2016年5月 6日 (金)

住宅展示場でサイエンスカフェ@大阪

 先日、大阪・万博公園の住宅展示場にて開催された「サイエンスカフェ」に聴き手としてお声がけいただき、参加してきた。

Img_5085_2

 ゴールデンウイーク真っ最中の住宅展示場でサイエンスカフェ?
 アンパンマンショーじゃなくて??

 そのあまりに最先端な感じにくらっと来たが、
 広大理学部時代からお世話になっている寺田健太郎先生に声をかけていただいたので、二つ返事でお受けする。

 寺田先生が広大から大阪大学に移られて4年。
 送別会で「いつか大阪にもファシリに来てください」と言っていただいた。

 だけどほら、大阪には芸達者でキレキレの方が山ほどおられるであろう。
 幼少の頃から吉本新喜劇の英才教育を受けている。
 とても寺本はかなうまい。

 寺田先生はきっと研究にもアウトリーチにも邁進され
 素晴らしい大阪サイエンスカフェワールドを築きあげられるにちがいない。
 遠く広島からご活躍をお祈りしております・・・
 とさみしく思ったものだった。

 4年、
 研究にもアウトリーチにも邁進されているには違いないが
 どうも大阪のサイエンスカフェでは「先生一人しゃべり」が多いらしい。
 偉い先生にツッコミいれるなんて恐れ多いから〜と先生のお話を伺い、終了後にボッコボコに質問攻めにするというのが大阪スタイルのようだった。

 そして今回、万博公園abcハウジングでのサイエンスカフェ企画が走り出した時、広大から龍谷大学に移られた古本強先生との2本立て、さらに、広島から寺本をファシリテーターとして呼ぶ
 という提案を主催運営の方にされた。

 「やっと旅費お支払いできる企画ができました。来てください」
 
 うれしかったですね。
 それと同時に、「えらいこっちゃ・・・」と震えた。

 わざわざ、どこの馬の骨ともわからんファシリテーターを
 たっかい旅費はらって連れてきて、ほんでコレかい!
 という悪夢を見そうだった。

 寺田先生と古本先生のお話は何度か広島でも聞いている。
 内容や流れは事前に教えてもらえるが、打ち合わせなしのぶっつけ本番だ。

 どんなお客が来るんだ? どんな雰囲気なんだ??
 お客も大阪人、ヘタな大阪弁でも使おうものなら火だるまにされる・・・

 できる準備も特になく、ユーチューブで「サイエンスカフェ ファシリテーター」とかで検索してよそのサイエンスカフェを見たりなんかして。
 これはよくない準備である。
 茶会にしろなんにしろ、よくできた人のものを見ちゃうと、役立つどころかがっくり落ち込んで終わる。

 だけど、意外だった。
 ちゃんと対話かけあいをするファシリテーターがいるサイエンスカフェって案外少なかった。
 (動画に記録されてないだけかもしんないけど)
 北海道大学のサイエンスカフェで、大変おだやかにいい声で合いの手を入れる男性ファシリがおられて、なんというか深夜のAMラジオを聴いてるように心地よかった。いろんなスタイルがあるんだなぁ。

 「広大のサイエンスカフェはかなり特殊ですよ」と寺田先生が言っていた意味がわかってきた。

 なんだか、素直に、
 その場の空気に合わせて話をすればいいのかな
 そんなふうに力を抜くことだけを考えて、がちがちに緊張しながら新幹線に乗った。

 快晴の住宅展示場は家族連れで賑わっていた。
 長蛇の列が会場からはみ出しており、おいおいサイエンスカフェ待ちか!?
 と思ったらトミカのおもちゃプレゼント待ちの列だった。

 「寺本さん!」 懐かしい笑顔が迎えてくださった。
 4年ぶりにお目にかかる古本先生もお変わりなく、4年も経ったような気がしなかった。

 会場を確認し、ちょっとだけ内容を確認し、本番を迎える。
 プロのイベント運営スタッフのきびきび気持ちの良い準備進行、さすがだなぁ。

 寺田先生のお話は、相変わらず面白く、さらにわかりやすく熟達されていた。
 これはヘタなファシリテーターはいらないや。
 だけど、寺田先生の「寺本ツッコんでこいや」という期待に満ちた間合いを感じ、気持ちよく合いの手を入れることができた。

 参加者も熱心にメモを取り、笑い、頭をひねり、「知ることの面白さ」を堪能されたようだった。

 午前終了、手焼きオムライスの屋台の列に並びながら先生方とお話しする。
 前の子どもの手から風船がはなれて飛んで行く。
 アコーディオンやギターの生演奏が通り過ぎ、青空の住宅展示場は夢のようだった。

 午後の部、古本先生のお話が始まる頃には不思議と人がまばらとなるのが展示場時間だそうだ。
 もったいない! こんなおもろい話、聞かないと損しまっせ!
 観客ひとりだろうが、5000人だろうが、やることは同じ。
 むしろたった一人の人生変えるような時間にしてやる、そう思いながら話を聞いた。

 古本先生の最新の研究、「すわ、ノーベル賞か!?」という研究、その思いの強さと根気とおもしろさに脱帽した。すごいわ。
 だから普通に話を聞いても十分面白いので、ファシリなんかおまけなんだけど、寺本がちゃちゃを入れると興に乗り、グルーブのようなものが生まれる感じがさすがだった。


 無事に終了し、「寺田先生のラボがみたいー」ということになり大阪大学へ。


Img_5090


 ああ!探偵ナイトスクープに出とった部屋じゃ〜!
 最先端の分析機の仕組みについて説明する寺田先生。贅沢最先端サイエンストーク。

 そのマシンの前で記念撮影。

Img_5091

 その晩は、4年間のブランクというか、それぞれに流れていた時間を思う話をした。

 研究者は、当たり前かもしれないけど、ずーーーーっとそのことを考えている。
 論文を書くに至るまでに、これはおもろいか、どうしたらおもろなるのか
 ずーーーーっと考える時間がゆっくりと育てていく。
 こうして寺本がぼんやりおやつを食べてるときも、きっと先生方はずっとおもろいほうへ考えている。

 まだまだ、これからですよ、という熱い研究者魂に触れたような気がした。


 広大サイエンスカフェの司会者を長らくさせてもらってきた寺本だが、個人的にサイエンスカフェをしようと企む機会が何度かあった。
 サイエンスバブだったり、「重力茶会」(重力波人類初検出記念)だったり、そのたびに「会場がないなあ」と思った。

 大阪にはグランフロント大阪があって、仙台にはメディアテークがある。
 大学と行政と民間がうまく力とお金を出し合って(るように見える)サイエンスと市民が行き来できる場が整っている。

 いいなぁ、なんで広島大学はそれをしないんだろうか。
 とか思いいろいろ偉い人たちにメールを出したりしてみたけれど、そうはなかなか問屋がおろさない。

 そしてハッと気がついたら、寺本には科学のバックグラウンドがない。
 科学をもっと楽しく!という強い動機がそもそもないのだった。
 ちょっととまどってしまった。

 そんな話を飲みながらしたら
 「寺本さんはスナリでしょ、スナリにはなんにも特別な才能はないんです、ただ、なにかとなにかをうまく結びつけることだけ得意なんですって言ってたじゃないですか。そこに存在理由があるじゃないですか」
 と喝を入れられた。

サイエンスカフェの司会を寺本に託された理由を思い出した。

 お茶でも科学でも広告でも
 自分に猛烈に動機があるとかそんなのは関係なく
 ああもったいない、
 こんなにおもしろいのに、こんなに素晴らしいのに
 それを知らない人に伝えたい。
 そういう「おせっかい」だけで駆動しているのであった。

「ああ、こんなにおもろいのになぁ」「なんでわかってもらわれへんのやろ」とお嘆きの方、
 寺本のあつかましさをどうかご利用ください。

 もっと世の中の役に立たなくちゃいけないね、
 と帰りの新幹線でつくづく思ったのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月30日 (木)

沈めていた怒りを海に流そう

 わたしの何回目かの誕生日の日、国会では「強行採決」が行われた。

 まさか、国土を火の海にしたい首相がいるわけがないと思うのだが
この人が目指してるのは一体なんなのか
戦争法案だ 平和法案だと 
立場が違えば言葉もちがうその中身を
よくよく見て知りたいと耳を澄ましていた。

 あいまいでわかりにくく気持ちが悪い言葉を話す首相もいやだけど、
首相の全人格を否定して醜い言葉でののしる人たちもいやだ。

 注視すべしとアラームが鳴りつづける。

 そうこうしてると、東京オリンピックのメインスタジアムとなる国立競技場について
「現在の計画を白紙に戻し、ゼロベースで見直す決断をした」
と首相が発表した。

 多額の税金を投入するこの建設案への国民の批判に耳を傾けました!
と誇らしげに発表した。

 わたしの中で、得体の知れない「怒り」がわいた。
それは、自分でも意外で、戸惑うほど強い怒りだった。

 そして今日、東京オリンピックのエンブレムがよその国の劇場ロゴのパクリではないかと報じられているのを見た。

 新聞ニュースネット記事、むらがって感想を述べ合う人たち
読めば読むほど、気持ちが悪いほど怒りが強くなっていった。

 のほほんと茶を淹れて暮らしている自分に
まだこんな強い怒りがあったことに驚いたし
自分は一体何に怒っているのだろうと怪しんだ。

 胸に手をあてて考えた。

 競技場の建設のデザイン、コンペを経て、いろんな人が関わってきたはずだ。
コンペに参加して落選したチームもある。
徹夜で仕上げた案が屍になって、報われない思いをした人もいるんだろう。
決まったからには、いろんな人たちがチームになって
今まで仕事をすすめてきたはずだ。
なかには、無責任で無自覚な人もいたかもしれないが
東京オリンピックを華々しく成功させたいと、
調整に奔走してきた人たちの時間と労力もすべて無になった。

生き霊になってとりついてやりたいくらい悔しい思いをしてる人もいるはずだ。

デザインがパクリだとか、こんな大仕事でパクるわけないじゃろが。

偉大な先輩デザイナーが作った過去の東京オリンピックのロゴ
それにデザインで応える、真剣に、全身全霊で生み出したはずだ。

たったひとつのかたちを考え出すのに、生活の全部をつかって、
脳みそから血が出るほど考える
そういう作業が綿々とあったはずだ。

そういうのを

「生牡蠣みたいできらい」とか
「パクリありえない、説明もなくツイッターアカウント削除まじ逃亡」とか
匿名で(生牡蠣発言はおそろしくも元首相だけど)
きがるに
ふみにじって
国のやること反対アベ反対みたいなのにつなげて
ディスるやつらなんか
みんな猫にひかれろ

というのが怒りの元だった。

わたしには関係ない話なのに
心の闇に沈めていて忘れたふりをしていた怒りを呼び覚ましてしまった。
かつてそれで、自分自身が死ぬほど悔しい思いをした
生き霊になって呪ってやりたい思いをした
そこに共鳴したらしい。

