声にならない宣言
ツイッターってのは、なんだかデマやなんかが流言飛語で、こわいしよくわからないと聞くことがある。
わたしもまあ、わかってるわけじゃないけど、自動でいろんな言葉が流れこんでくるこの装置はおもしろくて日々眺めている。
たしかに、読んだとたん具合が悪くなるような毒を含んだ言葉もある。なーんでそんなに呪詛を飛ばすかなという。
そういうのにあたるとやられる。やられたらちょっと離れて深呼吸すべし。
でも、情報の正しさやらリテラシーやら、そんなのどうでもよくて、流れていく言葉の中には確かに美しいものもあるのだ。
ラジオのようにたまたまチューニングを合わせたときしか聞こえない言葉。流れ流れて過去になってゆく言葉。
日々の中で、面白いこと、腹立ったこと、旨かったこと、悲しかったことを、誰に聞いてもらうともなくぽろっと言葉にして流された言葉。
ため息のようにはかなく、すぐに消えていってしまうそういう言葉に、心ふるわされることがあるのだ。
たとえば、こういうの。
chacchyさんは、どういうつながりだったか、いつのまにかフォローし合っている方。お目にかかったことはないけど、1歳半の男の子の様子を微笑ましく拝読している。
ここのところの震災、福島原発のことで、ずいぶん心配されている様子がうかがえた。そして、先日いっぺんにつぶやき尽くされたのがこの言葉だ。
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昨日、今の状況やこれからの日本や子ども達の事を考えてたらなんだか涙が出てしまった。悲観したわけではなく、私の中の悟りだった。
例えば私の祖父母は戦争を経験して、祖父は戦地に行った。父方の祖父は原爆が落ちる前1週間前まで広島にいたがギリギリ難を逃れた。母方の祖父は露で拘束され労働をした。彼らは不幸だったか?
父母は戦後に生まれ学生運動や経済成長や不況を経験して今の時代を生きる。彼らは不幸か?私は今の時代に生きて不幸か? そんなことは本人にしか決められない。もし今の時代に生まれてお前は不幸だな、と言われたら私は否定するだろう。
困難ではある。今年に入ってさらに困難な時代になったと思う。でも不幸ではない。そして息子がこれから生きる時代が不幸かどうかは私には決められない。それは息子本人が決めることだから。
時代や周りの環境は変えられない。そのなかで幸せになるかどうかは本人次第。私は今の時代にしか子どもが産めない。どんなに願っても。今を生きるしかない。
だったら産むしかないなと。子どもが欲しいと思っているのは私たち夫婦で、環境や時代や国の為にその気持ちを押し殺す事は無意味なんじゃないかと。ただ、生まれた命が生きる時代は、より困難な世界かもしれない。
世界中の誰もが時代の子。今を生きるしかない。強くならなきゃな。そして息子が毎日笑って家族がいて楽しくて幸せだ。やっぱり子どもは4人欲しい。時代なんてくそくらえだ。私は幸せになるよ。
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これはもう、つぶやきというよりも見事な宣言だと思った。
命、
今生きること、
なんといきいきと生きている言葉だろう。
すばらしーい!とお声をかけると、
「どうせ生きるなら、笑って生きていきたいと強く思ってしまったのです!!」
と返ってきました。
どうか、新しい命をその腕に抱いて、笑って生きてください。
そういう言葉が流れる川のほとりで、耳を澄ましていますから。
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コメント
その通りだと思います。
よく、高度成長期は右肩上がりで、明日はきっと今日よりよくなるという希望があった、バブルのころは夢のようだった、それなのにいまはダメだ…てなことを言う人がいる。1960年代からのことを克明に記憶している世代としては、何を寝ぼけたことを言ってるんだ、と思う。
高度成長期は公害が頻発し、交通事故で今の倍以上の人が死に、水も空気も汚れ、物価はどんどん上がってた。バブル期には土地が恐ろしい勢いで値上がりし、家なんか持てない時代になると本気で心配していた。
いつの時代も人は不安だったのだ。危うい小舟で大海に漕ぎ出す。生きるとはそういうことなのだと思う。でも、その中で希望や夢を見つけたり、すばらしい人との出会いがあったり、家族や友人との時間を共有できたりできるのだ。
だから、時代や状況のせいにして今を悲観しても何も始まらない。今という時代を生きてるんだから、誠実に前を向いて行くしかない。ずっとそう思っています。
投稿: 炎の料理人 | 2011年6月 1日 (水) 午後 05時41分