それは自分の考えか
読まなくてはと買った本が山のようだ。
売ってなくて図書館で借りた本も返却期限が迫っている。
どうしてこんなことになるのか。
アマゾンでワンクリックで、クリッククリックと調子にのって買うのがいけないのか。資源ゴミのたびに段ボールの束を見て反省する。
時間がないってのは言い訳だ。休みのたびに原っぱでごろ寝する時間はたっぷりあるじゃないか。
ひとまず、借りた本から読みはじめる。
しかし、なんとなく淡々と文字を追い眠くなる。むー。
はて。なんでこの本を読まなくてはと思ったんだっけ?
いろんな人が引用して紹介しているその原典を、全文で読みたかったからだ。
そうだったそうだった。
思い直して読み進める。
『かつて○○氏が著書「□□」で述べたように、△▽であるから◎◎なのである。』
こんな簡単な一文を書くためにこの人は、著書「□□」を読み、自分の血肉とし、知識の幹を太くし、そういう勉強を自分の頭で考える燃料としている。
引用することが、受け売りになるか、先人の考えと同じ流れを支持するという表明になるか、そこはどこまで自分の血と肉と頭で考えたかが決める。
その経過を追体験してみたかったんだ。
すごいなぁ、いいなあという話しを聞くとぐっとくる。
いやぁいい話しが聞けた。いいこと聞いちゃった。
それをすぐに人に伝えたくなる。
あそこで食べたケーキ、美味しかったのよとブログに書く。
タイムラインに流れてきたいい話しをRT(リツイート)する。
いい話しは広く伝えなきゃ。
いいことはみんなで共有しよう。
それはそうなんだけど。
もしかしたら、それはただの反射じゃないか。
最近はそう思うようになって、こう、ぴかぴか跳ね返すばっかりの、ミラーボールみたいな人にはなりたくないなと思う。
自分の考えに水をやり、光をあて、栄養をあげて育てる。
ゆっくりと根っこから吸い上げるような、
老化の一途をたどるお年頃ではあるが、育つところもあると信じる。
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