こういうのはやっかいだ

政治問題にきちんと向き合って考えて意見を述べている
そういう正当性であっさり容認されてしまう「怒り」だ。
怒っている自分自身をだます怒りだ。

決まった案に文句を言ってるやつもそうだ。
誰からも選ばれてこなかった鬱憤をネット上にばらまいて
怒りを増幅してほくそ笑んでいるのだ。

怒りは
そういうしくみだ
それが、どういう理由をともなって現れるかはあまり重要ではない
ああ、わたしは「怒りたい」んだ。
成仏できなかった怒りを燃やしたいんだ。

そういうものがまだまだ、自分の闇のなかに息をころしていると思うと怖い。

憎しみや
悲しみや
そういうのも
闇のなかで呼ばれるのを待っている。

恐ろしいのは戦争法案じゃなくて
そういう心のしくみなんじゃないかと思う。

アラームが鳴りつづけている。
世の中に耳を澄ましながら、
自分のなかの闇を監視せよ。

今回燃やした怒りは、この夏、海に流してやろうと思う。

| | コメント (2)

2014年9月13日 (土)

わかることのふしぎ(その1)

 息子が説明する。
「あの、ケモノが出てきて、吹雪の中で、高校生みたいなひとたちが、うおーっていうやつ」
さっぱりわからない。

 よくよく聞くとこれだった(音が出ます)

http://www.youtube.com/watch?v=Re9WQKhMfjo

 カップヌードルがたべたい、という趣旨だった。

 だいぶん前のCMだけど、覚えてる。
 就職氷河期ね。圧迫面接ね。かめばかむほどね。
 SINCE1993
 自分が就職活動をしたその年が、
 はじめてそう名付けられた年だった。

 しかし息子は「就職氷河期」を知らなかった。
 リクルートスーツは制服に見えたらしい。
 腹が減っては戦えないという、このCMの企画意図をまったく理解せず、「ケモノが出てきて、吹雪の中で、高校生みたいなひとたちが、うおーっていうCM」として認知していた。

 体験してないと、理解できないのか。

 育ち盛りハラ減り盛りの高校生たちも、だいたい「ケモノが出てきて、吹雪の中で、スーツ着たひとたちが、うおーっていうCM」として眺めてたのかしら。
 
 自分が経験してないことは、理解できない。

 死んじゃうってどういう感じ?というのが究極で、
 だれも教えてくれる人がいない。
 みんな死んじゃってるから。

 そこまでじゃなくても、
 働くってどういうこと?
 結婚てどうなの?結婚してよかった?
 子ども産んでどうだった?
 肉親を亡くすってどういう感じ?

 知らないと、聞いてみたくなる。
 答えは100人100通り
 経験した人からいくら話を聞いても、
 やっぱりよくわからない。

 だから
 経験済みの人が未経験の人に、
 いくら口を酸っぱくして言ったって
 ほぼ伝わらない
 そう思っておいた方がいいなあ。


 今度、10/10(金)、広島大学理学部の学生さんたちに、講師としてお話しする機会をいただいた。
 生物科学専攻の「社会実践生物学特講」というカリキュラムで、90分間。

 「広く社会で活躍されている方々に幅広い経験等をご講演いただき、生物科学博士課程前期の学生に、専門分野を越えた社会で広く役立つ実践的知識を身につけてほしい」という趣旨だそうだ。

 快諾したものの、後日送られてきた講師一覧を見てひるんだ。
 あきらかに、異生物だ。
 (だから生物学的におもしろいのか?)
 講演テーマも「後悔を少なくする人生の作り方」などとふざけたテーマは他にみあたらない。
 もうすでに後悔。

 学生さんたちに有意義な、実践的知識を教授することなんか無理だ。

 反面教師寺本と呼んでくれ。もうそれしかない。

 なにを話そうか、ぼんやり考えているけれど

 
 
 息子が就職氷河期を理解できなかったように、
 学生さんたちも、
 このおばさんの言うことが理解できないだろう。

 ふーん、けったいなおばさんようしゃべるな、くらいのものだろう。

 だけど、経験者から聞いた話というのは不思議なもので
 それは時限爆弾みたいに作用することがある。

 ああ、あのときあの人が言っていたことって、
 こういうことなのか
 という形で、後日理解される。
 
 それでなんかの役に立つのかは、
 その時になってみないとわからない。

 わたしの話も、耳の底に残ったいくつかが、
 誰かの「ああ!そういうことか」のお役に立てたらいいな。

 今、ちょっと先を歩んでいる人生の先輩である親が
 年をとるってこういうことよ、と、
 こんこんと話して聞かせてくれている。
 ああそう、たいへんねと聞き流しているけれど

 いつか、親をあの世に見送り、ずいぶんたって、
 「ああ、おかあさんが言ってたわ、
 年をとるってこういうことね」と
 わかる日が来るんだろうと思う。

 わかることのタイムラグ。無駄じゃない。愛おしい。
 
 
 

 

| | コメント (2)

2014年9月10日 (水)

花いけバトル Spin-off edition in 宮島「大聖院」

Photo

2014.9.7(日)宮島・大聖院にて
「花いけバトル」Spin-off edition。

寺本、司会として参加させていただきました。

「花いけ」バトルとは。

華道家、アーティスト、フローリスト・・・
ジャンルや流派を越え、シンプルなルールのもとに花をいける。
観客の目の前で、制限時間は5分間。
いける所作、動き、表情、完成した花・・・
ジャッジは観客。そのたった数分で観客を魅了したほうの勝ち。

20140908_1341266

photo 田頭 義憲

東京から、広島、山口から、バトラーが集結。
バトル開始前の、張りつめた緊張感。

20140908_1341267

「レディー・・・・」カーン!!!
ゴングの音と同時に5分間の花いけバトルが始まる。

赤コーナー、青コーナーの両者、開始と同時に花を取りに動く。

大きな枝をいきなりノコギリでひく人、
でかい流木をがしんと突っ込む人、
繊細な枝を組み上げる作業に時間をとり、いつまでも花器が空な人、
大輪の花を、贅沢にどんどん重ねていく人、

バトラーによってこれほどまでに違うのかと驚く、花いけのスタイル。

5分間って、長いのか、短いのか?

「5分間ってね、そんなん無理だって!っていう時間」
解説の中村俊月氏に教えてもらった。

通常のデモンストレーションは15分くらいかけて作品をつくる。
そんなに時間かけて、作れるのあたりまえ
そうじゃなくて、極限状態で、いかに美しいものをつくり出せるか。
戦うのは対戦相手なんかじゃなく、バトラー自身。
その時間ギリギリまで、どこまでやれるか、なにがやれるか、
おまえ、自分を越えてみろよ!
実力の120%、150%という「未知の領域」
本人もまだ見たことのない自分をさらけだす5分間。
そういうところに、奇跡のように現れる「心震える花」を見たい
それが「花いけバトル」なんだと。


ゴングの音で試合終了。
1分間の鑑賞タイムの後、観客のジャジメントタイム。

20140909_1341991


180名ほどの観客それぞれもまた、息をつめて目撃した花いけに
瞬時にジャッジを下さなくてはならない。

プロの評価と違ってあたりまえ
なぜ青が? 赤のどこが? あなたの心をとらえたのか。

拮抗する票。
僅差で決まっていく、勝敗。 
どよめく会場、かたく握手をかわすバトラー。

無情にも完成した花は、すぐさま抜き去られ、空の器が次のバトルを待つ。
なんて儚い美しさなんだ。


「いのち吹き込む魔法の手」庭花
20140909_1341724


「極限で戦うアーティスト」 上野雄次
20140908_1341272


「花に愛され、花を愛したロックンローラー」曽我部翔
10671505_751853531540799_7047403044


「世界を唸らせた至極の色使い」 藤本佳孝
20140909_1341783


「西日本一の造形力」 宮田宣明
20140909_1341978


「頂点を目指すクライマー」 山村多賀也
20140909_1341971

解説は、花いけバトル実行委員の中村俊月氏。
はさみをマイクに持ち替えて、発足からの熱い思いを解説していただいた。

「いいですね、いい選択ですね」
「あの花はさっきも使ってましたね、同じ花は見たくないですね」
「あれはルールではOKですが、あのいけ方を観客がどうジャッジするか」
的確で辛口で愛のある解説。

「花いけバトル」Spin-off edition in香川・観音寺での優勝者
華月流家元嗣 細川康秀氏も解説に加わっていただいた。

10370432_751854818207337_7186275230

司会のプロではない寺本は、冴えない滑舌のかわりに
「花いけバトル」って何なのか
観客の方がどう振舞えばいいのか
「花っておもしろい!」と思ってもらうにはどうつなげばいいのか、
その辺りをすこしでもお伝えできればと思って話した。

バトラー直近の司会者席、
切った枝が弾け飛んでくる
花をとって走って帰ってくる
残り時間カウントがすすむにつれ手の動きが速く速くなっていく
目には見えないけど
ちりちりするような圧倒的な気迫がせまってきて、
ちょっと怖いくらいだった。

最後の数秒
明らかにスイッチが入ったという表情
5、4、3、2、1、
動くな!
と念じて花から離す指

たまらない一瞬が、毎バトルそこにあった。

これが「花いけバトル」なのか、とやっとわかった。


そして優勝は、山村多賀也!

20140909_1341994

“勝者はバトルを勝ち残った1名ですが、
 もしかしたら
 見る者の記憶に強烈に印象を残すことができていたとしたら
 それが真の勝者かもしれない”

過去の記事にそんな言葉があった。その通りだと思う。


終了後は、今日の花をバトラーが束ねてチャリティー販売。

10690044_751855751540577_5190759435

広島市西部の大規模土砂災害義援金として後日、中国新聞社の窓口へ
ブーケ販売と募金箱 合計 64,972円が届けられた。


別室では小・中学生の花いけワークショップ。

10593133_751855788207240_3830871217

バトルのときとはまるでちがう、やさしい表情の先生方。

10312530_751855868207232_6099072127


バトル終了後、
S U n D A Y S morning アキラくんのスムージーで乾杯。うまし。


「花いけバトルに参加するバトラー、
 そこに共通の思いがあるのではないかと思います。

 今の世の中には本当に花が必要で、
 その花を通じて、
 人々の心に平和が訪れることを切に願っている。

 そのためにもこのイベントを通じ
 花の持っている可能性を引き出し、目撃していただきたい」

主催者の願いは、きっと来場者に届いたと思います。

悲しみに、一輪でも花を。
幸せなテーブルに、小さくても花を。

バトラーの技、情熱、すごいヴァイブレーションが
見た人の心に勇気の火をつけたと思います。

バトラーの皆様、スタッフの皆様、観客の皆様、
そして大聖院の方々と、目には見えないご神仏の皆様

ありがとうございました。


10612822_751853494874136_7883314892


| | コメント (0)

2014年8月 6日 (水)

69年前の母と祖母のこと。

 台風が近づいているせいか、広島はここのところずっと雨。

 8月6日の平和式典の日はたいがい毎年かんかん照り、
 8時15分の黙祷は、ものすごい蝉時雨と青い空に立つ入道雲、というイメージが強い。
 でも明日は雨の中の祈りになるのでしょう。

