お仕事日記

2013年5月29日 (水)

野生の寺本

 4月5月、長かったぁ。
 いろいろ、なんの苦行かと思うことが続いて、
 ここから神は自分になにを学ばせようとしてるのかと悩んだ。

 ・・・ちょっとオーバーに言いすぎました。

 でも、しみじみ課題が見えた。

 寺本がひとりでぜんぶやるものは、そこ止まりだけど、
 だれかの力を合わせてもらうと、違う世界が見える

 それを垣間みたけど

 誰かがいいと思ったもので寺本をいじられると
 とたんに寺本の生気が失せる
 という現実もいくつか見た。


 

 知人に声をかけられて、広告のモデルになった。

 いままでも広告モデルならやってるんですよ。
 庶民的であたりさわりないおばさんの顔が欲しいとき、
 および
 プロモデルに頼む予算がない時に気軽に声がかかる。
 はいはーい、
 自分の容姿存在に著作権とかないと思ってるので好きにしてもらう。


 20代未婚だったが、玄関先で調査員と談笑する奥さんを演じた。
 子どももいないのに、中学生の息子を待つ母のような
 堂々の老け顔っぷりだった。
 あるときは「これかぶってください」と言われるままに
 髪の毛を全部中に入れる白い帽子をかぶり、
 月刊給食という雑誌広告に給食のおばさん役で出演した。

 今回は41歳、老後を考える、という役回りだった。

 
 撮影時、スッピンで来いとのことだったのでスッピンで行った。
 メイクさんに、20分少々でメイクしてもらった。
 ら、白塗り仮面になっていた。

 自分の美容に感心が薄いので、シミ、シワ、クスミ、申し訳ないことです。
 でもそれを「なかった」ことにするべく左官的に塗り込められて
 ああ、加齢は敵なんだ 
 若さこそ金なんだ
 そういう文脈では、わたしは価値ないんだと思った。
 だったら、プロのモデルでよかったんじゃないかな。
 よかれと思ってメイクしてくださったんだと思うけど、
 隠せば隠すほどみっともなくにじみ出る加齢、
 この白い顔はきらいだ。
 

 「いいね〜!やさしい顔してる!いいよ!」と
 100年分くらい褒められながら撮ってもらった。
 「笑って!」と言われたけど、そんな表情は使われないだろうと思った。
 広告の肝は「漠然とした老後への不安」なのだから
 寺本がすてきに写るための広告でもないし。

 未知のことに不安がっても仕方がない
 これまで、結婚も、転職も、出産も
 やるまえは怖かった 
 だけど、やってみたらそれなりにそんなもんで
 だから未知の老後に不安がるより、
 あと20年とか30年をかけて
 お金だとか、信頼できる仲間とか、役に立つ技だとか
 そういうものをためていけばいいのではないでしょうかー、
 とインタビューに答えた。
 ・・・それじゃあ広告にならないよね、わかるわかる。

 掲載されたわたしは、将来を漠然と不安がってぼんやり老け込んでいた。


 まあ、このモデルの件は、自分でコントロールできる話じゃないから、それでいいんだけど。

 それにしても
 ポスターになったり、広告になったりするモデルさんやタレントさんや
 インタビューを聞き書きされる著名人や
 書いた物を編集されるコラムニストや
 作った曲を他人にアレンジされる唄うたいや
 書いた本が映画になる小説家や

 すごいなあ、と思う。

 「なんじゃこりゃあ!!」と戦うのだろうか
 まぁそんなもんだろうと流すのだろうか。

 自分のものを指一本触れさせない閉鎖性からはなにも産まれないってことはわかってる。
 信頼する人と、シェアして、知恵を2倍3倍にして
 自分ひとりじゃたどり着けない世界に行きたい。

 自分を飼いならされるのでなく、
 いきいきと野放しで駆け回りながら、
 みんなで新しい世界を見たい。

 
 「あまちゃん」の脚本家のクドカンは
 自分の書いた脚本が他人に演出されることを
 「いやー、ここでこういうシリアスな曲を流すと面白さが増すのかーとか、自分ではやらないことがいっぱいで面白いですね、面白いから続けられるんでしょうね、自分ひとりじゃこれほど面白くなんないでしょうね」
 と言っていた。

 「なんじゃこりゃあ!」を越えて、
 他の人との化学変化をコントロールできる
 大人になりなさい
 いま、そういわれているのかと思う。

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2012年9月20日 (木)

司会グセ

 9月末で広島大学理学部を去られるF先生の、送別会があった。

 サイエンスカフェではたいそうお世話になったF先生。
 降ってきたひらめきをひとかけらも逃すまいと、いつもノートを手放さないF先生

 その先生が、今日ばかりはノートを仕舞い、のっけからスロットル全開で飲み上げられた。
 諸事情により車で伺ったので、無念ながらノンアルコールでついってった。

 ふと、スタッフのHさんが物陰にわたしをひっぱっていき、耳打ちする。
 「・・・ですから。よろしくお願いします。」
 ・・・もう聞いてませんてばー。
 「名ファシリテーター、よろしくおねがいしますよ!」
 そんなぁ。


 え、みなさまぁ、ほんじつわぁ、F先生のぉ送別かいにぃ、あ、ごさんかいただきましてぇ、まことに〜ありがとうございますっ。

 011

 マイクがないので酒瓶で失礼いたします。

 まあこんなお調子者なので、調子良く記念品贈呈。
 K先生のギターにのせて贈る合唱。F先生からの答辞。

 そこでF先生は「ここまで隠し持っていたのか!」という超ド級のネタを披露し、
 一堂はらわたよじくりかえりつつ怒濤の2次会に突入した。
 「ホーミータイダーリンで自律分散」というキーワードと共に忘れ得ぬ夜となった。
 (なんのこっちゃ)


 で、その1次会のとき、

 「司会と言えば寺本さん、今度の『中学生・高校生科学シンポジウム』の司会もするんでしょ」
 「おおー、プロの司会をしりぞけて」
 「すごいやん、寺本さんの司会のなにがええんかな」
 「うーん」

