。羨望は嫉妬を圧倒します。

ーーーーーーーーーーー


 「自由からの逃走」。
 なにか画一的な全体にとりこまれて安心して心地よくいたい、そのための全体の仮想敵と理想像が必要で、それを日々読ませ聞かせ刷り込んでいる。
 誰が?それは自覚しない善良な市民がよかれと思って?
 そしてだれを虐殺しようとしている?

 先日映画を見に行ったのだった、「ゴールデンスランバー」。
 首相暗殺事件の「オズワルド」にされた男が仙台の街を命がけで逃げまわる話だ。
 伊坂幸太郎氏の直筆原作サイン本をいただいたこと(自慢)もさることながら、音楽監督・斎藤和義、見ない訳にいくまい。
 ビートルズの「ゴールデンスランバー」をカバーした曲がオープニングにかぶさってくるところでもうすでに泣けた。映画館の空間にせっちゃんの声が響くだけで泣けた。
 劇中曲すべてせっちゃんの音だった。
 当然サントラも買った。
 最後の大脱走シーンのテーマに歌詞がついた「ランナウェイ〜こんな雨じゃ〜」という曲の歌詞がこうだった。

(以下引用)ーーーーーー

こんなところで殺されるくらいなら オレは逃げる
たとえ無様な姿さらしても オレは自由だ
ねえ キミは満足かい?
名無しでコソコソ送信 そいつに返信するしょっぱいバカ
吐き気がするぜ こんな雨じゃ

ーーーーーーーーーーー

 マイケル・ジャクソンが亡くなって、聞き覚えのある曲をよく耳にするようになり、愛のメッセージを伝えた人だったと皆が言うけれど、英語がからきしだめな私にはメロディーしか記憶がなくて、どんな歌詞の意味なのか知りたくて、なにげに「今夜はビートイット」を検索してみてたまげた。

 Beat itとは、ずらかれ、つまり、逃げろという意味なんだそうだ。
 知らなかった。

 マイケルも、逃げろと言っている。


 殺されはしないとは思うけど、逃げた方がよさそうじゃないか?

 立ち向かうにはあまりに相手が見えなさすぎてでかすぎて、もしかしたら本当にくたばってしまうかもしれない。
 逃げろ。

 慎重に、そいつは隠された悪ではないのかと疑うこと。
 うかつに握手をしないこと。
 正しいこと本当のこと、そう言われていることが本当に正しいのか注意すること。
 そして逃げろ。

 卑怯だろうがなんだろうが、逃げろ。
 ただし孤独だ。
 今も荒野を走ってる。どこに向かうのか?それはわからない。


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2010年2月13日 (土)

いまはまだ甘えさせて

ごぶさたしとります。みなさまお元気ですか。

お年賀状いただいた方、特にお仕事関係の方、ありがとうございました。
喪中ゆえ、寒中見舞いをと思っていたら、立春を迎え。

・・・すんませんでした。

元気にしとります。相変わらずです。

この4月から息子小学生です。
5年間お世話になった保育園ともお別れです。
息子は「いちねんせいになる!」とはりきっていて、わくわくしてる様子じゃが、母は寂しい。
あんなによくしてもらった保育園・・・さみすぃいいい。

息子が、というより、母が育ててもらった保育園。
カウントダウンの日々。
さいごの節分、さいごの作品展、さいごの・・・・
ひとつづつ済んでいく。

そういう傷心の日々です。

で、昨年末からツイッターやって、面白かったけどもう疲れた。

もう、目ばっかし酷使するのやめようと思った。

ちゃんと耳を澄まそうと思った。

それは、自分の内側に。

最近自分の内側に潜む声に耳を貸さないでいたら、なんだか気がついていることと知らんぷりしていることと、知りたいことのバランスがぐちゃぐちゃになって辛く重い気分だった。
流言飛語と自分のスピードがあわなかった。


そんな中、母と息子と京都に、父の墓参りに行ってきた。

そうそう、そこでの話は一部ここで。

帰る前、錦市場の「有次」で母が包丁に名前を入れて渡してくれた。

帰宅してその包丁をおろしたら、今までのは何だったのかと思う切れ味にびびった。
スッ、トン、とまな板にクッと止まる。
切り口は瑞々しくて切られたと気づかない細胞がまだ生きている(大げさか)

なんかね、「一生使えるものをあげようと思っとったんよ」という母の遺言というか、
家族の口に入るものくらいちゃんとしなさいと。

ああ、わたしは目の前のことをないがしろにして、マボロシの、会ったこともない、知らない人の、いろんな言葉にとらわれて滑稽なことよ、としみじみ思った。

だからツイッターやめた。もういいやと。

息子は日に日に大きくなって、いつだろう、だーいすきと気軽にぎゅっとできなくなる日が必ず来る。
それまでのカウントダウンを大事にしたい。
新しい包丁が気持ちよくて、切り刻むのが快感で、野菜いっぱい切って切って食べている。

忘れていた自分の中の怒りも聞こえた。
てめぇ、うそばっかり書きやがって、かっこばっかり、つけやがって、
静かに、かたちにしていく作業にとりかかっている。

今は、切ない季節だ。
はやく花が咲いて、あたたかくて、陽気な春になってほしいと思いつつ、
保育園の、ヒナの、甘ったれた日々をいつくしみたい。

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