 今日も広島市内は騒々しかった。

 デモ、街宣車、街頭演説、大きな声があちこちで怒鳴りあって、なにを言ってるかさっぱりわからない。

 毎年のことだから慣れているけど、この日が過ぎるのを、息をひそめるように待つ人も多い。

 母も「この日だけよそから来るんよね」と、うんざりしたように話している。
 黙祷しながら、あの日の朝を思い出すのだろう、明日の朝も。

 母は小学1年生、6歳の時に爆心地から約2.3kmの自宅近くで被爆しました。

 下記の文章は、5年前の夏、これまであまりちゃんと聞いたことがなかった、母が被爆した時のことを改めて聞いて書いたものです。
 おかげさまで母はまだ元気です。
 保育園だった息子も、今は小学5年生です。

 69年前の、広島の、ある女の子のお話。
 小さな記録、母の記憶の一部です。
 


ーーーーーー

 「祖母と母からもらったもの 」


 広島に生まれた私が小学生だったころ、夏になると毎年、「原爆」を知る「平和学習」があった。
 数十年前のあの日、八月六日八時十五分、広島市上空に一発の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして多くの人の命が絶たれた。
 それがどんなに惨い状況だったか、原爆資料館に見学に行ったり、体育館で映画を見たり、被爆者の方に話を聞いたり、調べたことを壁新聞にしたりした。原爆の歌も習って合唱した。

 「うちのお母さん、被爆者だよ」
 「うちのお父さんと、お母さんもだよ」
 友だちには、「被爆二世」がけっこういた。だけどお父さんとお母さんがどこでどんなふうに被爆し、どうして助かったか聞いていた子は少なかったように思う。

 モノクロ写真の、人のかたちをしていない死体や、ひどく焼けただれたからだや、めちゃくちゃに壊れた建物や、焼け野原や、目をつむってもはっきりと浮かんできて、あんな死体がいっぱいあった焼け土の上に今自分はいるんだと思うと、夏は夜ひとりで寝るのが怖かった。

 「たくさんの人々が、水を求めながら亡くなりました」
 「やけどをしていなかったり、後日市内に入った人たちも原爆症になり、亡くなっていきました」
 おばあちゃんもああやって生きたまま焼かれて、お母さんはちっちゃかったはずなのに、どうして死なずにすんだのか、わからない。でも怖くて聞けなかった。

 祖母の顔やからだには、ケロイドが残っていた。半袖Vネックの、服を着ていたところだけが綺麗だった。いつもきちんとお化粧していたけど
 「まひげがのうて描くのがやねこい(眉毛が無くて描くのが大変)」と笑っていた。
 夏に、テレビで原爆のことをやると思い出したように、猿猴橋で被爆したその時の話をしてくれた。

 「橋の欄干にどーんと吹っ飛ばされて叩き付けられたかぁ思うたら、ざざざざーっと反対に引きずられてから」

 時々は涙ぐみながら、身振り手振りで、恐ろしい顔でいろいろ話してくれたんだけど、怖くてよく覚えていない。

 わたしが中学生くらいの時だったか、祖母は脳血栓で倒れ、言葉が不自由になった。
 話したくてもうまくしゃべれないもどかしさで、だけど夏になると感情を振り乱して話そうとしていた。

 「瑠美子(母)にはかわいそうなことをした。あれはちいさいのに、ひとりで、かわいそうなことをした、瑠美子を頼んだで、ようしてやってくれよ」
 おばあちゃんはそればかり私に言うのだった。

 そんな祖母も、十三年前の春に亡くなった。


 やがて私も結婚し、五年前に子どもを生んだ。
 子どもを抱きながら、ああ、ちゃんと聞かなきゃいけないな、とぼんやり思った。
 母は、なぜ助かったのか。
 もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかった。
 この子ももちろん、生まれてこなかった。
 この子に、生まれてきた理由を説明できない。

 だけど、今度は、聞くことで母を傷つけるのではないかと思うと怖くて聞けなかった。
 たった5さいか6さいの小さな女の子が地獄を見たのだ。
 トラウマになっていないはずがない。
 思い出させれば、母の奥底に眠っていた小さな女の子がまた苦しんで、えーんえーんと泣き出すかもしれない。
 このままそっと、眠らせておいてあげたほうがいいのではないか。

 そう迷って、幾度か夏が過ぎた。

 息子が4歳の夏、保育園で「ピカドン」という絵本をよんでもらったという。

 「あ、げんばくどーむ!げんばくがばくはつしたんよね。だれがやったん?」
 「ん?アメリカが落としたんだよ」「どうしてやったん?」「戦争してたからね」
 「だれが悪いん?」

 誰が悪いのだろうか。

 「りゅうのばあちゃんも、原爆にあったんだよ」
 「ばあちゃんもー!? パパちゃんとかーちゃんはどしたん」
 「パパちゃんとかーちゃんは生まれとらんよ。でもばあちゃんが死んどったらかーちゃんもりゅうも産まれとらんのんよ」
 「へー」

 まだ時間の感覚もよく分からない息子には理解しにくいことのようだが、やがて分かるようなったら、ちゃんと説明しないといけないだろう。

 母はまだまだ元気だ。でも母と過ごす夏はあと何度あるのか。
 母に、聞こう。


 実家に遊びにいき、なにげないふりをして
 「ねえ、あの、原爆の時の話、ちゃんと聞いたことなかったんよね。聞かせてくれる?」
 と聞いてみた。

 一瞬、ぎょっとした表情もすぐに隠し
 「ああ、そうよね、あんたも被爆二世じゃけぇ、知っとかんといけんようねぇ」
 と笑った。
 じゃ、今度の土曜、聞きにくるね、と帰った。


 そして土曜日、実家に行く前に寄るところがあった。
 祖母の墓だ。
 祖母に、お母さんにあの日のことを聞きます、と伝えたかった。

 息子を連れて丘の上の墓所に行くと、あれだけ晴れていた空がみるみる暗くなり、雷がごろごろ鳴りだした。
 「わーっ、かーちゃん、かみなりよ!あめがふるよ」
 息子がわくわくしながら怖がる。
 おばあちゃん、怒ってる?
 瑠美子に、思い出させるな、かわいそうなことをするなと。

 急いで墓に行き、掃除をして、線香を手向けて
 「おばあちゃん、お母さんにこれから話を聞きます、許してね」と手を合わせた。
 車に戻ると同時に、大粒の雨がバラバラと落ちはじめた。


 実家へ。
 やってきた孫に目を細めるじいとばあがいて、お茶でも飲みながらなんてことのない話をして、そして、話を切り出した。
 「取材」に徹するために、ノートとボールペンを持つ。
 「ええと、あのときお母さん、何歳だったんだっけ?」

 母は、そうじゃねぇ、六歳よ、広大附属東雲小学校の一年生じゃった、と答えた。

 それから、あの日の朝のことを話しはじめた。


 母・瑠美子は当時六歳、小学一年生だった。
 小学三年生以上は集団疎開で田舎に行っていたが、一年と二年は親元におり、学校も寺子屋みたいに小グループで集まって勉強していたそうだ。
 東蟹屋町(爆心地から約2.3km)の家で、母と、祖母と、祖母の両親と暮らしていた。
 祖母は結婚して母を生んだが、母が三歳のとき離婚して実家に帰っていた。

 昭和二十年八月六日の朝は月曜日だった。
 祖母・タネコ(三十一歳)は、流川に住む叔母「青木のおばさん」がいよいよもう疎開せんにゃあいけんということになり、その引っ越しの手伝いに駆り出され、出かけていった。
 当時県税事務所に勤めていたはずだが、その日は仕事を休んだのだろうか。
 引っ越しの手伝いということもあって、作業着であるモンペの上下を着て、大八車を押して出かけた。
 
 母は、近所の大きなおうちの菜園場で、ワタルくんとコーちゃんと一緒に遊んでいた。

 午前八時十五分、
 原爆炸裂の瞬間を母はよく覚えていないらしい。

 気がつくと、粉のようなものがぱらぱらいっぱい降りかかってきたという。

 一緒に遊んでいたワタルくんのおばあちゃんが、ワタルー、ワタルーと探しに来た。
 あんたぁここにおったんね、家に帰りんさいと母を自宅までつれて帰って来てくれた。

 おばあちゃんのハヤノさん(五十一歳)が「ああルミちゃんどこにおったんね」と出迎えてくれたが、顔や首は血まみれだった。家の仏壇を掃除していて、爆発の衝撃で落ちて来た先祖の遺影のガラスが刺さったのだった。

 しばらくして、おじいちゃんが帰って来た。おじいちゃんはやけども怪我もせず無事だった。勤めていた市役所に行く途中被爆し、電車が止まったので歩いて帰って来たらしい。
 その時間、市役所にもし到着していたら爆死していたかもしれない。
 ハヤノさんにささったガラスを抜いて、血をぬぐった。
 母も気がつけば足首あたりをガラスでざっくり切っていた。水もないので、そのあたりに生えていた「ニラグサ」を揉んで傷口にあて、布を巻いて応急手当てをしてもらった。

 祖母のタネコは広島駅前の猿猴橋の橋の上(爆心地から約1.5Km)で被爆した。

 よく晴れた朝だったが、一瞬ぱらぱらっと雨が降ったらしい。
 それを覚えていた人々は後に、「ありゃあB29がさきに空から油を撒いたんじゃ」とうわさしたという。
 あ、敵機が来たな、それにしても空襲警報が鳴らないし、と思って見ていた次の瞬間、ものすごい爆風に吹っ飛ばされ、欄干に激突し、揺り戻すように逆方向へ吸い寄せられて転がり倒れた。大八車も吹っ飛んでいた。
 そこにうずくまり、どのくらい時間が経ったか分からない。気がつくと、周りはぐちゃぐちゃになっていて、皮膚が焼けただれてお化けのようになった人たちが、みずー、みずー、と言いながら川に飛び込んでいるのが見えた。
 「ああ、瑠美子は」
 家に帰らなくては、しかし、見慣れた建物はほとんど倒壊し、方角も定かではない。遠くに見える二葉山を目印に、東へ東へと歩いて帰った。


 自宅にたどり着いた祖母は、祖母のかたちをほとんどとどめていなかったという。
 着ていたモンペはズタズタになってほとんど裸になっていた。焼け残った布が溶けて垂れ下がった皮膚にひっついていた。
 「柄の白いところだけが焼けて黒いところが残っとった」
 銘仙の着物を解いてつくったモンペの、その柄に見覚えがあったが、それがまさかおかあさんだとは思わなかったという。
 それが、「・・・瑠美子は・・・」と口をきいた。
 ハヤノさんが「あんたぁタネコさんか?ああ、かわいそうにむごいことになって!ああ、どうしよう、あわれなことになって」と半狂乱になっているのをぼーっと見ながら、「これは絶対おかあちゃんじゃない」と思ったそうだ。

 ひとまず家族がみな帰って来た、とにかく逃げんにゃいけん、ということで山へ向かう。
 大八車の荷台に、つぶれた家から布団を引っ張りだしてきて敷き、祖母を寝かせておじいちゃんが引っ張って運んだ。逃げる前、ハヤノさんは裏の防空壕をスコップで掘り、埋めていた通帳や貴重品をみな掘り出して持っていった。

 夕方、温品の小学校にたどり着く。
 母は、タカマガハラの高台から見た市内の様子が忘れられないという。
 「市内が一面真っ赤っかになって燃えとったねぇ」
 
 小学校で救護にあたっていた軍医さんが、たまたまおじいちゃんの知り合いだった。
 それもあって、祖母にたくさんはない薬を特別につけてくれたり、こっそりビタミン剤の注射をしたりしてくれたんだそうだ。
 しかし、「この人はもう死んででしょう、覚悟してください」と言われた。
 学校の校庭は死体の山で、焼いても焼いても間に合わない。

