母の防災袋
先日、母が突然
「ねえ、いらないリュックサックとか、持ってない?」
と言った。
聞いてみると、非常用持ち出し袋を作るのだという。
たまげたと同時に、そんなにまでと思った。
母は常々「広島は災害にはあわんよ。だってもうあんな災難にあってるんだから。」と言う。
「あんな災難」とは、原爆だ。母は6歳のとき被爆した。
災難の大きさで自然災害の割引があるとは思えないが、おだやかな瀬戸内海に面した広島に住んでいるとそんな気分にもなる。
だから、非常時に備えて、なんてことこれっぽっちも気にかけなかった母だった。
まあ、心配性の父が家中に懐中電灯を備え付けたりしていたから、ちょうど良かったのかもしれない。
父もいなくなり、今回の震災のニュースを繰り返し、ひとりで見ていた母は、さすがに不安になったんだろう。
いらないリュックなんてないので、母を東急ハンズに連れて行った。「あらいいのがあるじゃないの」と、軽くてかわいいのを見つけ購入した。
「何入れたらいいかしら。替えのパンツと・・・」
旅行に行くんじゃないんだから。
実は、わたしも怖くなって息子のリュックを非常持ち出し袋にした。
母同様、なんの備えもないのはどうなのか、イザというときどうするんだと不安になったのだ。
息子のリュックに、家の中にあるものをまとめた。ラジオ、軍手、ゴミ袋、新聞紙、カイロ、水、チョコ、ラップ、割り箸、とにかく、神戸の震災の時に役に立ったと聞いたものを詰めた。すぐにいっぱいになったのに、あれも足らない、これもないと、不安ばかりがふくらんだ。
で、ふと、いったいわたしはこれで何を守りたいんだ、と思った。
いつもと変わらない暮しを守りたいのか?
アホらしくなった。もしこの袋をつかんで家を飛び出ることになったら、いつもと変わらぬ、そんなわけないじゃないか。
とはいえ、家中にちらばってたものをひとつにまとめて枕元においておくと、まあできることはやっといたという安心感はあるね。なんの役にたつかはわからないけど。ひとまず花札もいれといた。
そんなことした後だったので、えらそうに、ゴミ袋は便利らしいよ、新聞も保温に役立つそうなと母に教えていると、
「はぁ、もうようわからんわ、適当につめとくわ。まあ、なんとかなるじゃろ。」
一緒にお茶を飲んでいた義姉が聞いた。
「それにしてもおかあさん、原爆の後学校とか勉強とかどうされたんですか?」
「うーん、やりよったよ。新学期の9月にはもう、近所に集まって勉強していたねぇ。寺子屋みたいに。先生がガリ版でプリントを刷ってね。」
「すごいですね・・・あんな焼け野原で・・・」
「そんなこと言っててもしょうがないからねぇ。」
母の家は爆心地から2、5Km、家は半壊。全身火傷して戻ってきた母(母の母、わたしのおばあちゃん)をつれ
て祖父祖母と逃げた。
1ヶ月ほどして戻り、近所の大工さんがほったて小屋を建ててくれた。秋の台風で川があふれて、壊れた家から持ち出した荷物もほとんど流された。「立派な宮がついていてねぇ、おとうちゃんがマルタカで買ってくれたのよ」お雛様が流れていったのがとっても悲しかったようで、毎年春になると思い出している。
ほったて小屋はすきまだらけで、冬には吹き込んでくる雪が見えたという。
そのほったて小屋からどのように復興したのか。
子供だった母は知らないという。
当時の広島市長だった濱井信三氏の著書がある。「原爆市長 よみがえる廃墟広島の記録」。濱井市長の娘さんが母と同級生なので、自費出版した本をもらったのだ。
そこには、被爆当日からどこにいてなにをしたか、財源はどうした、都市計画はこう考えたという回顧録がある。
立派な公会堂や、テニスコートや、病院や、ナイター球場や、そういう「明るい建設」にこぎつけるまでの当時の大人たちの働きが記録されている。大人たちは皆、お金を工面して、すごく働いたんだと知る。
読んでみたい方はお貸しします。ぜひ読んでみてください。
原爆と震災を一緒に考えるのは無理もあるけど、立ち上がる力が必要なことにかわりない。
母の話しを聞いても、祖母のことを教えてもらっても、つくづく明るくて強かったと感心する。
粛々と下を向くのではなく、明るくしたい。 そう先人から教えられている。
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