スナリの仕事転々ぐるぐる記

2015年7月30日 (木)

沈めていた怒りを海に流そう

 わたしの何回目かの誕生日の日、国会では「強行採決」が行われた。

 まさか、国土を火の海にしたい首相がいるわけがないと思うのだが
この人が目指してるのは一体なんなのか
戦争法案だ 平和法案だと 
立場が違えば言葉もちがうその中身を
よくよく見て知りたいと耳を澄ましていた。

 あいまいでわかりにくく気持ちが悪い言葉を話す首相もいやだけど、
首相の全人格を否定して醜い言葉でののしる人たちもいやだ。

 注視すべしとアラームが鳴りつづける。

 そうこうしてると、東京オリンピックのメインスタジアムとなる国立競技場について
「現在の計画を白紙に戻し、ゼロベースで見直す決断をした」
と首相が発表した。

 多額の税金を投入するこの建設案への国民の批判に耳を傾けました!
と誇らしげに発表した。

 わたしの中で、得体の知れない「怒り」がわいた。
それは、自分でも意外で、戸惑うほど強い怒りだった。

 そして今日、東京オリンピックのエンブレムがよその国の劇場ロゴのパクリではないかと報じられているのを見た。

 新聞ニュースネット記事、むらがって感想を述べ合う人たち
読めば読むほど、気持ちが悪いほど怒りが強くなっていった。

 のほほんと茶を淹れて暮らしている自分に
まだこんな強い怒りがあったことに驚いたし
自分は一体何に怒っているのだろうと怪しんだ。

 胸に手をあてて考えた。

 競技場の建設のデザイン、コンペを経て、いろんな人が関わってきたはずだ。
コンペに参加して落選したチームもある。
徹夜で仕上げた案が屍になって、報われない思いをした人もいるんだろう。
決まったからには、いろんな人たちがチームになって
今まで仕事をすすめてきたはずだ。
なかには、無責任で無自覚な人もいたかもしれないが
東京オリンピックを華々しく成功させたいと、
調整に奔走してきた人たちの時間と労力もすべて無になった。

生き霊になってとりついてやりたいくらい悔しい思いをしてる人もいるはずだ。

デザインがパクリだとか、こんな大仕事でパクるわけないじゃろが。

偉大な先輩デザイナーが作った過去の東京オリンピックのロゴ
それにデザインで応える、真剣に、全身全霊で生み出したはずだ。

たったひとつのかたちを考え出すのに、生活の全部をつかって、
脳みそから血が出るほど考える
そういう作業が綿々とあったはずだ。

そういうのを

「生牡蠣みたいできらい」とか
「パクリありえない、説明もなくツイッターアカウント削除まじ逃亡」とか
匿名で(生牡蠣発言はおそろしくも元首相だけど)
きがるに
ふみにじって
国のやること反対アベ反対みたいなのにつなげて
ディスるやつらなんか
みんな猫にひかれろ

というのが怒りの元だった。

わたしには関係ない話なのに
心の闇に沈めていて忘れたふりをしていた怒りを呼び覚ましてしまった。
かつてそれで、自分自身が死ぬほど悔しい思いをした
生き霊になって呪ってやりたい思いをした
そこに共鳴したらしい。

こういうのはやっかいだ

政治問題にきちんと向き合って考えて意見を述べている
そういう正当性であっさり容認されてしまう「怒り」だ。
怒っている自分自身をだます怒りだ。

決まった案に文句を言ってるやつもそうだ。
誰からも選ばれてこなかった鬱憤をネット上にばらまいて
怒りを増幅してほくそ笑んでいるのだ。

怒りは
そういうしくみだ
それが、どういう理由をともなって現れるかはあまり重要ではない
ああ、わたしは「怒りたい」んだ。
成仏できなかった怒りを燃やしたいんだ。

そういうものがまだまだ、自分の闇のなかに息をころしていると思うと怖い。

憎しみや
悲しみや
そういうのも
闇のなかで呼ばれるのを待っている。

恐ろしいのは戦争法案じゃなくて
そういう心のしくみなんじゃないかと思う。

アラームが鳴りつづけている。
世の中に耳を澄ましながら、
自分のなかの闇を監視せよ。

今回燃やした怒りは、この夏、海に流してやろうと思う。

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2014年1月24日 (金)