 ハヤノさんは祖母を必死に看病した。近くの農場に行って牛乳を買ってきては朝晩飲ませたり、蠅がたかってわいた蛆をピンセットでつまんだりしていた。祖母はただウンウン唸って生きていた。

 そうこうしているうちに、母の足の傷が膿みだした。
 化膿して、全身吹き出物だらけになった。吹き出物が膿んでどろどろになったが、ろくに薬もなくて、河原で体を洗ってもらうことぐらいしかしてもらえなかった。
 「こりゃあこの子もあぶない」と医者に言われたそうだ。
 「後から考えたら、あれで毒が全部出たんかもしれんね」

 広島の惨状を知って、田舎の親戚が駆けつけてくれた。
 ハヤノさんの従兄弟・ワタリのおじさんが山県郡千代田町のあたりにおり、市内に嫁に行ったのがハヤノさんだけだったので、広島に出てきた親戚の娘がみなハヤノさんの世話になったらしい。
 米や野菜を自転車に乗せて、遠いところから押して歩いて届けてくれたという。
 「これをタネコに食わせてやってくれ」と、二回くらい運んでくれたそうだ。


 そのころ、祖母と離婚し別居していた祖父・「おとうちゃん」が母を迎えにやって来た。
 祖父は商いをしていて、先代から勤めていた職人さんが「世話になっとるけぇぜひ来てくれ」と呉の狩留賀の家に呼んでくれたのだ。
 母を自転車にのせ、歩いて狩留賀まで連れて行ってくれたという。
 そこの家では、ごはんも食べさせてもらいよくしてもらった。しかし、ちいさい母はおばあちゃんとおかあちゃんが恋しくて仕方がなかった。

 なので、こっそり家を抜け出して、温品の小学校まで、ひとりで歩いて帰ったのだった。

 狩留賀の家では瑠美子がおらんようになったと大騒ぎになったそうだ。
 そんなこともおかまいなく、母はひとりでとっとと帰って来た。

 「どこをどうやって帰ったんか覚えてないんじゃけど、えらいじゃろ」
 呉から温品まで、車でも1時間はかかる。6歳の子が歩いて、一体どのくらいかかったのだろう。
 只々、おかあちゃんに会いたい思いが歩かせたのだろうか。


 さて、あの日祖母が引っ越しの手伝いに行く予定だった青木のおばさんはどうなったか。
 流川といえば中心地だ(爆心地から約1Km)。家は全壊し、おばさんは家の下敷きになった。
 助けてー!と叫んでいると、どこかの人が丸太をテコのように使い、がれきを持ち上げてくれて助かったのだそうだ。そのままいたら焼け死んでいただろう。

 その青木のおばさんの親しい人が、牛田の山の上に住んでいた。
 温品の小学校では、ハヤノさんは祖母の看病で手一杯、瑠美子まで面倒見きれない。
 ということで、母はこんどはそこの家に世話になることになった。
 いい人だったが、出されるご飯が赤い実のコーリャンご飯で、それが体に合わなかったのか全身にじんましんが出た。
 もういやだ、
 母はまた脱走した。

 「焼け野原でなーんにもなくてね。荒神陸橋の踏切のとこの線路を渡って帰ったのはよう覚えとる。よう帰ってきた、瑠美子はあれでみな知恵を使い果たしたんじゃゆーてよう言われたもんよ。それにしてもえらいよねぇ、よう帰ったよねぇ」


 知らなかった。
 「焼け野原を歩いて・・・」という話はちょっと聞いたことがあったが、まさか2回も、そんな遠くから脱走して帰って来たなんて。

 母はそこまで一気に話した。
 はっきりと、先を急くように早口で。
 長い年月をかけて、心の傷を飼いならした冷静さと、強さで。


 祖母はそうして、死ななかった。
 傷もだいぶん落ち着き、秋口には東蟹屋町の家に戻ることができたのだった。

 とはいえ、家は半壊し住める状態ではない。近所の、木谷のコウさんという大工さんが、急ごしらえのバラックを建ててくれたそうだ。バラックは雨露をしのげるほどの粗末なもので、冬は隙間から雪が吹き込んできていたのを覚えているという。

 しばらくして、元気だった人々にも症状が出はじめた。

 ハヤノさんにも全身に発疹のような赤斑が出た。近所の人どうし、「わしも出るんで」「ありゃあ原爆症らしいで」と話していた。当時はまだ放射能が原因だということは分からなかった。おじいちゃんは髪がごっそりと抜け、歯茎から出血し、赤班がでた。
 急性の症状が治まった後も、おじいちゃんはいつも胃が悪く、五十五歳の時に胃がんで亡くなった。

 その秋、大きな台風が来て猿猴川が洪水で氾濫し、荷物という荷物がみな流されたこともあった。首のあたりまで水が来て、荷物がぷかぷか浮いていたという。
 その中には母が買ってもらったお雛様もあった。マルタカという玩具店で特注し作ってもらったもので、お内裏様とお雛様の上に宮がついている、いいものだったそうだ。

 そういえば私が小さい頃、毎年お雛様を飾りながら「わたしが買ってもらったお雛様はいいお雛様だったんよ。上品なお顔でね、宮がついててね。原爆でみな無いなったけどね。惜しいことをしたねぇ」と話していたのを覚えている。

 そのお雛様も、飾って楽しくお祝いした家も、なにもかも原爆は壊し奪った。

 その後、2度ほどバラックを建て替え、やっとまともな家を建てたのはずっと後のことだった。

 食べるものを確保するのも大変だった。道ばたの雑草(鉄道草と言っていた)も湯がいて食べた。
 ハヤノさんと母は郊外へヤミ米を買いにいくのだが、検問で見つかりみな没収されたという。
 おばあちゃんが検閲されている間、母は子どもの身軽さで脇をすり抜けて逃げ、米を担いだまま家まで帰り着き、ものすごく褒められたんよと自慢そうに話した。


 そこから、どのように生活を立て直し暮らしてきたのかはよくわからない。
 子どもだった母はよく覚えていないからだ。

 全身大火傷を負った祖母は命を取り止め、回復し、働けるようになり、再婚した。

 「やけどで皮膚がひっついてね、腕がまがったまま伸びんのよ。
  それをあの人は、大きな金だらいに水を入れたものを両手でもって、力任せに腕をのばした。
  自力で腕をまっすぐにしたんよね」

 美人で評判だったという祖母はその顔も身体も焼かれてもとの姿を失った。
 母も残留放射能だらけの焼け野原を歩き回った。

 いくら話を聞いても、想像しても、たぶんぜんぜん足りない。わからない。
 しかし、死んでいてもおかしくなかったのに、よく死なずに生きていてくれたと思う。

 祖母も母もほんとうに強い。つよいつよい人だった。
 そうやってつながれた命がわたしであり、息子なのだ。
 生きていることの有り難さと意味をしみじみ想う。

 (2009年夏記録)

| | コメント (0)

2014年8月 4日 (月)

宇宙という書物は数学の言葉で書かれている。

広島大学理学研究科サイエンスカフェ「太陽系ができるまで〜100億年の物語」でした。

Bt_rrthccae60hl

昨年の12月、「星と元素と宮沢賢治」のときに、大阪大学の赤い彗星こと寺田健太郎先生が飛び入り参加、「宇宙の元素はどうやってできたのか」の話をされた。

その感想をツイッターでつぶやきあっていると
「私はいつかジョイントをやってみたい。宇宙のはじまりから太陽系ができるまで、、、間がかなりとぶけど」とつぶやかれたのが高橋徹先生。

寺田先生「いいですね!いいですね! 実は私もそう思っていたところです!前半は高橋先生にビッグバン(素粒子、H,He,Liまでの元素合成)をお願いし、後半、私が銀河の化学進化(星の進化の元素合成リベンジ+大規模物質循環)〜太陽系の誕生まで100億年をカバーというのはすぐにでもできそうな企画ですね」

高橋先生「うっ、私はH,He,Liよりもはるか手前(核子もまだできてないころ)が本業としてのカバー範囲ですが、どうして宇宙にHがこんなに残ったのかなど、興味があるのでやってみようかなと思います」

寺田先生「了解です。高橋先生にHまで作っていただけると、あとは核融合と中性子捕獲反応でUまで作ります」

隅谷先生「神様の会話のようです・・・」

ということで日程調整に入り、今回の開催に至ったのでした。


告知をしてみてびっくり、定員の40名をはるかに越えて、120人あまりの方にお申し込みいただいた。
午後だけではとっても収容しきれないので、午前中に理学融合センターにてスピンオフサイエンスカフェを開催することになりました。

せっかくの機会なので、ファシリテーターを学生さんにやってもらおうということに。
そもそも理学部の院生さんですから、高校物理のテストを毎回3点で提出していた寺本とつくりがちがう。
科学の素養がある人の疑問とか質問ってどんなんだろう、と興味深く楽しみにしていました。

OさんもKさんも上手でした。寺本の出る幕なかった。会場からも活発に質問が出て、科学者と気軽に語り合える本来のサイエンスカフェに近かったんじゃないかと思いました。

寺田先生は途中、ホワイトボードに向かって数式をわーっと書き、答えを導き出していた。
科学者はああやってものを考えるんだなぁ。
スライドにもたっくさん数式がでてきた。しかしさっぱりわからない。

午後のファシリ(司会)をする寺本はあわてて寺田先生に言った。
先生、数式が難しくてさっぱりわかりません。
この模様とか、意味がわからん。
「え!これ? これは・・・と比例するっていう意味なんだけど・・・じゃあこれなら分かる?」
と = や ÷ という見慣れた記号に書き直してくれた。
まー それならなんとか・・・

「でもね、言葉で説明するより、数式が一目瞭然というか、あらゆることがこの数式で記述できるんですよ、それってとってもエレガントじゃないですか!」

ははぁ・・・エレガント・・・・イエス。

数学というよりも算数で挫折した寺本には、足し算割り算の数式ですらしんどいものがあるのだが、
「ほらね、Heの4がぺたぺたひっついていくっていう式ですよ。だから質量数4の倍数の元素が圧倒的に多いんです」
あ、なるほどー。毛嫌いして、理解しようと見てなかったんだなぁ。


午後からのサイエンスカフェは寺本が100億年をナビゲート。

高橋先生は、まるで物理演算されているかのようなパワーポイントのアニメーションを駆使し、どんな本を読んでも2秒で眠くなる素粒子の世界を、わかりやすく、イメージしやすく説明してくれました。

10のマイナス36乗秒とかいう非日常な世界。
「はいここから水素原子ができるまで38万年待ちます」・・・タイムスケールが・・・くらくらする。

そして「水兵リーベ」のリーくらいまでできた「ビッグバン元素合成」から、寺田先生にバトンタッチ。

Liより重い元素は星の中で作られる。だけど、星の質量でできる元素がほぼ決まってる。
F鉄より重い元素は「中性子捕獲反応」でできる。
100秒くらいの間に、パクパクパクパク〜〜〜っと中性子を食べて、ぼこぼこぼこぼこ〜〜と斜め45度に崩壊して新しい元素になる。
「つまり、出会い系サイトみたいなものでね、中性子がいっぱいあると出会いやすいわけです」
という寺田先生捨て身の比喩で理解も一挙に促進。

