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2012年4月24日 (火)

自分をそこに見る

 参観日があった。

 国語の授業で、「ぼくのわたしの自己紹介」。
 事前授業で、紙に自分が好きなものやことをいろいろ書き出して、そこから1つのトピックを紙に書き出して発表するというもの。
 絵を描いた方をみんなに見せ、裏の作文を読む。

 「ぼくがすきなことは、サッカーです。サッカーをすると、たのしいからです。たくさんゴールをきめたいです」
 パチパチパチ
 「わたしのしょうらいのゆめは、おいしゃさんになることです。たくさんびょうきのひとを、すくってあげたいからです」
 おおー、パチパチパチ
 「ぼくのすきなきせつは、はるです。きもちがよくて、ちょうちょやはなが、たくさんあるからです」
 パチパチパチ

 息子の番だ。

 あれ?あれ?
 縦書きの紙なのに、横向きに絵を描いておる。
 友達に指摘されて横向きに出すと、うらの原稿が読めない。
 くるっくる紙をまわし、笑われ、本人も笑っておる。
 「ぼくがすきなことは、ウイーのマリオです。パパと、すてーじ2のボスがたおせないのでくやしいです。はやくボスをたおしたいです」
 パチパチ・・

 ゲームかよ!!!(参観保護者の心の声が響いたような気がした)

 そこにはテレビに向かって、ながながと横になってゲームに興じる馬鹿親子が描かれていた。

 かーちゃんは恥ずかしいです。

 「ぼくのしょうらいのゆめは、サッカーの日本代表になって、ワールドカップにしゅつじょうすることです。ぜったいに日本代表になりたいです」

 そんなリッパな夢を抱いてる子もおるわけだ。

 どこでどうまちがえたか。

 帰り道、自転車を押しながらとぼとぼ聞いてみる。

 「あのさ、なんでゲームにしたの?」
 「ぼく、すきなことっておもったけぇ、ゲームにしたんじゃけど、みんなぁ、しょうらいの夢とかはっぴょうしたけぇ、どうしようかなーってドキドキしたんじゃけど、Kくんもマリオ好きっていったけえ、ほっとしたんよ」

 あのなぁ、自己紹介ってのはな、自分がどういう人間に見られたいかをさりげなく表現する行為なんだよ。おまえが発表したことはな、ぼくはゲームばっかしやってるアホ人間ですって表明だよ、
 と言いたかったが我慢した。


 小学3年生。でかくなった。
 幼さがどんどん抜けてきた。
 言葉遣いも、話す仕草も、子どもだけどもう幼児ではない。

 そしたら、その姿のあちこちに自分が見えてきた。
 朝起きない。だらだら着替える。出したら出しっ放し。あいさつできない。素直じゃない。ふざける。子どもらしくない。
 自分のきらいなとこばっかしそこに見る。
 いやだ。
 8年、ほったらかしにして育ててきた結果がこれだ。
 もうぼちぼち、親の言うことも聞かなくなる。
 どうしたらいいのか。
 などと悩む。

 じゃあ、どんな子なら自慢の息子なのか。

 さあ?

 欲を言えば、なんかこう、夢中になってほしい。
 お友達は、将棋に夢中だったり、熱心にサッカーやってたりする。
 やつは野球習いにいってるけど、ぽわぽわ野球なので、老人倶楽部みたいだ。

 でもさ、自分だって夢中になれるものなんかこの人生にいっこもなかったじゃないか。
 だからこんな、野良犬みたいな川端クンクン人生なんじゃないか。
 それがいちばんいやだ
 息子には、なんだっていいから自分が好きで夢中になるものにのめりこんでほしい。

 
 などと心を痛めながら雑誌の片付けをしていた。
 暮しの手帳のバックナンバーを捨てるつもりで読み返してみたら、佐々木正美さんという児童精神科医の方が書かれたものが目にとびこんできた。

 「私たちは豊かさや自由に恵まれた環境の中で、いつのまにか、少しずつ、自己愛的で自分勝手な生き方に陥っているのかもしれません。
 そして子どもが望んでいることに心や手をかけてやるよりも、親や大人自身が希望し期待することのほうに意を用いる傾向を強くしてきてしまったのではないでしょうか」

 そのとおりでございます。
 いかんいかん、ますます親の期待するほうに意を強くするとこだった。

 「子どもというのは、自分で望んだことを望んだとおりに、どのくらいしてもらえるかということが、自立への基盤になります」

 「子どもの意思の力が弱い場合は、育てられ方の中に優しさが不足していたことがほとんどです」

 ああ耳が痛いです。

 こどもの「・・・したいな」の芽をむしってきたのはこの私かも。
 
 いやだ。いまからでも遅くはないかな。


 参観日のあと、骨折した友達を気遣い、松葉杖を持ってあげたりする息子の姿を見た。
 どの子ともなんとなくうまくやっており、どんなグループの遊びにも「いーれーて」と入れてもらえるんだそうだ。
 ちょっとした嫌がらせやけんかや暴力などというトラブルを耳にするようになったが、するりとかわして楽しそうにしているのは、大きな才能ではないだろうか。
 ごろごろだらだらしてるけど、鼻歌うたって上機嫌だから、まあ、いいのではないだろうか。