前の席が空いた

 昨年末、ムーンライダーズのかしぶち哲郎さんが亡くなった。
 63歳、あまりに早いお別れだ。
 中学生の頃から憧れていた「大人」だった。

 かっこいい大人の訃報が相次いだような気がする。

 客観的にみればわたしも十分大人、もう中年。
 だけど、いつも年上の大人たちを見ていたから、自分はいつまでもぺーぺー気分でいた。

 社会に出始めのころの、いろんなことを教えてくれたあの大人たちはもう、定年を迎えたり引退されたりしているんだと知る。
 ぴかぴかの仕事で引っ張っていってくれていた方が、人生の仕舞い方を考えている。

 いつの間にか、甲子園球児たちが年下になり
 プロスポーツ選手たちが軒並み年下になった。
 一緒に仕事をする人々も年下が増えてきた。

 なんにも変わらないつもりでいたけど、時間は流れ去っていってるんだな。
 フルスピードで。


 近年ずっと抱えていたボリュームの大きな仕事の手が離れた。
 なんというか、「あ、もう、これで卒業なんだな」と思うタイミングがあった。
 気が済んだ。

 今までもそうだった。

 この仕事一生続くんだろうか、このまま歳とって体力保つのかなんて心配していても、仕事っていうのはある時ぽっかり無くなるもんだ。

 で、ぽっかり空いた穴にぽかーんとしてると、そこにひょいと新しい仕事がはまる。
 ありがたいことに、今まで営業活動もなんにもしないのに、そうやって仕事をいただいて声を掛けてもらってきたのだった。

 だけど、今回のぽっかりはちょっと今までと違うと感じている。

 誰かの仕事を、自分が媒体となって、よりよく伝える
 そういう仕事から離れていくような気がしている。
 いや、どんな仕事をしようとそれは必要な要素でついてまわることなんだけど
 もっと自分が主体とならなくてはいけないと、いわれているような気がする。

 照れ隠しで逃げまわるのはもうやめなさい
 あれもこれも忙しくてという言い訳はやめなさい
 覚悟の川を渡りなさい
 と、いわれている気がする。

 だからこのぽっかり空いた穴に仕事がどこからかやってきてはまるのを待つのではなく
 穴を埋める新しいものを作れと
 そういうステージに進めと
 そんな声が聞こえる。自分の内側から。

 えー
 なんですかそれ
 また荒野じゃないですか

 しょせん野良犬、なれた獣道

 先輩たちが格闘して世界を作った。
 役目を終える先輩がいて
 目の前の席が空いた。
 ひとつ前へ。

 どんな風が吹いてくるのだろう。


 

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2012年9月 5日 (水)

「センター」をつとめる

 かつてわたしは「センター」をつとめた。

 そう、AKBなんかでいうとあっちゃんである。(卒業したけど)

 ・・・うそつきました。
 そういう、女子たちの晴の舞台の中央玉座をつとめた、というのではまるでない。

 会社の「センター」だ。

 もっとわかりやすくいうと、「中継」だ。


 かつて勤めていた会社(のどれかって?一番最初のやつかな)は、社員数5.6人の中小広告会社だった。
 社長がいて、ナンバーツーがいて、ほかに2、3人いて、わたしがいた。
 
 新卒入社したころは、雑用小間使い&経理だった。
 社会の右も左もわからないのを、まあよく雇ってくれたと思う。

 門前の小僧はそれでも耳学問で、なんとか一通りわかるようになった。

 すると、「センター」をつとめざるを得なくなったのだ。

 社長がふらりと出て行く。
 「社長どこいった?」と社員がわたしに聞く。
 「たぶん◇◇じゃないですかね、帰りに○○に寄るとか言ってましたし、今日はもう帰って来ないんじゃないすか。」と答える。
 
 あくまでわたしの推測だ。しかしこれが十中八九当たる。

 「○○君なんて言ってた?」と社長がわたしに聞く。
 「あー、なんか腑に落ちない感じでしたよ。◎◎の案件がまだ片付いてないじゃないですか、あれが頭にあるんじゃないすかね。」と答える。

 口からでまかせだ。でもたぶん当たってる。

 おまえら、直接話をせーよと何度思ったか。
 
 しかし、たった社員数人の社内のディスコミニュケーションは凄まじかった。

 ひとこと、言ったらすむことなのに、
 ちょっと、聞けばすむことなのに、

 なんであんたたち、わたしを通すのよ!