わたしたちの太陽系が満を持してできあがったのでした。おもしろかった。


それにしても。

「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」
と、ガリレオは言ったらしいけど、そうなんだなぁ。

反省会(打ち上げ)で、先生同士が好き勝手に興味ある研究の話するところが聞いてみたいです、と言ったら、
「それこそμだのΔだのψだの、記号数式だらけの会話ですよ」と高橋先生。

科学者の日常言語はそういう異世界語なんだ。サイエンスカフェでは、わかりやすい日本語に翻訳してしゃべってくれているんだ。

だけど、科学者自身が最も興味のある、これが不思議、これが面白い、というのは、ほんとはわかりやすい日本語には翻訳しがたいものなのかもしれない。
そこには、数学がわからないと迫れない。

翌日、息子とぽてぽて歩きながら話した。

「かーちゃんさー、算数だいきらいだったんだよ。計算は電卓ですりゃあいいじゃないかと思ってたんだよ。だけど、算数できないと、わからない美しさってのがあったんだ。
ちょびはさー、算数とくいなんだからさ、そういう美しさがわかるようになったらいいよね」

「ふーん、算数のうつくしさ・・・
 パパちゃんはそのうつくしさわかるの?」

「パパちゃんは美容師さんだから、ちがう美しさを知ってる。鋏や指先で美しさをつくりだしてる。
 かーちゃんは・・・」

「お茶でしょ、お茶がうつくしいんでしょ」

「あ、うん。そうだね。お茶の中に美しさを見てるかもしれないねぇ。
 科学者が見ている美しさ、かーちゃんも見てみたかったなぁ」

数学は美しい、というのはよく聞く。

なんのご縁か、
この11月に「サイエンスアゴラ」のシンポジウムで、数理科学者のお話の聞き手をさせていただくことになった。

にがて、とか、わからん、とか
逃げてないで勉強しろという、神様の宿題なんだろうと思う。


| | コメント (2)

2014年1月24日 (金)

前の席が空いた

 昨年末、ムーンライダーズのかしぶち哲郎さんが亡くなった。
 63歳、あまりに早いお別れだ。
 中学生の頃から憧れていた「大人」だった。

 かっこいい大人の訃報が相次いだような気がする。

 客観的にみればわたしも十分大人、もう中年。
 だけど、いつも年上の大人たちを見ていたから、自分はいつまでもぺーぺー気分でいた。

 社会に出始めのころの、いろんなことを教えてくれたあの大人たちはもう、定年を迎えたり引退されたりしているんだと知る。
 ぴかぴかの仕事で引っ張っていってくれていた方が、人生の仕舞い方を考えている。

 いつの間にか、甲子園球児たちが年下になり
 プロスポーツ選手たちが軒並み年下になった。
 一緒に仕事をする人々も年下が増えてきた。

 なんにも変わらないつもりでいたけど、時間は流れ去っていってるんだな。
 フルスピードで。


 近年ずっと抱えていたボリュームの大きな仕事の手が離れた。
 なんというか、「あ、もう、これで卒業なんだな」と思うタイミングがあった。
 気が済んだ。

 今までもそうだった。

 この仕事一生続くんだろうか、このまま歳とって体力保つのかなんて心配していても、仕事っていうのはある時ぽっかり無くなるもんだ。

 で、ぽっかり空いた穴にぽかーんとしてると、そこにひょいと新しい仕事がはまる。
 ありがたいことに、今まで営業活動もなんにもしないのに、そうやって仕事をいただいて声を掛けてもらってきたのだった。

 だけど、今回のぽっかりはちょっと今までと違うと感じている。

 誰かの仕事を、自分が媒体となって、よりよく伝える
 そういう仕事から離れていくような気がしている。
 いや、どんな仕事をしようとそれは必要な要素でついてまわることなんだけど
 もっと自分が主体とならなくてはいけないと、いわれているような気がする。

 照れ隠しで逃げまわるのはもうやめなさい
 あれもこれも忙しくてという言い訳はやめなさい
 覚悟の川を渡りなさい
 と、いわれている気がする。

 だからこのぽっかり空いた穴に仕事がどこからかやってきてはまるのを待つのではなく
 穴を埋める新しいものを作れと
 そういうステージに進めと
 そんな声が聞こえる。自分の内側から。

 えー
 なんですかそれ
 また荒野じゃないですか

 しょせん野良犬、なれた獣道

 先輩たちが格闘して世界を作った。
 役目を終える先輩がいて
 目の前の席が空いた。
 ひとつ前へ。

 どんな風が吹いてくるのだろう。


 

| | コメント (0)

2013年12月31日 (火)

人生にサイエンスがあれば

 今年ももうすぐ終わります。

 振り返ってみて、思い出されることはたくさんありますが、今年中に書いておきたかったので。

 11/16(土)の広島大学理学研究科サイエンスカフェ。
 「秋 〜くだものの科学〜」

 どのサイエンスカフェも分野も内容も違うから、門前の文系小僧は大変なんですけど、毎度とっても楽しみな仕事なのです。
 そのなかでも、この11月のサイエンスカフェはちょっと特別だった。

 Img_7693

 スピーカーの泉先生を囲んでのリハーサル。

Img_2569

「さて、柿とりんご、実がなるところは同じ部位か、ちがうか。ここ、調べて説明してね」

 生物専攻のTさんに無茶振り。「・・・調べときます・・・」(当日はTさんが参加できずSさんピンチヒッター。とっても上手に説明してくれました)

「ということで、Iさん、ベークライトの合成実験、説明しながらやってね」
「・・・・はい・・・・」
 今度は化学専攻のIさんに無茶振りだ。 本番まで1週間ちょっとだけどがんばれ。


 さて当日。

Img_2985

 白衣を着たIさんの手もと資料にはびっしりと書き込みがあった。たくさん考えて準備したのでしょう。




 理学融合センターから会場のマーメイドカフェへの移動中、泉先生に聞いておかなくてはいけないことがあった。

 「先生、あの、ご病気のこと、みなさんにお話ししますか」
 「はい、そうしたいと思います。」

 泉先生は、ちょうど1年ほど前、ご病気で倒れられたのだった。
 お見舞いに行った時のことをよく覚えている。(そのときの様子はこちら

 ベッドに横になったままの泉先生。それでもノートパソコンを開いて見せていろいろ話して聞かせてくれた。言葉にならずもどかしく、心拍が高ぶって側の機械からアラームが鳴った。


 「あのとき、寺田先生の娘さんがお見舞いに来てくれて、
  泉先生、また元気になってはやくサイエンスカフェやってくださいねって。
 今日サイエンスカフェやろうと思ったのは、彼女がそう言ってくれたからなんです。」

 そうでしたか・・・

 あれから1年。今日は泉先生の復帰戦だ。

 
 1455156_423562804433716_1911086271_

 ふさわしい好日。ちょっと泣きそうだったが、泣いてる場合じゃないこれから本番だ。


1374772_423562694433727_1069265897_

 それにしても今回は学生さんたちの活躍が目覚ましかった。

 実験器具の準備、段取り、スマートな動き。
 説明も上手にできた。実験もがんばった。

 みんなで赤と青の手袋をはめて手をつなぎ、「蜂にさされたら渋柿を塗るといい」という民間療法の科学的理由の説明をするシーンはとってもわかりやすかった。

 ここから、分野を越えた学生さんたち同士の集いにまで発展していった。サイエンスカフェの功名であります。

 来場者の方々からは活発に質問が出たし、リアクションも大きくて楽しそうだった。



 そして泉先生は病気だったと話さないとわからないくらいだった。

 高橋先生も 中田先生も 小林先生も復帰戦を見に来られた。
 「ぜんぜん大丈夫やったやん」と。みんなにこにこ見ていた。


 糖にあるアルデヒドってやつが危険なんですよね、という話から、
 「それを知っていながら自分が病気をしてしまいました。」と。

 入院中にお見舞いに来てくださった先生方とディスカッションしたこと。
 分野の違う先生たちと話すことがとても刺激的だったこと。
 リハビリとして看護士さんたちに講義をしていたこと。
 看護士さんたちに先生教えて、あれはどういうことなんですかと頼りにされたこと。
 待合室にあった雑誌をたまたま見て、そこに書いてあることがウソだと思ったことから、大学病院と共同で今論文書いているところです、と。

 「病気しなかったら、そんなことにはなっていませんでした。」

 生死をさまよっていたころから1年。泉先生の原動力はサイエンスだった。

 転んでもタダでは起きない、むしろ倍返しの科学者魂。

 今回はくだものの科学だけじゃなくて、人生の科学を学んだ気がします。
 ありがとうございました。

 物理、化学、生物、地球惑星、宇宙・・・まったく興味も縁もなかったわたしの人生が、こうしてサイエンスに寄り添うご縁をいただいた。
 だからといって科学的知識や造詣に深くなったわけじゃないけど、「知らない」んだということを知れた。新しい目が開いた。

 インチキ、デマ、誤解、まやかし、
 不安や無知の心のすき間に入ってくる闇を払えるように、人生にサイエンスが必要だと思う。

| | コメント (0)

2013年10月11日 (金)

やりすぎでちょうどいいくらい

 先日、洋菓子をつくる人が、「和菓子にもとても興味あるんです、つくってみたいとも思う。でも、あれだけの伝統がある世界、なかなか・・・」
 と言っていた。

 たしかに和菓子、とくに茶席菓子なんか、あの美しい姿や餡子に何百年も受け継がれたいろんなものがぎゅっと詰まっているようで、新参者がおいそれと手出しできるようなジャンルではないよね。なるほどねー。

 と、言いつつもなんか違和感があった。

 帰宅してしみじみ考えるに、「伝統の前には太刀打ちできない」というのは、もっともらしいけど、ちがうなと思うに至った。

 わたしのお茶のお師匠は、茶事で茶を振舞うだけでなく、自作の菓子や料理を出したいと、茶席菓子や懐石料理の勉強もされている。

 で、お稽古でその恩恵にあずかるというか、「つくってみたの、召し上がれ」とぴかぴかのお菓子を出していただくのだ。わーい。

 それが、ものすごく美味しい。
 
 それは、「お師匠の愛情がこもってるから」とかいう心情的な話ではない。実際旨い。

 豆や砂糖や粉がいいから。小豆を丁寧に炊いて、何度もさらして漉して、手間をかけて作るから。保存や衛生のための添加物が入ってないから。作りたてほやほやをいただくから。

 「こんなの、商売あがったりよ(笑)」

 そう、これを商売にしたら到底割が合わない。

 だけど、伝統の、老舗の、そういうものに太刀打ちするには、「割が合わない」ところでしか勝負できないんじゃないかと思った。

 お菓子の世界だけじゃないと思う。

 なにかに新規参入するならば、「やりすぎ」じゃないと、既存のものに勝てない。

 ・・・・とか書くと、ビジネス書みたいな感じでいやね。


 温泉茶は「あなたサービスしすぎよ!」といつも怒られる。いいお茶で、いいお菓子で、しゃべり過ぎで、やりすぎだ。
 身銭切って、損をして、なんのためにやってるわけ?

