こしひも続考
「こしひもの件」で書いたことの続き。
お茶の点前のとき、腰に袱紗をつける。本来きものの帯に挟むのだが、きものを着ない稽古の時はなんらか工夫して代替品を身につける。よくある手はベルトなのだが、ある方が「こしひも」を結んでいてびっくらこいたという話でした。
先日お会いしたお師匠(若くして茶道・煎茶道師範の美人)が
「わたし、あれ読んで膝を打ちました。ポンって」
なんでもお師匠が出稽古に行かれている先でも、生徒さんがみな「こしひも」なんだそうだ。いや、正確にはだて締め。それも、マジックテープのやつだ。
こんなの。
それをバリバリいわせて装着して、しれっとお点前されるのだそうだ。
なんだかしっくりこなかったが、「こしひもの件」で“こしひもってブラジャーの紐ですよね”というのを読んで以来、笑いをこらえるのが苦行のようであるとのことだった。
で、そのこしひも率の高い出稽古先は、実はきものの着付け教室なのだそうだ。
なるほど。
なんかわかる気がした。
実はかつて十数年前、社会人なりたての頃、会社の下の駐車場でロマンスグレーの男性にスカウトされたことがある。
「うちの家内が着付け教室をしている、ぜひ習ってみないか」と・・・
着付け教室?まあ興味がなくはないので誘いにのって行ってみたのだった。
とてもお綺麗な奥様で、さっそく習いはじめることに。
母が若い頃きものを着て暮らしていたらしく、実家には着付けに必要なものはひととおりあった。
まずは浴衣の着方から。半幅帯の結び方。「あなた筋がいいわよ」
期待されてどんどん次のステップへ・・・という矢先に辞めた。
そもそも、とうかさんのときに一人で浴衣着られたらいいなくらいの動機だったのもあるが、その着付け教室の最終目的は「振り袖クイーン」養成だったからだ。
「振り袖クイーン」とはなにか。
美しくにこやかに振り袖を着こなすモデルではない。
振り袖早着替え競争の選手、なのであった。
前回のトーナメントの様子をビデオで見せてもらったが、壮絶であった。
襦袢姿の女性がずらずらと、審査員たちが見上げるステージに登場する。
スタートの合図で、それはそれは、目にも留まらぬ勢いで振り袖を自装してゆくのである。長い袖やら袂を振り乱して。
振り袖を着付けるのはたいへんだ。二人掛かりでも時間がかかる。それをほんの数分で一人で着てしまう、その技術はすごい。すごいが・・・なんかものすごいものを見てしまったような気分だった。
そのステージにて闘うことを嘱望されていることを思うと・・・・逃げるように辞めました。
だって考えてみたら、ブラジャーとパンツ一丁でステージに並び、よーいドンでイブニングドレスを装着する早さを競うようなものだ。着上がった華やかさと、無我夢中で着あげる姿とのギャップはどうしたことだ。
そこは、人様にお見せしちゃいけないとこなんじゃないでしょうか。
そもそも、着付けをはじめるときに母の和ダンスからいろいろ借りた時にも変な気分だった。腰巻き、だて締め、こしひも、襦袢・・・母が愛用して年季が入ったそれらは、要は“はき古したパンツ”だったからだ。ふつう親子とはいえパンツ借りないよな。
「使い込んだ紐の方が締まりが良くていいのよ」とその先生はおっしゃっていたが、知らない人の前で母のパンツを身に着ける心地悪さと恥ずかしさは心の底に残っている。
しかし、着付けをはじめるにあたって、それらの道具を新調していたら。
そこに“下着”という認識は薄く、ただの着付けの道具と思っても無理からぬのではないか。
わたしも母が日常的にきものを着ていた記憶はない。セレモニー用の礼服としてきものを着る機会はあっても、もはや普段着ではなくなっていた。だから母がきものを着るところを見たこともないし、着付けは娘に伝達されなかった。わたし以下の世代もみなたいていそうだろう。だからわざわざ着付け教室に通うのだ。
人前で襦袢を身に着けるのも、祭りで法被を着るのと気分的に変わりなくなった。
だったら、お茶の稽古の時にこしひもを結ぶのも、便利な道具を上手に応用しているという認識にしかすぎないわけだ。なんで恥ずかしいわけ?
伝達されなかったのは着付けだけではなかったのね。
そこに付随してるはずの意味も途絶えたんだなあと思う。
そんな祖末なもの人様にお見せしちゃいけませんいう禁忌が、どんどんゆるくなっているのであろうか。
因習だの時代遅れだのと、先人のいうことを聞かないでいると恥ずかしいことになると、最近ちょっとわかってきた気がする。遅いですかね。
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