 しかし、直接は話ができないのだった。
 メンツが邪魔して。都合がわるくて。虫の居所がわるくて。時間が無くて。
 直接話すとケンカになった。

 まあそんな会社だから空中分解したんだろうけど、
 そのなかでも、まあよく、なんとか情報を流通させていたよなあと思う。


 そんな大昔のことを思い出したのは、先日の「納涼ビアガーデン女子会」でだった。

 「もう!直接話してくださいよって、何度も言うんですけどねっ!!」

 ああ、ここにも「センター」を嘱望されてる人がいる。

 その腹立ち、めんどくささ、わかります。

 でもさ、それができる人とできない人がいるんだよ、たぶん。

 なんか、できる人だと見込まれてるんだから、
「しょーがないわねっ!」って、話をきいてあげてよ。

 などと話した。


 思い返せば、会社の中の状況を一番把握していたのも「センター」だったからだと思う。
 得た情報を、適切な人に素早くパスする。
 いろいろ複合的にとらえて、ひとつ先の状況が見える。

 フリーで仕事してても、この「センター」的立ち位置は、あんまり変わってねえなあ。

 ほんと、しょうがないよね、と冷たいビールを飲み干した。

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2011年2月 4日 (金)

シューカツ☆ブルース

 新卒学生さんの就職活動のニュースなどを見聞きするたびに、花の女子大生だったころの、自分のシュウカツを思い出していろんな思いがもやもやとこみ上げてくる。

 地元の「お嬢様」女子大ということで、就職率は当時ほぼ100%を誇っていた。
 先輩たちの話しを聞いても、「電話をかけただけで内定って言われた」だの、「説明会でご馳走してもらった」だの、華々しい就職活動を見聞きし、それぞれ有名企業に入社していったので、就職なんかちょろいと思っていた。

 そして、4年生になり就職活動をぼちぼち開始。就職情報誌をめくって、気になる会社に資料請求のハガキを出すところから始まった。なんて暢気な就職活動。
 しかし、スーツを新調し、会社説明会を巡る頃から状況は一変していた。
 採用枠が狭くなったらしい、今年は採用を見送るらしい・・・

 そう、後に「就職氷河期」と呼ばれる時代の幕開けだったのだ。

 7月明けには早々に内定をもらえているはずが、ぜんぜん決まらない。
 どこの会社も選考は2次、3次と進んでいてふりだしに戻れない。
 友達の顔にもはっきりと焦りが浮かびはじめた。

 学校の就職課に求人票を見に行っても、聞いたことがないような中小企業が数社。先生方も必死で、小さい会社の魅力を説いてとにかく受験をすすめた。

 紺色のスーツ、髪をひっつめ、マニキュア落とし、化粧も薄く、
 のっぺりした、たいした美人でもない無個性の女子学生として長蛇の列に並ぶ。
 「弊社を志望する理由は?」
 「御社の将来性に希望を感じ・・・」
 「学生時代にがんばったことはなんですか?」
 「美術部を新規に立ち上げ・・・」
 「あなたのセールスポイントはなんですか?」
 「そうですね、笑顔ですかね・・」

 そのあげくに「今回はご期待に添えない結果となりました。」その繰り返しだ。

 「最近の学生さんは大企業指向で、ミスマッチが・・・」などとしたり顔でしゃべる人を見ると今でもむかつく。

 受験した中小企業の採用担当者にはほんとにひどいやつがたくさんいた。普段お客や上司にされているであろう同じ仕打ちを受験者にしていた。見下した態度、暴言、こんな大人になってたまるか、こんな人間が採用担当してる会社なんか死んでも行くかと思った。悔しかった。

 友人たちも軒並み連戦連敗、あげくの果てに個人の法律事務所の事務職の面接にまで行っていた。そこでの試験が笑わせる。「掃除機をかけるとき、コンセントは上下どちらに差しますか?」 ばかにするにもほどがある。

 求人してる会社に行きたい会社がないのなら、行きたいとこに行けばいいやと破れかぶれで突撃電話をかけた。
 新卒の学生さんは採用してません、という会社も、どこも会って親切に話しを聞かせてくれた。これは意外だった。他の会社を紹介したり教えたりしてくれもした。世の中捨てたもんじゃないかもなと思ったりもした。
 おかげでその業界の内部評価がとてもよくわかった。会社説明会じゃ絶対わからないことだった。

 そして、「うちの社員は全員プロフェッショナルで、自分の給料は自分で稼いでいます。新卒の学生さんを雇って、教育しながら給料を払うつもりはありません」とはっきりと断られた広告会社にどうしても入りたいと思った。
 「先日は会社訪問ありがとう、シューカツがんばってね」と社長がハガキをくれたのを見て、手紙を書いた。