 ダメなとこにばかり目をやっていると、悲壮な気分になる。

 自分の中にもまあ、いいところがあるんじゃないかと思うようにする。
 息子もまあ、元気ならそれでいいかと思うようにする。


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2012年4月13日 (金)

くつした

 息子の靴下とわたしの靴下の見間違いをするようになった。
 うちの家族はみんな「黒靴下」が多い。
 息子の足はまだ20cmだけど、ぱっと見わたしの23.5cmMサイズとかわらない。
 たまにオットが洗濯物をたたむと、十中八九わたしのタンスに息子の靴下が混じり、みつからないやつは息子のタンスから出てくる。
 半パン制服なので寒い時期はハイソックスで通学。わたしはハイソックスはかないからいいんだけど、やつが短い靴下になってくると話がややこしくなる。

 そろそろやつも短い靴下になるなぁなどと、洗濯物をたたみながらぼんやり考えていたのだが、うちは大人2人と子ども1人だからまだいい。

 兄弟いたら、もっとややこしいな。
 年が近い同性の兄弟なら、どっちがどっちの靴下か、判別できないな。
 三兄弟とか、三姉妹とか、1日に子ども靴下が3足、6枚も洗濯になるわけだ。
 お父さんとお母さんの4枚も加わると10枚。
 二日で20枚。もう靴下だらけ。
 そうなってくると、誰のかもそうだけど、どれとどれがペアかも判別難しいよね。
 判別するのかな。
 
 もうそういう家族は、「こどもの靴下入れ」みたいなとこに放り込んで、各々自分でそこから選んで履くのだろうか。末の妹はいつもかたっぽずつちがうの履いちゃって帳尻があわなくてお姉ちゃんが怒るとか。

 兄弟が多い家を知らない。
 よその家族のしきたりは知りようがない。

 しらないことが多いね。


 

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2012年4月 8日 (日)

 桜が満開だ。

 兄夫婦企画の花見が諸般の事情により中止となったが、花見をしたい息子がばーちゃんを誘い出した。

 近所の洋食屋でランチをとって、さあ桜を見に行こうというと、そんなの花見じゃないよ、と息子がふてくされる。
 彼の「花見イメージ」は、やっぱり桜の木の下で弁当を広げるものだったようだ。

 じゃあ、なんか買いに行こうかね、
 ばあちゃんが甘いことを言うので、車ででかける。

 桜がわんさか咲いてる場所のそばを通って、回り道していく。

 川土手は、ここはどこの海水浴場かというほどの人。
 テントがならび、バーベキューの煙で春霞。

 「わあ、あんなに満開よ、みてごらん!」
 母が車窓越しの桜に声をあげる。

 平和公園近くの駐車場に車を停め、玩具屋へ。

 なんかカードゲームのカードでもちょいと買ってやるつもりが、
 ガンプラ(ガンダムのプラモデル)の前から動かない。

 プラモデルなんか、自分で組み立てられるわけないじゃない、というと、これがお誕生日(2月、とうの昔だ)に欲しかったのにと動かない。

 いいよいいよ、どれでも買いんさいと、教育上大変よろしくないのがばあさんだ。
 どんなろくでもない大人になろうがばあさんは知ったこっちゃないので、いまのうちに孫をうんと甘やかせようとばあさん仲間で話してるんだそうだ。困ったものだ。

 「これが売れ筋なんじゃと、これがいいんじゃない?これならこれがついとると、ばあちゃんならこれじゃがね、どれにするん?大きゅうてもどれでもええけえ、これはどうなん?赤はだめなん?」

 うるさーい。

 母と買い物に行くといっつもこうだった。
 服だって本だって、結局母のいいなりに買って帰った。
 自分がちゃんと選んだのは、今の旦那くらいだ。
 新婚の家は母の選んだ備品でまかなって、好きでもきらいでもないもので暮らしてた。
 その後遺症は大きくて、捨てて買い替えるほどでもないものは今でも家の中にある。
 30過ぎてやっと、好きな皿を1つ買い、好きな戸棚を1つ買い、そうやって自分が選ぶ人生をはじめたのだ。

 息子よ、自分が選べよ。
 わからなかったら、人に聞けよ。
 ほんとに好きかどうかわからないものを、なんとなく所有するなよ。

 それから30分ほどぐるぐる徘徊して、やっと決めて買った。

 待ちくたびれた母を実家まで送って行った。

 夕日に映えて、あちこちの桜が見事だ。
 里も山も、いっぺんに咲いた。

 「あと何回、桜が見られるかのう」

 父の言葉がよみがえる。

 けっきょくあと2回だった。
 最後は、春が間に合わずに亡くなって、四十九日に満開だった。

 桜のトンネルを、てってけてってけ、小さい息子が走る、走る。
 父がうれしそうに追いかけて抱き上げる。

 あの日とおんなじ桜なんだけど。

 わたしはあと何回桜を見るのかな。

 もうすぐ見事な丸い月が昇る。
 息子は細かいパーツを切り刻み始めた。

 ちっともとどまることのない、時間だけがながれていく。

 桜は満開の時がいちばんさみしいと思う。


 

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