 そう、11月の広大理学部主催の行事の司会をすることになった。
 サイエンスカフェでの司会ぶりが、どうやら気に入っていただけての採用のようだ。

 寺本の司会のどこがいいのかと、科学者の集いは推論しはじめた。

 「あれちゃう? 聞いてるときの“ハラハラ感”」
 「ああ!何いい出すかわからんドキドキ感があるよね」

 まじですか。そんなハラハラしてはったの。

 「あとあれね、プロは上手だけど、なんちゅうかこう、上から目線あるわな」
 「ああ、上から目線いかんね。高校生にはとくにね」
 「寺本さんの、高校生に近いちゅーか、親近感ちゅーか、親しみやすさちゅーか」
 「そうそう、まだセーラー服でいけるで」
 
 そんなん着て出たらどん引きですやん高校生。
 モーゼの十戒みたいになりますよ。

 「高校生がさーーーっと二つに分かれるとこ見てみたいなー」

 「高校生に、楽しいなーって感じてもらうことが大事なんじゃないですかね、盛り上げるというか、なんというか」

 ニュウヨークにいきたいかー!みたいな感じですかね。

 「そうそう。東京大学に行きたいかー!とか言いそうやん。だめだめ、広大にこんと!」
 
 
 寺本は何者なのか?
 自分も他人もうまく説明できないのだが、
 「おもろいからええんちゃう」ということのようだ。
 最高の褒め言葉だと思った。

 上手にしゃべろうとか、へんな方向に向かわず、
 ただひたすら
 ね、わかるってすごいよね、おもしろいでしょ!
 と踊るようにしゃべればいい。

 ということでシンポジウムには、セーラー服で臨む。(ウソ)

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2012年6月26日 (火)

準備、熟成、そして素也

 先週金曜はNHKカルチャーセンター中国茶教室、
 土曜は広島大学理学研究科サイエンスカフェでした。

 どちらも盛況でみなさん楽しまれたようでよかったです♪

 などと書いておけば講師としてあるいはファシリテーターとしてそこそこ仕事をしたんだなとおもわれるかもしれない。商売的には「いかに上手にできたか」自分のスキルをアピールすべきところだ。

 しかし今回、その連続する2つを、真逆の原因で失敗したと思う。
 ほんとに、足して2で割ればちょうどよかった。
 とても大事なことなので反省の過程を書いておく。
 

 まずは中国茶教室。
 今回はレギュラーの生徒さんに加え、単発「一日講座」のお申し込みの方々が参加された。

 レギュラーの生徒さんは少なくとも半年6回はお目にかかる機会があるので、質問や要望も伺えるしいろんな話ができる。
 しかし一日講座の方とはまさに一期一会。ちょっと気負う。

 旨い茶を淹れて飲みながら、「中国茶ってこんなんですよ」という概論的な話をしようと思った。
 中国茶といえば何が思いかびますか?サントリー、鉄観音、ジャスミン茶、小さい急須に上から湯をかけて、細長い器を使う工夫茶とか、茶藝とか・・・
 そういう既知のイメージの種明かしというか、「実はいわゆる烏龍茶って、中国で作られてるお茶の15%くらいのもんなんですよ」とか、「中国人の80%は緑茶飲んでるんですよ」とか、そういう「へー」話をいろいろ準備していった。
 レジュメを作ろうと本をひもとくと、いつものように謎が謎を呼んで、中国の歴史の山奥に迷い込んでいった。知識が扉を開いていく快感に酔った。

 それがまずかったね。
 知った新鮮な興味をレジュメに盛り込みすぎた。
 
 もちろん、「へー」はたくさんいただいた。
 知らなかったわーという声もあがり、爆笑も起こった。

 最後のお茶をまわしていると、「もう飲むのあきたわね」という声が聞こえた。
 1種類につき3、4回、3種類目のお茶だった。
 煎茶ならせいぜい3煎、コーヒー紅茶も2杯が限度、夜眠れなくなる。
 茶杯が小さいとはいえ、お腹たぷたぷの方もいらっしゃったかもしれない。
 (レギュラーの生徒さん方は異例の茶飲みで、何杯入れてもどんとこいなのだが)

 ちょっと流れをかえようと、質問タイムにした。

 「あのー、いい急須の選び方ってあるんでしょうか?」
 え、いい急須?
 「ええ、台湾に旅行に行ったとき、ガイドさんにいろいろ聞いて、急須を買って帰ったんです。でも、それ、口からお茶がよぼうんです。これはどうしたらいいんでしょう。」

 口からお茶がよぼっても、中国茶はとにかくお湯をざばざば使うので、茶盤や茶船をつかってうけてやれば問題ないということを答えて、いい急須の見分け方みたいなポイントを説明した。

 他にも2、3質問に答えて、時間となった。

 終了、片付け、帰宅して、やっと気がついたことがあった。

 「茶壺の口から茶がよぼう」状況自体がおかしい。

 醤油差しは、よぼうと本当に不快だ。ぴっとキレのよい醤油差しがいいと誰だって思う。
 中にまだ液体があるものを、注ぐのをやめた時に「よぼう」。
 中国茶も煎茶も紅茶も、そういう状況は生まれない。
 急須に葉を量り入れ、湯を注ぎ、時間を計り、ころあいを見て抽出する。
 そのとき、急須の口を途中であげることはしない。
 最後の1滴まで注ぎきる。

 その人は、途中で注ぐのをやめていたのだ。

 正しいアドバイスは、「とにかく一気に最後まで注ぎきるべし」であった。
 今頃気がついても遅い。

 聞いたことに、知識の中からさっと回答を差し出すと間違う。
 一度、「それはどういう状況なのか」
 うけとめて想像して考えて、本当の問題を見つけて、解決しなくてはならなかった。

 さらには、質問で生徒さんたちのニーズがちょっと知れた。
 「旅行先で買った茶道具の使い方がわからない」
 「お茶をもらったが美味しく入らない」
 「どこでお茶を買えばいいのかわからない」
 解決すべき問題はもっと具体的で身近なものだった。むー。
 緑茶がいつどうやって青茶になったのかなんか、相当マニアックな興味だよな。