 阿呆は儲け方を知らない。

 ただ、やりすぎくらいじゃないと、ちょっとやそっとじゃ、人はこっちを向いてくれないことはたしかだと思うのだ。

| | コメント (0)

2013年9月30日 (月)

お茶の「教室」、はじめます。

 10月から、お茶の「教室」をはじめることになりました。
 
 今もNHKカルチャーセンター広島教室で「おいしく淹れよう中国茶」というお教室を持たせていただいています。

 が、話していると「中国茶」に収まりきれないのだった。

 お茶のルーツは中国雲南省の熱帯雨林だと聞いています。
 そこから何千年も愛され続けて、日本や台湾やいろんな国に渡って進化して来たお茶。
 歴史を追っても、種類を追っても、とうてい生きてるうちに追いつけそうにない。
 そんなのびのび広いお茶を、「中国茶」「日本茶」と分けて狭くしてもしかたない。
 あっちにいったりこっちに来たりして、自由に楽しんだらいいと思っています。

 だから、「中国茶教室」でも「煎茶教室」でもなく、「喫茶教室」。
 茶を喫する楽しさを、体感していただけたらなと。

 目標は、「ご自分で、家族や友人にうまい茶を振舞えるようになる」です。
 
 お茶を淹れることなんか、かんたん。お茶の葉に湯を注いでだすだけです。
 ちょっとしたコツとか、なるほど納得、というポイントを知れば
 自由自在にお茶が淹れられる(はず)

 とりあえず、年内5回で1クール。
 中国、台湾、日本の茶を駆け足で知って、淹れ方を学ぶコースにしたいと思っています。

 そうやって中身を考えると、広大すぎて「中国茶」とか狭く区切る理由が身にしみてわかるのだった・・・無茶だよあんた、5回完結なんて・・・

 5回、全部内容が違います。参加できる会だけの参加も大丈夫です。
 場所は、いつも「話す温泉♨いい茶だな」でお世話になってる「GENERAL STORE 8 4」さんにて。

 詳しくはこちらをご覧ください。(さらに詳細も随時更新予定)
 「温泉茶の喫茶教室と喫茶室、はじめます」

 お問い合わせはお気軽に!
 メール: info@onsencha.com

 お待ちしております。

| | コメント (0)

2013年9月20日 (金)

温泉みたいでありたい

 この秋から、温泉茶の「喫茶教室」をはじめようと思う。
 
 「人に淹れてもらったお茶は美味しいわ〜」←これはその通りなんだけど

 「自分で淹れるとどーも美味しくはいらないのよねー」←そんなことありませんてば。

 お茶を美味しく淹れるのなんか、誰でもすぐできます。
 わたしだって、お茶の葉に湯を注いでるだけなんです。
 コツは、「なにを“美味しい”と思うのか」
 ただそれだけなんです。秘伝もくそもございません。

 だから、お教えするというよりは、一緒に「ああ!これうまーい!」と発見する教室にしたいと思っています。

 ということで今あれこれ調べたり考えたりしてるんでございますが(決まりましたらまたお知らせ致しますのでよろしくお願い致します)、気になるブログにぶちあたった。

 県外のとあるお洒落珈琲店のことを書いた個人の方のブログなんだけど、読んで考えさせられた。

 「お洒落ならばそれでいいのか?」と。
 パッケージもお店のHPもお洒落ですてきだ。
 だけど、「彼らはどうも「自分たちによる、自分たちのための商品」を展開しているだけのような感じがする。」と。
 
 似たようなセンスのカフェも増えたが、アラサー以上のおばさんや年寄りがひとりで行くと怪訝な顔をされる、そういうのはいやだ、と。

 アラサー以上のおばはんであるわたしも、なんとなくわかる。
 だけどこの人、なんでこんなに怒ってるのかな。

 排斥された、と感じたから?

 どんなコミュニティにも、「トーン」がある。会社やお店や、類は友を呼ぶとか。

 そのお洒落珈琲店は、店主がお洒落さんで、かっこいいのが好きなんでしょう。そういうのが好きな方がいいね!と集って、それが結果「ある一定のセンスある人だけ選抜」な、敷居の高さを感じさせている、のかな。

 もしかしたらその店主は、アラサー以上のおばさんお断り、なんてちっとも思ってなくて、もっと多くの人に美味しい珈琲を飲んでもらいたい、と思ってるかもしれないのに。
 そうだったら、残念。伝わってない。
 その店主の思いは、わからないけれど。

 身内感で盛り上がってるところに、疎外感を感じながら行くのは誰だっていやだよな。
 異質な自分を感じながら、身内たちにすりよって仲間に入れてもらうの、けっこうしんどい。

 この「身内感」は、知らず知らずできてしまうものなので、やっかいだ。
 しかも、身内感になじんで身を浸すのは心地いい。連帯感とか、わかり合える感とか。
 異質なものは入ってこない方がいい。へんなのは排斥してしまったほうがいい。
 
 ・・・やばいよ。
 細胞だって、外とのやり取りがなくなれば死んでしまうんだぜ。
 生命ってのは、膜があって、そこの内と外が行き来するもの、なんだと聞いたよ。

 寺本は、いくつも会社を辞めてきた。同僚も同期もいない。倍返ししたい相手も見つからない。
 心地よい、所属場所を持たなかったからこそ、
 そういう境界をぶっこわしたいと思うのかもしれない。

 お洒落かお洒落じゃないか、若いか若くないか、持ってるか持たないか、知ってるか知らないか、生きてるか死んでるか・・・・そんなの関係ないぜ。
 
 閉じてないぜ、ウエルカムだぜ、清濁合わせ飲むぜ、
 できてるかどうかわからないけど、そういうことをずっと言い続けたい。
 ユーモアで。


 それを大昔からあたりまえのようにやってるのが、温泉場なんですよ。
 温泉先輩にはまだまだかなわない。


Photo_3


お洒落カフェ風にしてみたが、やはり素材に難がありほのぼのしてしまった例。

| | コメント (0)

2013年9月19日 (木)

ハロー金澤♨あい鯛茶会 行って参りました

 金澤に行って参りました。

 いやぁ、楽しかったし、旨かったし、勉強になって、反省もした。

 温泉茶当日の様子を、こちらにアップしました。

 「ハロー金澤♨あい鯛茶会」出湯珍道中記

6


| | コメント (0)

2013年8月 5日 (月)

68年前の祖母と母のこと

 今年もまた8月6日を迎えます。
 
 いま、5日の夜。

 明日の朝、どうなるかなんか誰も知らず
 蒸し暑かった一日の疲れに、眠り込んでいたのでしょう。
 
 6歳だった母も、すやすやと寝ていたのでしょう。

 911も
 阪神大震災も
 東日本大震災も

 その前の日は、明日の災難を知ることなく、ふつうの生活がそこにあった。
 その夜に、みんなをかえしてあげたいと思うことがあります。

 今夜も静かです。
 息子もすやすや眠っています。

 明日、悲しみに命を落とすことがないように
 そう思います。

 この文章は、4年前の夏、これまであまりちゃんと聞いたことがなかった母が被爆した時のことを改めて聞いて書いたものです。
 おかげさまで母はまだ元気です。
 保育園だった息子も、今は小学4年生です。

 68年前の、広島の、ある女の子のお話。
 小さな記録、母の記憶の一部です。
 


ーーーーーー

 「祖母と母からもらったもの 」


 広島に生まれた私が小学生だったころ、夏になると毎年、「原爆」を知る「平和学習」があった。
 数十年前のあの日、八月六日八時十五分、広島市上空に一発の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして多くの人の命が絶たれた。
 それがどんなに惨い状況だったか、原爆資料館に見学に行ったり、体育館で映画を見たり、被爆者の方に話を聞いたり、調べたことを壁新聞にしたりした。原爆の歌も習って合唱した。

 「うちのお母さん、被爆者だよ」
 「うちのお父さんと、お母さんもだよ」
 友だちには、「被爆二世」がけっこういた。だけどお父さんとお母さんがどこでどんなふうに被爆し、どうして助かったか聞いていた子は少なかったように思う。

 モノクロ写真の、人のかたちをしていない死体や、ひどく焼けただれたからだや、めちゃくちゃに壊れた建物や、焼け野原や、目をつむってもはっきりと浮かんできて、あんな死体がいっぱいあった焼け土の上に今自分はいるんだと思うと、夏は夜ひとりで寝るのが怖かった。

 「たくさんの人々が、水を求めながら亡くなりました」
 「やけどをしていなかったり、後日市内に入った人たちも原爆症になり、亡くなっていきました」
 おばあちゃんもああやって生きたまま焼かれて、お母さんはちっちゃかったはずなのに、どうして死なずにすんだのか、わからない。でも怖くて聞けなかった。

 祖母の顔やからだには、ケロイドが残っていた。半袖Vネックの、服を着ていたところだけが綺麗だった。いつもきちんとお化粧していたけど
 「まひげがのうて描くのがやねこい(眉毛が無くて描くのが大変)」と笑っていた。
 夏に、テレビで原爆のことをやると思い出したように、猿猴橋で被爆したその時の話をしてくれた。

 「橋の欄干にどーんと吹っ飛ばされて叩き付けられたかぁ思うたら、ざざざざーっと反対に引きずられてから」

 時々は涙ぐみながら、身振り手振りで、恐ろしい顔でいろいろ話してくれたんだけど、怖くてよく覚えていない。

 わたしが中学生くらいの時だったか、祖母は脳血栓で倒れ、言葉が不自由になった。
 話したくてもうまくしゃべれないもどかしさで、だけど夏になると感情を振り乱して話そうとしていた。

 「瑠美子(母)にはかわいそうなことをした。あれはちいさいのに、ひとりで、かわいそうなことをした、瑠美子を頼んだで、ようしてやってくれよ」
 おばあちゃんはそればかり私に言うのだった。

 そんな祖母も、十三年前の春に亡くなった。


 やがて私も結婚し、五年前に子どもを生んだ。
 子どもを抱きながら、ああ、ちゃんと聞かなきゃいけないな、とぼんやり思った。
 母は、なぜ助かったのか。
 もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかった。
 この子ももちろん、生まれてこなかった。
 この子に、生まれてきた理由を説明できない。

 だけど、今度は、聞くことで母を傷つけるのではないかと思うと怖くて聞けなかった。
 たった5さいか6さいの小さな女の子が地獄を見たのだ。
 トラウマになっていないはずがない。
 思い出させれば、母の奥底に眠っていた小さな女の子がまた苦しんで、えーんえーんと泣き出すかもしれない。
 このままそっと、眠らせておいてあげたほうがいいのではないか。

 そう迷って、幾度か夏が過ぎた。



 息子が4歳の夏、保育園で「ピカドン」という絵本をよんでもらったという。

 「あ、げんばくどーむ!げんばくがばくはつしたんよね。だれがやったん?」
 「ん?アメリカが落としたんだよ」「どうしてやったん?」「戦争してたからね」
 「だれが悪いん?」

 誰が悪いのだろうか。

 「りゅうのばあちゃんも、原爆にあったんだよ」
 「ばあちゃんもー!? パパちゃんとかーちゃんはどしたん」
 「パパちゃんとかーちゃんは生まれとらんよ。でもばあちゃんが死んどったらかーちゃんもりゅうも産まれとらんのんよ」
 「へー」

