外で遊びたい
先日からほんとうに外が気持ちよかった。
高宮のテージャスランチという牧場の高台の草地で、日没までねばって気持ちのよい空を撮影した。
日の加減や雲の様子を待つ間、いいにおいの風の中でぼけーっとしながら、だらだら話して笑ったり、ホバリングするひばりを眺めたり、その直下に巣と、ちいさな卵を見つけて息をのんだり、伸びすぎた蕨のあしもとに、それでも食べられそうなのを見つけてぽくぽく折ったりして遊んだのだった。
遊びじゃなくて仕事なんだけど、そういうみんなの気分が写ったように、素晴らしい写真が撮れた。
今朝も、起きたら気持ちのよい晴れだった。
息子と寝坊した布団の上でだらだらしててももったいなくて、そうだ、母を誘ってドライブに行こうと思ったのだった。
父と母と、晴れた日曜はドライブによく出かけた。
母がつくったお弁当を持って、山に行って、みんなで草の上で食べた。
母を誘うのに、美味しいレストランがあるよ行って見ない?ということにした。
福富町のカドーレだったら、1時間くらいのドライブで、息子も母も飽きずに着くだろう。
後部座席で、母は嬉しそうに話をする。
友人の話、近所の人の話、趣味の話、娘には気安くて、愚痴まじりの話が途切れず続く。
高速を降りて、大きな道から折れて細い道を行きはじめると、したたるような緑の中だった。
田んぼには水が入って、早苗が整列していて、山はほんとに美しかった。
しかし母の目に映るのは昔の記憶で、
「きのうね、スイスを旅するテレビやりよってね、お父さんと行ったところをね、女優さんが旅するの。そこが曇ってて見えないけど、本当ならこんな景色ですっていうその映像がね、お父さんと見たまんまよ。わたしら、運が良かったんじゃろうと思ってね。お父さんが生きてたら、あんな景色、まだまだ一緒に見れたのに、ちいと早かったよねぇと思うてね。ええ人じゃったのに、ええ人ほど、早う行くようねぇ。」
カドーレは土曜なのに案外人も少なくて、レストランは並ばずに入れた。
自家製のモッツァレラチーズや、近くで育った野菜、美味しくて満足だった。
レストランの側の馬や牛を息子が喜ぶかと思ったのに、遠巻きに見てるだけだった。
新しくできたケーキ屋さんをのぞいて、おみやげ買って帰った。
帰りの車内で息子は大はしゃぎし、緑茶のペットボトルをシャカシャカ振り回して、ぶくぶく泡を立ててきもちわるい〜ばあちゃん飲んでみて〜〜いやよ気持ち悪い!と賑やかなこと。
「もう誰がこうよなことしたんね。」
「んーと、じいちゃん!」
「あぁ、・・・・じいちゃんかもしれんねぇ。じいちゃん、ちょびのこと大好きじゃったから・・・」
母の、あぁ、という声に、うろたえを見た。
見えない夫が、この車の中に、いるのではないかという、そんなわけはないと思いながらも、そうだったら、なぜわたしには見えないのだろうという、うろたえだったと思う。
田舎道の新緑が流れていく。誰の目にも映ってない景色は美しすぎる。
遊びすぎた息子は夕方の変な時間に寝てしまい、夜中に目を覚ましてパパちゃんと風呂に入った。
6歳、
大きくなって、もう赤ちゃんじゃないんだなぁ。
乳歯が、やっと1本ぐらぐらしてきた。大人の歯になるんだな。
ベッドに入って、眠れなくて、かーちゃんに抱きついてきた。
よしよしして、チュッチュして、にっこりした。
いつまで、こうして眠るんだろう。
風のようにすり抜けていくものを今わたしは抱いている。
母の年になったとき、母の気持ちはやっとわかるのかもしれない。
父の気持ちは、死なないとわからないかもしれない。
ずっと苦しかった。
会社をいくつも辞めてきた。いいわけのように子供を産んだ。
ひとりになって、自由になって、楽になるはずがまだならない。
長い時間の来し方と行く末を考えるだけで立ちすくむ。胸を掴まれるほど苦しくなる。
草を摘んだり、卵をみつけたり、風のにおいを胸一杯吸ったりしているときが一番苦しくない。
昨日も、明日も関係ないから。
目をつむってあの草原を思う。
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