 そういうことを、はじめに感じ取らないといけなかった。

 まさに落語だ。

 落語家は、時節柄や呼ばれた場所柄から、いくつかやる演目を用意しておきながら、決めずに高座にあがるんだそうだ。
 そこでお客の顔を見、枕を話し、その反応を見てネタを決めるんだそうだ。

 今日はこのネタをやるぞと決めてかかるのは演者のエゴでしかないのだった。
 
 知りすぎて、準備しすぎて、そのネタをもったいないから使いたがりすぎて、失敗だった。



 なので、翌日のサイエンスカフェは丸腰で臨んだ。

 前回のサイエンスカフェは異例で、2時間に6名の科学者がリレーで話しをした。
 打ち合わせも綿密に繰り返し、決め決めで臨んだ。
 それが裏目に出て、わたしは新鮮な視点で切り込んでいけなかった。
 (そもそも突っ込んだりボケたりする寸分の時間的余裕もなかったし)

 時間通りにうまく仕切る司会なら、もっと若くてべっぴんな司会者がゴマンといる。
 わたしの存在理由は、瞬時に「それはわからない、どういう意味?」と切り込み、
 「なるほど、例えるならこういうこと?」とわかりやすく翻訳して、科学者の見ている世界を来場者に感じてもらう媒介になることだ。そこしかない。

 知りすぎて臨むとその「どちて力」がうまく発揮できないと感じていたので、今回は打ち合わせもほぼ挨拶程度、先生の用意したパワポデータは最後までシークレット、すべてぶっつけ本番で臨んだ。

 もちろん、関連書籍は手にしていた。
 「Shapes 自然が創り出す美しいパターン」などという分厚い本も買ってみた。
 読んだが、翻訳文の独特な文法でさっぱり頭に入らない。意味がとれない。
 「む、いたしかたない。今回はすっぽんぽんで臨むべし」
 大胆すぎる決意である。

 案の定、サイエンスカフェの先生の話し後半最後はさっぱり理解できず。
 ファシリテーターが素で理解不能って、どんなサイエンスカフェだよ。
 前半は新鮮に疑問がむくむく湧いたので、切り込んだりしてみたけど手応えがいまいちだった。


 雨の日曜、疲弊して反すうしてさらに落ち込んでごろごろした。

 がちがちに準備しすぎて失敗し、
 知らなさすぎて失敗した。

 準備は日頃にしておくものだ。準備しすぎてしすぎることはない。
 知識は多くて邪魔ではない。
 
 でも大事なのは、「それはそれとして」 はなれること。
 わくわくと執着しない
 ほったらかす
 その間に、自然と整理整頓されて熟成される。そこは自分を信じること。

 で、当日はまっさらな素で臨むことだ。
 先入観や気負いは感覚を曇らせる。
 お客さんの思いを感じる。
 受け止めて考えて
 瞬間的に入ってきたことを、
 ストックからぽーんと出す。
 
 そこの精度を高めたい。
 どうしたらいいと思う?とオットになんとなく話すと、
 「数。」
 と言った。

 本番が最大の学びかぁ。
 次回サイエンスカフェは1ヶ月後。
 準備、熟成、そして素也で臨みます。

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2012年5月31日 (木)

キャッチーって何?

 先日の「サイエンスカフェ」打ち合わせでのこと。

 広大理学研究科には「広島大学大学院理学研究科附属理学融合教育研究センター」がある。
 漢字多いけど中国語じゃないよ。

 拠点は理学部B107(理学融合教育研究センター室)。
 そこでは毎週火曜日に「ランチタイムチャット」というイベントが開催されている。

 そのランチタイムチャットというのは、「隣の研究室は何をしているのか知らない」がデフォルトだった先生方が、サイエンスカフェで分野を超えて話すことの面白さに開眼され、もっと気楽に、お茶でもしながら話す場を、と立ち上げられた。

 そこはHさんたちの尽力で、ちょっとした心地よいカフェのようだ。
 100円募金箱に放り込むと、それはそれは毎週ゴージャスなランチがたらふくいただける。
 西条という場所柄か、いろんな方が野菜やら採れたてのものを届けてくださるんだそうだ。
 なんて豊かなんでしょう。都心の大学じゃこうはいかないよね。
 
 先生、学生、事務方、それぞれ三々五々集まって、おいしねぇなどと言いながら、話に花を咲かせている。この7月で一周年だそうだ。素晴らしいと思う。

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 ということで、サイエンスカフェの打ち合わせもこのランチタイムチャットになだれ込み、今回はなんとクレープで、おかずのクレープやらデザートのクレープやら、巻き巻きして自席に戻り、打ち合わせから派生したぐだぐだ話をしていた。
 醸華街西条の蔵本「福美人」の仕込み水で水出ししたコーヒがこれがまたまろやかで美味しくて、これをすすりながら話すと最高だ。ほんとに話のクオリティーが何段階か上がると思う。

 で、話をしているといろんな先生方がマグカップ片手にふらっとやってきて話に耳を傾け、わたしのメモ帳を覗き込み(乱筆で恥ずかしい)、ふむふむと興味深く聞いて、ちょっとしたことをいろいろ教えてくださって、ふらっと去って行く。アカデミック〜〜〜。


 その時に出た話のこと。

 サイエンスカフェで、一般の方にいかにわかりやすく話をするか、という流れから、「サイエンス」だとか「ネイチャー」だとかの科学雑誌に論文が載るには、やっぱりタイトルだとか要約文だとかがキャッチーじゃないとだめなんだという話になった。
 
 「だから研究者も研究だけしてればいいってわけじゃなくて、そういう面もちゃんとやらないといけなくなってきてますよねぇ。」
 「ネイチャーなんかも一般の人向けの雑誌だから、やっぱりキャッチーだっていうのは大事なんでしょう。」
 「そもそも全世界から論文が送られてくるんですから、編集者もよっぽど“おっ”と思わないと選びませんよねぇ。」
 「タイトルさえキャッチーなら、内容が多少アレでも掲載されるってこともあるみたいですよ。」


 広告界のアウトローに位置し、多少なりとも「キャッチー」で飯を食っている私としてはそこでなにか気の利いたことを言わねばと思ったが、「キャッチーねぇ・・・」と言ったきり絶句してしまった。

 キャッチーって何だ?

