野生の寺本
4月5月、長かったぁ。
いろいろ、なんの苦行かと思うことが続いて、
ここから神は自分になにを学ばせようとしてるのかと悩んだ。
・・・ちょっとオーバーに言いすぎました。
でも、しみじみ課題が見えた。
寺本がひとりでぜんぶやるものは、そこ止まりだけど、
だれかの力を合わせてもらうと、違う世界が見える
それを垣間みたけど
誰かがいいと思ったもので寺本をいじられると
とたんに寺本の生気が失せる
という現実もいくつか見た。
知人に声をかけられて、広告のモデルになった。
いままでも広告モデルならやってるんですよ。
庶民的であたりさわりないおばさんの顔が欲しいとき、
および
プロモデルに頼む予算がない時に気軽に声がかかる。
はいはーい、
自分の容姿存在に著作権とかないと思ってるので好きにしてもらう。
20代未婚だったが、玄関先で調査員と談笑する奥さんを演じた。
子どももいないのに、中学生の息子を待つ母のような
堂々の老け顔っぷりだった。
あるときは「これかぶってください」と言われるままに
髪の毛を全部中に入れる白い帽子をかぶり、
月刊給食という雑誌広告に給食のおばさん役で出演した。
今回は41歳、老後を考える、という役回りだった。
撮影時、スッピンで来いとのことだったのでスッピンで行った。
メイクさんに、20分少々でメイクしてもらった。
ら、白塗り仮面になっていた。
自分の美容に感心が薄いので、シミ、シワ、クスミ、申し訳ないことです。
でもそれを「なかった」ことにするべく左官的に塗り込められて
ああ、加齢は敵なんだ
若さこそ金なんだ
そういう文脈では、わたしは価値ないんだと思った。
だったら、プロのモデルでよかったんじゃないかな。
よかれと思ってメイクしてくださったんだと思うけど、
隠せば隠すほどみっともなくにじみ出る加齢、
この白い顔はきらいだ。
「いいね〜!やさしい顔してる!いいよ!」と
100年分くらい褒められながら撮ってもらった。
「笑って!」と言われたけど、そんな表情は使われないだろうと思った。
広告の肝は「漠然とした老後への不安」なのだから
寺本がすてきに写るための広告でもないし。
未知のことに不安がっても仕方がない
これまで、結婚も、転職も、出産も
やるまえは怖かった
だけど、やってみたらそれなりにそんなもんで
だから未知の老後に不安がるより、
あと20年とか30年をかけて
お金だとか、信頼できる仲間とか、役に立つ技だとか
そういうものをためていけばいいのではないでしょうかー、
とインタビューに答えた。
・・・それじゃあ広告にならないよね、わかるわかる。
掲載されたわたしは、将来を漠然と不安がってぼんやり老け込んでいた。
まあ、このモデルの件は、自分でコントロールできる話じゃないから、それでいいんだけど。
それにしても
ポスターになったり、広告になったりするモデルさんやタレントさんや
インタビューを聞き書きされる著名人や
書いた物を編集されるコラムニストや
作った曲を他人にアレンジされる唄うたいや
書いた本が映画になる小説家や
すごいなあ、と思う。
「なんじゃこりゃあ!!」と戦うのだろうか
まぁそんなもんだろうと流すのだろうか。
自分のものを指一本触れさせない閉鎖性からはなにも産まれないってことはわかってる。
信頼する人と、シェアして、知恵を2倍3倍にして
自分ひとりじゃたどり着けない世界に行きたい。
自分を飼いならされるのでなく、
いきいきと野放しで駆け回りながら、
みんなで新しい世界を見たい。
「あまちゃん」の脚本家のクドカンは
自分の書いた脚本が他人に演出されることを
「いやー、ここでこういうシリアスな曲を流すと面白さが増すのかーとか、自分ではやらないことがいっぱいで面白いですね、面白いから続けられるんでしょうね、自分ひとりじゃこれほど面白くなんないでしょうね」
と言っていた。
「なんじゃこりゃあ!」を越えて、
他の人との化学変化をコントロールできる
大人になりなさい
いま、そういわれているのかと思う。
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