捨てることば
長い旅から戻りました。
たいがい長い旅の終わりには、疲れたり、旅が終わってしまうことが悲しかったり、日常に戻るのが億劫だったりするのですが、今回は不思議とそんな気持ちにならなかった。
むしろ、日常が楽しみになった。
日常を楽しむためにどうしようかと思えた。
まずは片付けたいと思った。
10年、引っ越して来てから知らないうちに溜まった、さびのようなものを落としたいと思った。
いろんなものを捨てたくなった。
今日、本棚を片付けていると、過去の仕事の資料がごっそり出てきた。
なにに執着していたのか。すべて捨てた。
ノートも数冊出てきた。
いいなと思ったことや考えたこと、仕事の打ち合わせ誰かのいい言葉、そんなものをむにゃむにゃ書いているノートが過去数年分溜まっていた。
捨てる前に読み返してみて切なくなった。
血が滴るような言葉が並んでいる。
会社を辞めるかどうか迷ったり、息ができないと苦しんだり、
子どもを持つべきかどうか仕事はどうするのか
もういやだいやだ助けてと
そのころの自分に会えたら、聞かせてあげたい。
もう少ししたら分かるから、そんなに嘆かないでと。
そのノートにも成仏してもらいましょう。
捨てる前に、拾った言葉いくつか。
○アインシュタインはこう述べた。
「観察する現象とそれにより私の中でできる考え、この二つはいったいどのような関係にあるのだろうか」
もしアインシュタインが「タイ・トワム・アシ=それはお前だ(古代インド語)」を知っていれば、そんな矛盾ははじめから起こらなかった。
つまりわたしたちの知覚する現象は、すでにそれについての考えを内包している。あるいは、わたしたちは現象に符合する思想を頭の中にすでにもっているからこそその現象を知覚できる。
(ミヒャエル・エンデ)
○「ひねくれものの審美眼」
沼田さん(沼田元気)が思われるカフェと喫茶店の違いは何ですか
沼田:ぼく的に言えば精神的な間口の広さと狭さかな。つまり、暗黙の了解で年齢とか人種とかをいまどきのおしゃれカフェは選別している。
もちろん喫茶店でもそういうところはあるんですけど。
例えば京都と大阪の喫茶店が落ち着けるのは、若い子からおじいちゃんまで、堅気のサラリーマンから水商売のフリータァまで、皆が同じ場所でそれぞれの楽しみを持って集まれるところですね。
カフェだとそれが限られた人になってしまう。
でもひょっとしたら20年くらい経ってカフェも定着してそんな風になるのかなって思うのですけどね。
○犬のしつけにご褒美をつかわない
犬は褒められるのがうれしいんじゃない。
飼い主が喜ぶのがうれしいんです。
いずれも2002年のノートより。
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