 その短いセンテンスで「へえ」とか「ほお」とか「おもしろい」とか「すてき」とか思わせる、いわゆるキャッチコピーってやつが思い浮かびますね。

 人生の何分の一かを費やしてつかみ取った研究成果も、キャッチーじゃないと無視されるなんて、ずーんと気持ちが重くなった。

 逆に、たいして内容がないものでも、キャッチ−なら受け入れられる。
 わかりやすく、すぐに反応しやすい「あま〜い!」「とろける〜!」みたいなのがマスに受けるのだ。

 そのあたりでずっと苦い思いでいた。

 せっかくいいものなのに、なかなかわかってもらえない、どうしたらいいだろう、もっと良さを伝えるには、というのに知恵をしぼるのが広告の仕事だと思っている。
 でも、羊頭狗肉の広告やものや人も多くて、そういうのがキャッチーで歓心をさらっていくのはなんとも気持ち悪かった。

 「知られなければ、無いも同じなんだよ」と、そういう人たちが事も無げに言うのにも反論できずに唇をかんでるような感じだった。
 キャッチーはつくれる。ノウハウがある。
 でもそんなもんで作ったキラキラなんか、雨が降ったら流れてしまう。


 キャッチーって何なんだろうなぁ。

 それは、「言い当てる」ことなんじゃないのかなぁ。

 研究成果も、「これが超おもろいと思ったのでやってみたらこんなんが出ました、どうだ!」
 という気持ちを、よく言い表せるタイトルがつけられたら、見る人にカーンと共鳴するんだろうと思う。そういうのをキャッチーと言うのだと思う。

 なんだかうまく言えないことを、気持ちよく言い当てられたら、それを言葉にできたら、それが他人にカーンと響く。その瞬間が喜びなんだと思う。誰かに響かされることも、誰かを響かせることも。

 そういうキャッチーな瞬間を日々みんな求めてる。

 そういうキャッチーなら、いくらでもつくりだしたいと願う。

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2011年7月22日 (金)

茶事争論


 先日、広島大学大学院理学研究科附属理学融合教育研究センター主催「ランチタイムチャット 寄りんsci屋」に参加してきました。センター名長っ。じゅげむじゅげむ。

 この「ランチタイムチャット」とは何か。

 ーーーーーー
 理学融合教育研究センターでは、理学研究科の更なる活性化を目指し、教育、研究、連携、
アウトリーチの4つの部門で「異分野融合」と「異分野交流」を推進しています。
 
 教職員・学生の分野を越えた交流の場として、週に1回、以下の予定で理学融合教育研究
センター室(B107)を開放し、ランチタイムチャット「寄りんsci屋」を開始します。
 
 たまには、仕事や研究の手を休め、分野を越えた交流(おゃべり)をしませんか?
良いアイデアが浮かぶかも!?
 
お弁当や飲み物持ち込み、手ぶらの参加ももちろんOKです。
気の向いた時にプラッとお立ち寄り下さい。
 
マグカップ持参者には、100円の募金で美味しいコーヒーが飲めるサービスも始めます。
どうぞ、お気軽にお越し下さい。
 
【日時】 毎週火曜日 12:00-13:30
【場所】 理学部B棟107室(理学融合教育研究センター室) 
 ーーーーーー

 なるほど、お昼の休憩時間に集まって交流しましょうという気軽な会のようです。
 しかしこれ、ものすごい画期的なイベントなんじゃないかと思う。

 広島大学の広報に通い始めたとき、広大の先生方を毎月紹介する「広大人通信」というのを立ち上げた。
 当時の広報室長H先生は、「先生たちは他の先生の事ほとんど知らないんです。もちろん事務の人も先生のことよく知らない。せっかく最先端研究の頭脳が何千人もいるのに、互いに知らないなんてもったいないよね」とおっしゃっていた。
 へーそんなもんなのか、そりゃもったいない、じゃあちょっとずつ「友達のワ」を広げるように紹介していきましょうということで足掛け5年ほど続いたのだった。
 毎回忙しい先生方にアポとって取材に伺った広報スタッフの地道な努力のおかげで、広大の宝がアーカイブされていった。


 理学部も例外ではなく、先生方200名近くいらっしゃるが、会議で顔を合わせるのがせいぜいで、お互いよく知らないしあんまり話しをした事もないのだそうだ。

 この「ランチタイムチャット」のきっかけはやはり「サイエンスカフェ」だったんだろうと思う。

 発起人のT先生はじめ数名の先生が持ち回りで物化生地4分野のスピーカーをコーディネイトする「サイエンスカフェ」、もう次回(7/30)で14回目になるんですね。

 打ち合わせして準備してメールでやり取りしていよいよ当日。みんなで会場設営し、お客さんと一緒に楽しんで、「おつかれさまでした!」の頃にはみんな笑顔になっている。

 スピーカーの先生方も「他の分野の先生方と交流できて楽しかった」「こうして話しをしてみてサイエンスカフェは面白いもんだと思った」と話されます。

 そう、サイエンスカフェは本番も面白いが実は打ち合わせが一番エキサイティングなのだ。
 たまたま居合わせた先生方、例えば生物と地球惑星とか、興味のベクトルが全然違うようでいて、なんかのきっかけに「へー!」っていいながら話しが転がり始めるその様子は、端で見ていても面白いのです。

 そこの部分を再現しようとする試みが「ランチタイムチャット」なのかもしれません。

 で、先日そこにわたしもお招きいただいたんですよ。
 「茶釜背負ってこい」と。
 わ、わかりました。茶でも淹れて場を沸かしましょう。。。

 おそるおそる行ってみると、理学部B棟107室はなんとも居心地のよさそうな部屋だった。
 中央のテーブルにはコーヒーなどの飲み物が用意され、スチーマーで蒸し上がった温野菜まで用意されていた。スタッフのHさん発案。すごいですね。
 Hさんがなにやら土鍋を火にかけている。なんですかそれ。
 「あ、たこ飯なんですよ。ダンナが釣ってきたタコで炊いてみたんですけど」
 スバラスィ。