 まだ時間の感覚もよく分からない息子には理解しにくいことのようだが、やがて分かるようなったら、ちゃんと説明しないといけないだろう。

 母はまだまだ元気だ。でも母と過ごす夏はあと何度あるのか。
 母に、聞こう。


 実家に遊びにいき、なにげないふりをして
 「ねえ、あの、原爆の時の話、ちゃんと聞いたことなかったんよね。聞かせてくれる?」
 と聞いてみた。

 一瞬、ぎょっとした表情もすぐに隠し
 「ああ、そうよね、あんたも被爆二世じゃけぇ、知っとかんといけんようねぇ」
 と笑った。
 じゃ、今度の土曜、聞きにくるね、と帰った。


 そして土曜日、実家に行く前に寄るところがあった。
 祖母の墓だ。
 祖母に、お母さんにあの日のことを聞きます、と伝えたかった。

 息子を連れて丘の上の墓所に行くと、あれだけ晴れていた空がみるみる暗くなり、雷がごろごろ鳴りだした。
 「わーっ、かーちゃん、かみなりよ!あめがふるよ」
 息子がわくわくしながら怖がる。
 おばあちゃん、怒ってる?
 瑠美子に、思い出させるな、かわいそうなことをするなと。

 急いで墓に行き、掃除をして、線香を手向けて
 「おばあちゃん、お母さんにこれから話を聞きます、許してね」と手を合わせた。
 車に戻ると同時に、大粒の雨がバラバラと落ちはじめた。


 実家へ。
 やってきた孫に目を細めるじいとばあがいて、お茶でも飲みながらなんてことのない話をして、そして、話を切り出した。
 「取材」に徹するために、ノートとボールペンを持つ。
 「ええと、あのときお母さん、何歳だったんだっけ?」

 母は、そうじゃねぇ、六歳よ、広大附属東雲小学校の一年生じゃった、と答えた。

 それから、あの日の朝のことを話しはじめた。


 母・瑠美子は当時六歳、小学一年生だった。
 小学三年生以上は集団疎開で田舎に行っていたが、一年と二年は親元におり、学校も寺子屋みたいに小グループで集まって勉強していたそうだ。
 東蟹屋町(爆心地から約2.3km)の家で、母と、祖母と、祖母の両親と暮らしていた。
 祖母は結婚して母を生んだが、母が三歳のとき離婚して実家に帰っていた。

 昭和二十年八月六日の朝は月曜日だった。
 祖母・タネコ(三十一歳)は、流川に住む叔母「青木のおばさん」がいよいよもう疎開せんにゃあいけんということになり、その引っ越しの手伝いに駆り出され、出かけていった。
 当時県税事務所に勤めていたはずだが、その日は仕事を休んだのだろうか。
 引っ越しの手伝いということもあって、作業着であるモンペの上下を着て、大八車を押して出かけた。
 
 母は、近所の大きなおうちの菜園場で、ワタルくんとコーちゃんと一緒に遊んでいた。

 八時十五分、
 原爆炸裂の瞬間を母はよく覚えていないらしい。

 気がつくと、粉のようなものがぱらぱらいっぱい降りかかってきたという。

 一緒に遊んでいたワタルくんのおばあちゃんが、ワタルー、ワタルーと探しに来た。
 あんたぁここにおったんね、家に帰りんさいと母を自宅までつれて帰って来てくれた。

 おばあちゃんのハヤノさん(五十一歳)が「ああルミちゃんどこにおったんね」と出迎えてくれたが、顔や首は血まみれだった。家の仏壇を掃除していて、爆発の衝撃で落ちて来た先祖の遺影のガラスが刺さったのだった。

 しばらくして、おじいちゃんが帰って来た。おじいちゃんはやけども怪我もせず無事だった。勤めていた市役所に行く途中被爆し、電車が止まったので歩いて帰って来たらしい。
 その時間、市役所にもし到着していたら爆死していたかもしれない。
 ハヤノさんにささったガラスを抜いて、血をぬぐった。
 母も気がつけば足首あたりをガラスでざっくり切っていた。水もないので、そのあたりに生えていた「ニラグサ」を揉んで傷口にあて、布を巻いて応急手当てをしてもらった。

 祖母のタネコは広島駅前の猿猴橋の橋の上(爆心地から約1.5Km)で被爆した。

 よく晴れた朝だったが、一瞬ぱらぱらっと雨が降ったらしい。
 それを覚えていた人々は後に、「ありゃあB29がさきに空から油を撒いたんじゃ」とうわさしたという。
 あ、敵機が来たな、それにしても空襲警報が鳴らないし、と思って見ていた次の瞬間、ものすごい爆風に吹っ飛ばされ、欄干に激突し、揺り戻すように逆方向へ吸い寄せられて転がり倒れた。大八車も吹っ飛んでいた。
 そこにうずくまり、どのくらい時間が経ったか分からない。気がつくと、周りはぐちゃぐちゃになっていて、お化けのようになった人たちがみずー、みずー、と言いながら川に飛び込んでいるのが見えた。
 「ああ、瑠美子は」
 家に帰らなくては、しかし、見慣れた建物はほとんど倒壊し、方角も定かではない。遠くに見える二葉山を目印に、東へ東へと歩いて帰った。


 自宅にたどり着いた祖母は、祖母のかたちをほとんどとどめていなかったという。
 着ていたモンペはズタズタになってほとんど裸になっていた。焼け残った布が溶けて垂れ下がった皮膚にひっついていた。
 「柄の白いところだけが焼けて黒いところが残っとった」
 銘仙の着物を解いてつくったモンペの、その柄に覚えがあったが、それがまさかおかあさんだとは思わなかったという。
 それが、「・・・瑠美子は・・・」と口をきいた。
 ハヤノさんが「あんたぁタネコさんか?ああ、かわいそうにむごいことになって!ああ、どうしよう、あわれなことになって」と半狂乱になっているのをぼーっと見ながら、「これは絶対おかあちゃんじゃない」と思ったそうだ。

 ひとまず家族がみな帰って来た、とにかく逃げんにゃいけん、ということで山へ向かう。
 大八車の荷台に、つぶれた家から布団を引っ張りだしてきて敷き、祖母を寝かせておじいちゃんが引っ張って運んだ。逃げる前、ハヤノさんは裏の防空壕をスコップで掘り、埋めていた通帳や貴重品をみな掘り出して持っていった。

 夕方、温品の小学校にたどり着く。
 母は、タカマガハラの高台から見た市内の様子が忘れられないという。
 「市内が一面真っ赤っかになって燃えとったねぇ」
 
 小学校で救護にあたっていた軍医さんが、たまたまおじいちゃんの知り合いだった。
 それもあって、祖母にたくさんはない薬を特別につけてくれたり、こっそりビタミン剤の注射をしたりしてくれたんだそうだ。
 しかし、「この人はもう死んででしょう、覚悟してください」と言われた。
 学校の校庭は死体の山で、焼いても焼いても間に合わない。

 ハヤノさんは祖母を必死に看病した。近くの農場に行って牛乳を買ってきては朝晩飲ませたり、蠅がたかってわいた蛆をピンセットでつまんだりしていた。祖母はただウンウン唸って生きていた。

 そうこうしているうちに、母の足の傷が膿みだした。
 化膿して、全身吹き出物だらけになった。吹き出物が膿んでどろどろになったが、ろくに薬もなくて、河原で体を洗ってもらうことぐらいしかしてもらえなかった。
 「こりゃあこの子もあぶない」と医者に言われたそうだ。
 「後から考えたら、あれで毒が全部出たんかもしれんね」

 広島の惨状を知って、田舎の親戚が駆けつけてくれた。
 ハヤノさんの従兄弟・ワタリのおじさんが山県郡千代田町のあたりにおり、市内に嫁に行ったのがハヤノさんだけだったので、広島に出てきた親戚の娘がみなハヤノさんの世話になったらしい。
 米や野菜を自転車に乗せて、遠いところから押して歩いて届けてくれたという。
 「これをタネコに食わせてやってくれ」と、二回くらい運んでくれたそうだ。


 そのころ、祖母と離婚し別居していた祖父・「おとうちゃん」が母を迎えにやって来た。
 祖父は商いをしていて、先代から勤めていた職人さんが「世話になっとるけぇぜひ来てくれ」と呉の狩留賀の家に呼んでくれたのだ。
 母を自転車にのせ、歩いて狩留賀まで連れて行ってくれたという。
 そこの家では、ごはんも食べさせてもらいよくしてもらった。しかし、ちいさい母はおばあちゃんとおかあちゃんが恋しくて仕方がなかった。

 なので、こっそり家を抜け出して、温品の小学校まで、ひとりで歩いて帰ったのだった。

 狩留賀の家では瑠美子がおらんようになったと大騒ぎになったそうだ。
 そんなこともおかまいなく、母はひとりでとっとと帰って来た。

 「どこをどうやって帰ったんか覚えてないんじゃけど、えらいじゃろ」
 呉から温品まで、車でも1時間はかかる。6歳の子が歩いて、一体どのくらいかかったのだろう。
 只々、おかあちゃんに会いたい思いが歩かせたのだろうか。


 さて、あの日祖母が引っ越しの手伝いに行く予定だった青木のおばさんはどうなったか。
 流川といえば中心地だ(爆心地から約1Km)。家は全壊し、おばさんは家の下敷きになった。
 助けてー!と叫んでいると、どこかの人が丸太をテコのように使い、がれきを持ち上げてくれて助かったのだそうだ。そのままいたら焼け死んでいただろう。

 その青木のおばさんの親しい人が、牛田の山の上に住んでいた。
 温品の小学校では、ハヤノさんは祖母の看病で手一杯、瑠美子まで面倒見きれない。
 ということで、母はこんどはそこの家に世話になることになった。
 いい人だったが、出されるご飯が赤い実のコーリャンご飯で、それが体に合わなかったのか全身にじんましんが出た。
 もういやだ、
 母はまた脱走した。

 「焼け野原でなーんにもなくてね。荒神陸橋の踏切のとこの線路を渡って帰ったのはよう覚えとる。よう帰ってきた、瑠美子はあれでみな知恵を使い果たしたんじゃゆーてよう言われたもんよ。それにしてもえらいよねぇ、よう帰ったよねぇ」


 知らなかった。
 「焼け野原を歩いて・・・」という話はちょっと聞いたことがあったが、まさか2回も、そんな遠くから脱走して帰って来たなんて。

 母はそこまで一気に話した。
 はっきりと、先を急くように早口で。
 長い年月をかけて、心の傷を飼いならした冷静さと、強さで。


 祖母はそうして、死ななかった。
 傷もだいぶん落ち着き、秋口には東蟹屋町の家に戻ることができたのだった。

 とはいえ、家は半壊し住める状態ではない。近所の、木谷のコウさんという大工さんが、急ごしらえのバラックを建ててくれたそうだ。バラックは雨露をしのげるほどの粗末なもので、冬は隙間から雪が吹き込んできていたのを覚えているという。

 しばらくして、元気だった人々にも症状が出はじめた。

 ハヤノさんにも全身に発疹のような赤斑が出た。近所の人どうし、「わしも出るんで」「ありゃあ原爆症らしいで」と話していた。当時はまだ放射能が原因だということは分からなかった。おじいちゃんは髪がごっそりと抜け、歯茎から出血し、赤班がでた。
 急性の症状が治まった後も、おじいちゃんはいつも胃が悪く、五十五歳の時に胃がんで亡くなった。

 その秋、大きな台風が来て猿猴川が洪水で氾濫し、荷物という荷物がみな流されたこともあった。首のあたりまで水が来て、荷物がぷかぷか浮いていたという。
 その中には母が買ってもらったお雛様もあった。マルタカという玩具店で特注し作ってもらったもので、お内裏様とお雛様の上に宮がついている、いいものだったそうだ。

 そういえば私が小さい頃、毎年お雛様を飾りながら「わたしが買ってもらったお雛様はいいお雛様だったんよ。上品なお顔でね、宮がついててね。原爆でみな無いなったけどね。惜しいことをしたねぇ」と話していたのを覚えている。

 そのお雛様も、飾って楽しくお祝いした家も、なにもかも原爆は壊し奪った。

 その後、2度ほどバラックを建て替え、やっとまともな家を建てたのはずっと後のことだった。

 食べるものを確保するのも大変だった。道ばたの雑草も湯がいて食べた。
 ハヤノさんと母は郊外へヤミ米を買いにいくのだが、検問で見つかりみな没収されたという。
 おばあちゃんが検閲されている間、母は子どもの身軽さで脇をすり抜けて逃げ、米を担いだまま家まで帰り着き、ものすごく褒められたんよと自慢そうに話した。


 そこから、どのように生活を立て直し暮らしてきたのかはよくわからない。
 子どもだった母はよく覚えていないからだ。

 全身大火傷を負った祖母は命を取り止め、回復し、働けるようになり、再婚した。

 「やけどで皮膚がひっついてね、腕がまがったまま伸びんのよ。
  それをあの人は、大きな金だらいに水を入れたものを両手でもって、力任せに腕をのばした。
  自力で腕をまっすぐにしたんよね」

 美人で評判だったという祖母はその顔も身体も焼かれてもとの姿を失った。
 母も残留放射能だらけの焼け野原を歩き回った。

 いくら話を聞いても、想像しても、たぶんぜんぜん足りない。わからない。
 しかし、死んでいてもおかしくなかったのに、よく死なずに生きていてくれたと思う。

 祖母も母もほんとうに強い。つよいつよい人だった。
 そうやってつながれた命がわたしであり、息子なのだ。
 生きていることの有り難さと意味をしみじみ想う。

 (2009年夏記録)

| | コメント (0)

2013年7月30日 (火)

「サタデーナイトティーバー!」

Photo

うまい茶をみんなで囲んだら
アツい会話が湧いてあふれて掛け流し。
土曜の夜のエキサイティングな「お茶ベり」トークライブ、開催!

♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨ ♨

“うら袋”の素敵ショップ「じぇねらるすとあ84」が、8/4に3周年を迎えます。
こりゃ、めでたい。

それにかこつけた(笑)お祝いイベント、
それが「サタデー・ナイト・ティーバー」。
3周年イブの土曜の夜を、「お茶ベり」で楽しもうというわけです。

で、集まってお茶飲んで、何話すの?

温泉茶はかれこれ2年前、84さんと出会って始まりました。
どこか心地いい場所でお茶を淹れたいなぁ、と思っていた頃。
2、3度買い物したことがあったものの、
そんなに親しくもなかった84さんに
「あのう、ここでお茶を淹れるイベントさせていただけませんか?」と。

「・・・・いいですよ。 いつにします?」
あまりのオープンマインドにたまげたのでした。
84さんに「へぇ、いいですね」と面白がってもらって、
「話す温泉♨いい茶だな」は生まれて育ってきたのです。

そうやって眺めておりますと、間もなく3周年を迎える84さんは
そんな風な出会いがたくさんあって、
さまざまな“すご腕”と一緒に
いろんなモノやコトを生み出してきたようです。

「ブリッジハンガーラック」「84棚」「ボノベーグル」「壁のくじら」「折々のポスター」「温泉茶」・・・
84さんのお店の中で《素敵ビーム》を放っているものの数々・・・

どこでどうやって出会い、どういう会話を経て、それらは生まれたのでしょうか。

84の「素敵!」をつくり出してきたそういう方々に、
メイキング裏話を伺ってみたい。

淡路島からは、洋鍛冶 長命佳孝氏が茶飲み話に来られます。
さしものかぐたかはしの高橋ご夫妻、
ボノベーグル、温泉茶デザインの関浦ご夫妻、
サタデーナイトティーバーの「踊らにゃソンソン」フライヤーを作ってくれた
オリシゲシュウジ氏
そして、84店主大田氏・・・etc,etc・・・
サタデーナイトに84大集合、となりました。

筋書きのない「茶飲み話」、どっちに転がっていくのでしょうか。
84さんの「3周年記念特典映像」や、まさかの「NG集」一挙公開!
そんな感じの「サタデー・ナイト・ティーバー」になる予感。

さらには、それぞれの道のプロが、ものを作る時なにを考えているのか、
クリエイティブの頭脳にダイブできたらいいなと思っています。

うまい茶は、その場の人々をすっと丸裸にしちゃう、
不思議な力があるように思います。
みんなでうまい茶をすすりながら、一緒に“お茶ベり”しませんか?

なにかとイベントの多い土曜の夜ですが、お待ちしてます!

2013.8.3(土)《「84」3周年イブ》
19:30 open 20:00 start (22:00終演予定)

入湯料1,500円 旨い茶掛け流し(いろんな種類をどんどん淹れます)
お持ち帰りできる「オリジナル茶杯」付き!


| | コメント (0)

2013年7月 4日 (木)

他人に映して見えることと見えないもの

 「温泉茶」ができた。

Tumblr_inline_moyg2je4m61rktgx6

 ことの始まりは、「あー、オリジナルのお茶つくりたいなー」 だった。

 そのいきさつはこちら、「話す温泉 ♨ いい茶だな」公式タンブラーにて詳しく書いております。

 ジェネラルストア84店主・大田さんが「いいですね、やりましょうよ!」と面白がってくれたおかげで、事が運びはじめた。

 パッケージデザイン、うんと素敵にしたいですね! ということで、今をときめく関浦《ムッシュ》通友氏にお願いすることになった。

 3月、尾道の今川玉香園茶舗さんのところに向かう道中、冗談みたいな軽口を開放して、思ってること、考えたこと、こんなのが素敵よねー、ということをずっとみんなでおしゃべりした。

 じゃあ、デビューは6月末。 
 「温泉茶プロジェクト」が走りはじめた。

 パッケージデザインについてのイメージや、どうしたらいいか、それはもう、関浦氏にまかせようと思った。

 でも普段の寺本の仕事はここ。

 デザイナーさんや、カメラマンさんや、コピーライターさんに、お客さんにとってどのようにしたらいちばんいいのかを、確信を持って伝える = ディレクション をするのが寺本の仕事。

 お客さんから概要を聞いてきて、デザイナーさんに伝えて、じゃああとはよろしく、というのでは、まかされた方もたまったもんじゃない。目をつむって玉を投げるようなもんで。的はどこなんだよ。それならディレクターいらない、デザイナーが直接お客と話した方が精度があがる。


 じゃあ、温泉茶もきっちりディレクションしたらどうか。とも思ったけど、これは「お客が自分」な案件だ。もう、おまかせしてみよう。

 そうして、しばし時が流れ、「こんなのどうですか」と見せてもらったら、そこに、

5

 この子たちがいたのだった。

 温泉てぬぐいキャップかぶってる!!!
 自分だったら絶対思いつかなかったなー。

 関浦氏が、わたしを見て聞いて、そこから掘り出したイメージがこれなんだ。
 そっかー。温泉茶って、こうだったんだ。
 新発見だった。

 じつは、このデザイン、完成間近でがらっとトーンが変わった。(バラしてすいません)

 関浦氏が、こつこつ精度を上げる中で、どーんと変えた、その決断にいたる「発見」とか、得た刺激とか、一体なにがそこに作用して、これほどまでに劇的に変えてきたのだろうか。
 関浦氏本人にも、説明がはっきりつかない、ただ「こっちのほうがいいと思った」ということなんだろうけど、すごく面白いなぁと思った。

 
 中身の方も、すばらしい仕事があった。

 煎茶とひとくちに言っても、ものすごいバリエーションがある。
 今川さんのとこのお茶は、何飲んでもうまい。間違いない。
 その上で、寺本がうなるのはどこか、
 静岡と鹿児島の茶を、すこしずつ割合を変えて、目の前で合組(ブレンド)してテイスティングさせてもらった。
 「・・・うまい・・・」

 しかしそこから完成までに、さらに割合塩梅を調整してきた。さっすがプロのプライド。たまらない。


 そうやって、出来上がったのです。「温泉茶」。


 お披露目の日、84店頭で

 「・・・で、寺本さんは、なにをされたんですか?」ときかれた。

 これまで、何度も何度もきかれてきた質問だ。おまえは何者だ?と。

 デザインしたわけじゃない、お茶は尾道で詰めてもらった、
 「いやあ、ああだこうだ、言ってるだけなんですけどね」

 なにをしたか、
 プロたちの中に、温泉茶のイメージを呼びました。
 
・・・・まあ、その場で言えなかったんだけど、そう思った。


 自分のことは案外分かってないんだな、と今回はとても思った。
 だれかに、鏡のように映してみると意外な姿が見えるんだねと思った。


 その反面、他の人や他の事例をいくら見ても聞いても駄目なんだなととも思った。

 いま、わたしのまわりにいる人たちは、それぞれのプロで、親切で、話せばちゃんとこたえてくれる。素晴らしい人々に恵まれていると思う。

 だから、「ねぇ、どうしたらいいと思う?」と甘えたくなるのだが、
 自分の中に答えがないことを、いくら優秀な人に聞いてもたぶん正解はでてこない。


 先日、宇宙ステーションで新曲を録音する斉藤和義を見た。夢で。(また妄想話かよ)
 オーケストラの方々も音合わせをしている。
 録音ブースの中で彼は、ひとり、なんのメロディともつかない音を、ずっとギターを弾いて鳴らしていた。それは、自分の中に鳴っている音を、現実の音にしているような、探しているような、目は開いているけれど、なにも見ていないように自分の深いところに耳を澄ましているようだった。

 あの、「歌うたいのバラッド」を作った時も、自分が作ったんじゃなくて、その曲だけが流れているラジオ局があって、たまたまそこにチューニングを合わせることができて、自分だけが聞けた感じ、と雑誌かなにかで話していた。

 小川洋子さんも、小説を書きながら、書き手の自分がいちばん後ろをおいかけてる感じ、と話していた。物語はすでに存在していて、語られるのを待ってると。

 たぶん、もうこたえはあるんだな。探してるものはあるんだろうな。
 そこにアクセスできるかどうか。


 温泉茶のパッケージをデザインしてくれた関浦氏も、煎茶の合組をしてくれた今川さんも、耳を澄まし目を凝らして、それぞれの深海の底で光ってた、「これ」っていうのを、拾ってきてくれたんだと思う。

 目に見えないものをキャッチして奏でる、スナリもそうありたいと思う。

 


 


| | コメント (1)

«『爆笑サイエンスカフェ⑧』【生きる科学力】