 「寺本さんこれ使ってくださいね」と、キャスター付き台をお借りする。ポジショニングがよくわからず広い部屋の隅っこに設営。なんか「銀座の母」みたいなあやしい出店のようだ。
 そこに湯沸かしポットやら茶盤やら茶壺やらなんやら並べて湯を沸かしていると、マグカップ片手に次々人が集まってきた。
 
 「学生もいいんですよねー」「どうぞ〜」
 事務の方もお弁当持参で連れ立ってやってきたり、先生方もチャリーンと投げ銭してコーヒーを注ぎ、あちこちで立ち話がはじまったのだった。

 「お茶くださーい」「はーい」
 「お茶はいりましたーどうぞー」「うわー」

 今回は台湾の高山茶を淹れた。花のような清香(チンシャン)が立ち上る。

 お顔は存じ上げてるけど初めて話す先生方も。先生方同士もそんな感じ。

 知ってるか知らないかはべつにどうでもよくて、お茶を渡して「このお茶はですねぇ」と簡単に説明しはじめると近くの人もふむふむと寄ってくる。そういえばうちにも同じようなお茶があるけどどう淹れるの?ウーロン茶って茶色くないのねとか、お茶にまつわる話をひとしきりしてると、ふっとお茶以外の話に転がる瞬間がある。その話の接ぎ穂をそばの人が拾う。新しい話題が広がっていく。

 お茶を淹れてふるまうのは、そういう「話しのきっかけ」「糸口」「呼び水」のためだ。
 もちろん美味しく飲んでいただきたいが、「はーおいしい」とにっこりして心の風通しをよくして準備OKになったら、話しを転がして未知の世界に飛ばしたいと思っている。 

 知らなかった先生同士、顔見知りになって、面白がって、「融合研究」に火がついたりなんかしたらすごいね。

 「ふん、集まって茶飲んで仲良しごっこか?」「それで研究が進むか?書類が仕上がるか?こっちは1分1秒惜しいんだ」とナナメに思われるむきもあろうかと思いますが、わたしはお茶飲んでムダ話しをすることの底力を信じます。

 誰かと話すことは、相手に自分を映すこと。見えなかったことがよく見える。
 話した言葉を自分で聞いて、ああ自分はこう考えていたのかと改めて気づく。
 思いもよらない考え方を聞いて、自分の思考を揺さぶられる。
 ムダ話にはひとつも無駄がありません。たぶん。

 1週間に1度、マグカップ片手に集まるゆるやかな場所があるということはきっと、
 福沢諭吉先生の言う「自由の気風」を育てることになるのでしょう。

 また、茶釜背負って伺いたいと思います。

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2011年6月10日 (金)

広報茶話


 広島大学の広報に通い始めてもうすぐ4年になります。

 広報スタッフのスキルアップを目指し、広告業界の偉い人を招いて話しを伺ったりしたそうですが、いい話しだったなぁ、で終わる。実務と遠い。
 そこで、当時広報室長だったH先生が、スタッフと一緒にいろいろやってみることができる人を探していた、と、ちょうどフリーでふらふら編集とかしていたわたしに白羽の矢が立ったわけです。

 SD(スタッフディベロップメント)=人材育成なんて!
 自分が今まさにディベロップメント中なのに!
 と腰が引けたのですが、なにかまあお役に立てるようなら・・・と伺い始めました。

 初日。土砂降りで大渋滞、はじめての西条は遠かった・・・
 びしょぬれで、くるっくるパーマの、麻のよれよれのシャツ着たおばはんが入ってきたのを見て、スタッフ一同呆然困惑。あの顔忘れられない。「男性か女性かも聞いてなくて、どんなかっこいい人が来るのかと思っていたからびっくりした」と後に言われました(笑)。

 それから、広報制作物を一緒につくったり、なんだかんだで3年。
 スタッフの方々は皆さんとても賢く優秀なので、ほんとにお教えすることなんかないと思う。
 それでも、「外の風」というか、見聞きしてきたことで参考になるならという立ち位置で。

 3年経ち、スタッフの異動もあったり、なにか新しいことしてみようかなと思いたった。

 で、この春から週に1度、「広報茶話」をしています。
 旨い茶を飲みながら話す、そういう1時間なんですけどね。

 どんな話しも一方的に聞くのは苦痛だと思うので、むしろこの時間はスタッフの方にしゃべってほしいと考えて茶話。お茶をすすると「は〜〜〜」なんて、こころもゆるむので。
 寸暇を惜しんで討論したほうがSDっぽいのかもしれませんが、みんなで話す地ならしというか、なんかリラックスしてもらいたいんですよね。職場の同僚同士のコミュニケーションなんていうと大げさですけど、ちょっとした電話の対応、他の人の今の仕事の流れ、そういうのに気が回ってうまく仕事がまわるために大切な「温度」があるように思うのです。

 最初の1、2回はわたしがお題を決めて、ペラ1のレジュメを用意していました。が、楽しい勉強にしたいので、スタッフあみだくじ順に「話し合いたいテーマ」を決めてもらうことにしました。

 皆さんそれぞれ激務で多忙で、その隙間の1時間。つまんない中身だったらさくさく仕事したほうが早く帰れて有意義なのです。なるべく「よかった」にしたい。


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 茶道具をあたため、お茶を淹れます。
 「お茶がはいりましたよ〜」と呼びかけると、みなさん円卓に集まってきます。

 広報の部屋はオープンな場所なので、他部局の方やお客さんが入ってきて目を丸くします。
 なんのお茶会ですか・・・こんなとこで。
 まあまあ、と茶碗をすすめると、ひとときくつろいで帰られます。
 広報って、構成員にお茶淹れたげてあたためる、そういう役目もありますよね。

 今回のお題は「ステークホルダー別の広報」。
 ステークって何?
 辞書引いてたまげましたね、
 stake : 1,くい;棒 2,火刑柱;火あぶり 3,賭け;賭け競馬 4,利害関係
 なんか穏やかじゃありませんね・・・

 ただ単に伝えたい情報の対象者というだけでなく、そのことによって利害が発生する「利害関係者」。
 利ってなんでしょうね、害ってなんだろう。

 なにげなく使っていた言葉ですが、こうひも解いていくと、いろいろわかり、そこで考慮すべきことも見えてくる。面白いですね。

 あっという間の1時間。「楽しい勉強」させてもらいました。
 次回も旨い茶といい話。楽しみです。

 

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2011年2月15日 (火)

他人の俯瞰

 クリエイティブディレクターなんかもういらないんじゃないかなどと思っていたが、そうでもないようだ。

 何度プランを出しても変更になる、何回もプレゼンさせられる、何度も設計変更になる、そういう不毛な現場ではよくクライアントの悪口がささやかれる。
 悪態つきたくなる気持ちもわからなくはないと思っていたが、お客にとっても迷惑な話なんだと今は思う。

 なんで決まらないのか、なんで納得しないのか。

 先日もたまたまそういう現場に遭遇したのだが、提案者はお客のいいなりにプランを変更し、それでもなんか納得いかない客はまた変更を指示し、よりヘンになっていくのになおしつづけるデフレスパイラルに陥っていた。

 そもそも、の話を素直にしたら、その提案者は「寺本さんのおっしゃるとおり!最初からそうご提案してるんですけどねぇ」と言って帰っていった。お客は「決まらんのはまるでわしらのせいみたいですね」と憤慨。
 最初からそうご提案してるんなら、なんでお客の納得を得られないのか。

 お客がそう言うからと、お客様は神様です的にはいはいと服従するのは、逆にお客に失礼だ。

 もっとも根源的な話に、そうバリエーションはない。大事にして、共通認識すべきことはシンプルだ。
 そこを確認しあわないうちから、枝葉のことを話しても決まらないのは当たり前だ。

 そして、その根源的なものは、十中八九お客自体の中にある。
 お客自身は、知りすぎて気づかないことが多い。それが見いだすべき問題。

 クリエイティブディレクターは、他人の俯瞰の視点から、その根源的なものを見つけるのが仕事なんだと改めて思う。問題さえ明らかになれば、解決の方法は幾通りもある。

 たいへんフラットな、「他人の俯瞰」をいつも持っていたい。
 わたしが好きなこと、いいと思うこと、嫌いなこと、そういうものがわたしを形づくっていることは否めないが、それだけでは狭く足りない。
 したがって、わたしはいろんな他人でありたいと思う。
 おっさん、おばはん、少女、おかあさん、青年、、、、

 ・・・おっさんが多めなんですけどね。

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2010年11月11日 (木)

クリエイティブディレクターなんかもういらない

 地元広島の広告会社に入社して最初につくってもらった自分の名刺の肩書きに
 「クリエイティブディレクター」
 とあった。

 意味が分からなかった。クリエイティブを、ディレクションするんですかね。
 まあペーペーの新人にとってそれは、「何でも屋」のかっこいい呼び名であることが後に判明したのだが。

 こういう商品なりサービスなりを世に広く売りたい、そのために世の中の多くの人にそりゃあいいねとバンバン売れるいい知恵はないか、という広告主のお題に答えるのが広告会社・広告代理店の仕事だ。

 会社によってその役職の名称は異なるが、お客さんと直接話をするのがAE(アカウントエグゼクティブ)だったり、AP(アカウントプランナー)だったりする。その人たちとCD(クリエイティブディレクター)やPL(プランナー)が戦略を考え、AD(アートディレクター)、コピーライターなどのスタッフィングをし、チームの意思疎通を活発にし広告キャンペーンを作り世に問うてゆく流れだ。たぶん。
 大きなキャンペーンだとそのスタッフの数も相当多いので、大人数の士気を高め精度を上げてゆくとともに、ほんとにこれで世の中が動くのかと自問自答しなくてはならない。おそらく。

 なんでいいかげんな表現なのかというと、東京あたりの大きな広告会社に入ったことないから知らない。
 読み書き見聞きするなかでは、そのようだ。
 広島の広告代理店でもその様子で、分業制のようだ。

 しかし自分がいた会社はせいぜい6人くらいしかいなくて、全員が営業して企画書いてディレクションして撮影行って編集して媒体出稿して請求書書いていた。イベントの台本書きから入場整理、司会までやった。

 そういう会社で育ったので、スナリは独りになっても同じようなやりかたで仕事をしている。

 しかしここ数年つくづく思うことがある。
 「こういう商品なりサービスなりを世に広く売りたい、そのために世の中の多くの人にそりゃあいいねとバンバン売れるいい知恵はないか、」
 と人に知恵を求めないといけないような商品なりサービスは、だめなんじゃないかと。

 とはいえもどかしいところもあって、ああ中身はすばらしくいいのに、それがどういいのかぜんぜん伝わらないから誰も手に取らないし売れないねぇという商品もたしかにある。

 そういう場合、こういう説明をしてこうわかりやすくすれば、世の中の人のああそれっていいよね!に触れるでしょ、そしたら売れるようになりますね、という解決のお手伝いができる。それがディレクションフィーとして還元されるから飯がくえる。

 しかし、その商品やサービスがほんとうにいいと思い大好きでだから人にもわかってほしいと思う人がその商売をしていれば、たとえダッサいチラシでも売れる。
 そういう例をいくらでも見る。

 朝の本通り、広島夢プラザでは県のあちこちから新鮮でウマいものが並ぶ。おばあちゃんの達筆で段ボールの裏に書かれたPOPはどんなデザインよりも強い。いちばんおいしそうと思わせるデザインとコピーだ。
 尾道のお茶舗もそうだ。昔の茶箱からとった「茶」という字で作った黒い茶缶は渋くてかっこいい。
 店主自らつくる茶袋のデザインやちょっとしたカードもいい。
 お茶の味わいを説明するチラシは、産地を知り茶を知り愛している人じゃないと書けない文章だ。
 ご近所の雑貨屋さんもそうだ。猫のひたいほどの小さなお店なのに、どうしてこんなに文具好きのハートをくすぐるのかというものがたくさんあって、小学生のような気分で眺め飽きない。買った商品を入れる袋までかわいい。
 古いビルをうまく使ったあのカフェも素敵だ。惚れたブランドのカバンを扱い、ちょっとした場所を持ち、そこで「手しごと市」などをひらいて作家さんとお客さんをつなごうとしている。美味しいご飯も食べさせてくれる。
 あの酒屋だって凄い。あのパン屋もいい。あの窯も素敵だ。
 まだまだほかにも、わたしを幸せにしてくれるお店や人はたくさんある。


 これ、全部「小商い」だ。

 売り上げの大小を言うのではない。

 「小商い」の成功は、その店主にかかってる。
 商品やサービスのよさをいちばんわかっていて、どうしたらそのよさが伝わるか試行錯誤していて、ずっと伝え続けている。
 そういう店の店主は自らがクリエイティブディレクターなのだ。
 ちょっとしたものなら自分でつくる、書く。できないことは誰にやってもらったらいいかよく知っている。どうしたいかを伝えて思い通りの世界を作ることができる。
 そういう店主は、誰かに知恵を求めないんだと思う。
 わたしの出番はそこにはない。

 だから思う。クリエイティブディレクターという仕事はもういらないんじゃないかと。

 「大商い」の広告は、東京で誰かがやればいい。
 広告講座の講師を務める、第一線のクリエイターがそこにはいる。
 テレビや新聞でたまに見る、琴線に触れる広告はやっぱり好きだ。
 今日はポッキーの日なんだそうだ。
 斉藤和義がポッキーのCMでポッキーのギターかきならして、「あーなたとたーべたいんだポッキー♪」と歌うのは素晴らしい。せっちゃんかっこいい。ありがとうグリコ。せっちゃんよかったね。だけどポッキーは買って食べない。

 地方の、広島ってとこにいて、しかも、広告業界のアウトでローな場所にいるスナリ。
 自分自身が「小商い」であることを自覚しないといけない。

 で、「小商い」がちゃんと成立するためには、店主自ら勉強し続けるしかないんだと思う。
 だれかの下について勉強できる時代は終わって、だれも教えてくれないのが店主だ。
 勉強なんかしなくたって、いくらでも裸の王様になれる。
 しかし成長を止めれば、ゆるやかに退化して思いがけぬ早い死が待っている。気がつかないうちに。恐ろしいことだ。

 日々のお客さんをよく見ること、話しを聞くことも勉強だろうし、本を読むことも、他の動向を見に行くこともそうだろう。思えば学ぶことだらけなのだ。
 店主である自分もそういう学びはしているつもりだ。
 しかし、一人での学びには限界もあるとも思う。
 籠ってこつこつ本を読むより、お茶を飲みながら人と話す数時間の方が、なんと気づきの多いことか。

 クリエイティブディレクターが、その知恵で、商いを応援する職業なんだとしたら、
 「小商い」の店主にも歓んでもらえるはずだ。
それが、「楽しい勉強」じゃないのか。
 そのあたりに、スナリの存在理由を見てみたいと思うようになってきた。


 




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2010年10月19日 (火)

遊び、研究、仕事、自由

 先日ツイッターのタイムラインにどなたかのRT(リツイート)が流れてきて知ったブログ記事を読んで、はっ!そうかー!と合点がいったことがあった。

 @tatthiyさんの「tate-lab-教育・学習について研究する院生のblog」
 「いいんだけど、面白くない」を超えてー東京糸井重里事務所に行ってきた!
 という記事。

 指導教員の中原先生と一緒に「ほぼ日」東京糸井重里事務所を訪問された様子を書かれているのだが、そこにこうあった。(以下引用)
ーーーー
話を聞いていて、まず率直に思ったのが「研究室と似ている!」ということでした。というのも、やるべき仕事が明確に決まったりするわけではなく自由なのですが、その自由な中で新しい企画を作ることが難しいことであるとか、そのあたりが非常に「研究室っぽい会社」だなあと思いました。社員の方と糸井さんの関係もなんとなく研究室っぽいんですよね。「糸井重里研究室」に訪問したようなかんじでした(笑)
ーーーー

 研究室と似てる。

 そうかー、そうかそうかと勝手に合点がいったのでした。

 以前も紹介したが糸井重里氏がこうつぶやいていた。

「コピーライターは、他所さまの仕事をするので、「しょうが」などいくら興味があってもさわりようがないのです。いまは、しょうがが好きなら、しょうがの企画をやればいいし、しょうがでなにかをつくりだしてもいいわけです。じぶんの欲しいものをつくり、じぶんの興味を育てるのが仕事ですから。」

 これはまさに研究ですよね。

 つまり、クライアントがいないということだ。

 仕事はたいがい、お客さんがいて、そのクライアントニーズを満たすことが大前提だ。じゃないとお金がもらえない。
 広告もそうだ。
 お客さんの製品をいいなと思って買ってもらう手助けをするわけで
 とんがった表現をしがちな若者はよく 
 「アートじゃないんだから」とたしなめられるのだ。

 たしなめられた若者は、上司の無理解と客のバカさに悪態をつくのだが、それはまちがってる。だって、クライアントが最上流にいる仕組みの中で生きてるんだから。

 かねてから、クライアントがいない「研究者」のモチベーションは一体なんなんだろうと不思議だった。
 サイエンスカフェでお話を伺う先生方に聞いてみた。
 「あのー次の研究テーマとかって、どうやって決められるんですか?」
 先生方は
 「なんでって・・・たいがいやりたいことは決まってるよね」とか
 「うーん・・・興味の向く方へ」とか
 っていうかそれ以外なにかあるのかと不思議顔で答えられた。
 当然、誰かに要求されて、という答えはないわけだ。

 しょうがが好きならしょうがの企画をやればいいし、しょうがでなにかをつくりだしてもいいのだ。

 与えられる問題がない。
 問題を自ら探し設定する。

 ほぼ日の研究テーマ(という呼び方はされてないと思うけど)は
 「世の中をあたためる」なんだそうだ。
 しょうがも、ハラマキも、手帳も、マネーも、そこから生まれつながる。

 わたしの仕事も、クリアになってきた。
 広告の、クリエイティブディレクションの仕事はクライアントニーズに応える枠組みの中でのベストをめざす。
 大学の広報の仕事は、8対2くらいで研究色が強い。
 点と点を結びたいとぼんやり考えていることは研究課題だ。

 

 夏目漱石が雑多な面会を週一と定めたため、毎週木曜に漱石の自宅を訪ね集った人々がそこで座談した会を「木曜会」と言ったのだそうだ。
 ケンブリッジ大学のハイテーブルというのは、こう、学生とフェローが食事するハリーポッターに出てくるようなダイニングホールの一段高い席(フェローとゲストが座る)を指すようで、食事しながら、世間話もそこそこに、丁々発止の議論が展開されるイメージ、らしい。
 木曜会、ハイテーブルというキーワードは、茂木健一郎氏のツイートで拝見した。

 どちらも「講演」ではなく「座談」で、お互い発言し合えて議論できる人数。
 これはいいなと思った。

 さっそくこの前、でっかい木のテーブルを知ってる人や知らない人が囲んで、話しはじめる夢(寝床で見る方)を見た。わたしの横には「木曜日の楽しい勉強机」という札が下がっていた。・・・そのまんまじゃ(笑)

 人と人が話しをすること。
 対話によってもたらされる知。
 そこに自分はどう関与してなにを引き出せるか。

 研究テーマは・・・「へー!の共有」  ですかね。

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2010年9月30日 (木)

大盤振る舞いしていいのは誰

 茂木健一郎氏がtwitterでこうつぶやいていた。
 「インターネットにおける振るまいの黄金律とは、「命がけのポトラッチ」と見たり。」

(ポトラッチ=北太平洋沿岸のネイティブ・アメリカンによって行われた、贈与や浪費の応酬。見返りを求めない大盤振る舞い)

 インターネット上で、過剰に贈与せよと。

 著作物で稼いでいる人が、ネット上で出し惜しみせず連続ツイートしたりブログを書いたり、考えの大盤振る舞いをしている。

 氏だけでなく、他にも多くの人がコンテンツに課金なんてケチくさいことを言わずにじゃんじゃん出している。与えている。

 そしてその贈与が、自他ともにもっと大きい利益をもたらしている。
 (利益=¥のみならず)

 オープンマインドが大事です。

 が、大盤振る舞いとひと言でいったことがよく分からなくなるようなできごとに遭遇した。

 市が主催のあるイベントに参加したときのこと。

 講師の先生を存じ上げているので、申し込んで参加したのだった。

 開催時刻ギリギリに到着すると、司会の方が話しはじめていた。受付を済ませて座るところを探していると、先生の話しが始まった。

 と、講師の真ん前で、ノートブックパソコンを開いている男性がいる。

 いやぁ市もUstream配信でもはじめたのかな、やるなー、などと暢気にながめて気にも留めなかったのだが、その男性はイベント関係者ではなく、1参加者だった。

 後に講師の先生は自分がしゃべっている動画がUstreamで録画配信されていることを知りびっくり。(主催者から削除依頼したようで今はもう見られない)

 男性は受付に確認をとったら「参加者の顔が映らないように注意してください」と“許可”を得たとの認識らしい。

 先生にも「急に来られなくなった友人に見せたいので」と了解を得たらしいけど・・・

 これって「知のポトラッチ?」


 話しは変わるが、この夏《抹茶の贅沢スイーツ専門店「茶の環」本店》がオープンした。プレスリリースをし、いろんなメディアが取材してくれ、たくさんの人が来店してくださった。

 で、「茶の環 本店」でなにげに検索してみてびっくり。

 スイーツ大好きブロガーの皆さんの熱い「行ってきました」レポートがずらずらと上がっていたのだった。ありがたや。。。

 店舗入り口、店内の様子、「チャフェ」で頼んだ抹茶パフェ、おみやげに買って帰った抹茶バターケーキを自宅で切り分けて食べるところまでしっかりレポートしている。

 茶の環からなんかインセンティブを受け取ってるわけじゃない。なのになんなんだこの熱意は。

 目新しいお店に行ってきたのよ、

 とってもお洒落ですてきなお店だったのよ、

 そこで食べた抹茶パフェ最高だった、

 そういう体験をして感動をしたのでご報告、

 感動のお裾分け、若干の自慢、すごいものを見つけた自分の手柄をアピール、教えてあげなきゃという使命感・・・

 しかしいずれも「美味しかった!」という言葉が、お金払ってわざわざ行った本人の口から出てるもんだから信憑性がある。その前後の記事を読むと褒めてるだけでもないのでなおさら美味しいのかなと思う。共感したら、行ってみたくなる。


 前出の、イベントをUstreamで配信しちゃった人と、店内や抹茶パフェの写真を撮りまくってブログに書く人と、「いいと思ったことを他の人に伝えたかった」という点で同じ。

 でもなんか違う。

 と考えてたら、前出のUstream配信はねずみ小僧だ、と思った。

 大金持ちから余ってる小判を失敬して、貧乏人の軒先に撒いて歩く「義賊」。

 いやいや、でもそれ泥棒ですから。


 撒くなら自分の金を撒こう。


 大盤振る舞いしていいのは自分のもの。

 あの「美味しかった!」ブログは自分の感想だからいい、のかな。

 とはいえ、店内無言でケータイ構えてピロピロ写真撮りまくるお客さんの多さに店長もとまどい気味。

 「みんなブログに載せるんですかね・・」

 書かれる立場のものは、もう、どうですか!と胸をひらいて、褒められようがクサされようがよいものを提供するしかない。

 ぜったい「美味しかった!」と言わせるように。

 

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