 「どんなプロフェッショナルも、さいしょはみんな素人だったはずです。」

 だから、バイトでもいいからチャンスをくれないか、ひとつ確保した内定を捨ててでも御社で働きたい、と。
 この状況下で内定を蹴るというのは、会社と大学に対する謀反に近い行為だ。そうまでしますぜという、ほぼ脅迫状だ。
 冗談で返事がきた。
 「今度、番組の収録があります。よろしかったら水着でお越しください。」
 真に受けて水着で行った。収録を手伝うこともなく、幼稚園児のような水着姿でプールに浮いて1日が終わった。ほんまに来た、アホちゃうかと社長以下あきれたらしいが、そのタイミングで経理の人が辞め、手が足りなくなって入社が叶ったのだった。

 そうしてわたしのシューカツは終わった。

 考えてみたら、なんのスキルも知識も実力もない学生が、生意気放題だった。
 そんな人間に月々20万もはらうわけだから、会社も人選びは真剣だ。
 新卒の学生を雇って、教育しながら給料を払うつもりはないというのも会社の本音だと思う。

 だけど、学生の唯一の財産は「勘違い」だ。
 こんな大人にはなりたくない、自分はこんなもんじゃない、もっとやれるはずだ、

 そんな自信は仕事をしはじめたら根こそぎつぶされるから大丈夫だ。
 「仕事のキャリアがゼロで無能でダメなわたし」との戦いはまた別の話しだ。

 シューカツで自信を失って、塩かけられた葉っぱみたいになんなよ。
 狭い採用基準の中で、あきらめるなよ。
 どんな手をつかっても、自分がいいと思うものの近くに行くんだ。
 バイトでも丁稚でもかまわない。

 そして、そういうあがきは、シューカツ終わっても一生続くのだ。

 元気のないスーツ姿の若者、人ごとじゃなく思う。
 おばさんもまだ、あがいてますから、がんばってください。
 若い分、傷の治りは、はやいので。


 

 
 

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2010年9月21日 (火)

Sunariの正体

 ツイッターをはじめたとき、「自己紹介」欄があって困った。
 「楽しい勉強をしています」とだけ書いた。

 自分が何者か名付けられなくて、まあ、べつにそんな必要もないやと開き直っていたのだが、先日ある方に
「読ませる側としては、素性をはっきりさせておくことが大事なのではないかと思いました。寺本さんはいいこと書いてますが、素性をかくことでもっとフォロワーが広がるのでは」
 とアドバイスをいただいた。

 Sunariの素性か。

 ということで書いたのがこれ。

 

「楽しい勉強」をしています。 お仕事はクリエイティブディレクター、サイエンスカフェのファシリテーター、ライターなど。日本茶インストラクター、中国茶アドバイザー。茶飲み話、温泉、海辺でビール、木陰で昼寝が生き甲斐。小学1年男児のハハ。」

 そしたら、

ーーーーーー

 寺本さん自身が以前、こう言ってます。
-----------------------------
ツイッターは個人がつぶやく場ですから、「思い」が価値です。
-----------------------------


また、今年の最初のブログでは
-----------------------------
今やりたいことは
知ること、わかること、それで新しい喜びを獲得すること、
それがよい感情を生み、充実した暮しになり、よい社会になること。
そのための力になりたい。
-----------------------------

なので、
-------------------------------
自己紹介 「楽しい勉強」をしています。お仕事はクリエイティブディレクター、サイエンスカフェのファシリテーター、ライターなど。
-------------------------------
の後に、

「点と点を線で結ぶ仕事がしたいと思っています」とストレートに「思い」を書けばいいんじゃないですか?

 まだまだ抽象的ですが、読者に、より何かが伝わると思います。


ーーーーーー

と。スナリのことをずいぶん認めて目をかけてくださる方なので、そうかなと受け止めた。

 人のことはああだこうだ言えるのに、自分をプロデュースするこっ恥ずかしさと難しさで脂汗が出ます。

Sunariは、「楽しい勉強」をしています。
お仕事はクリエイティブディレクター、サイエンスカフェのファシリテーター、ライターなど。
点と点を線で結ぶ仕事がしたいと思っています。
日本茶インストラクター、中国茶アドバイザー。
茶飲み話、温泉、海辺でビール、木陰で昼寝が生き甲斐。
小学1年男児のハハ。


 点と点を線で結ぶということ。

 広告主とお客さん
 科学者と市民
 知ってる人と知りたい人

 一杯の茶が結ぶ人と人

 WEBか雑誌か広告かトークイベントか、その場はいろいろ、手段はなんだってかまわない。
 ムダ話こそ宝の山だ。

 そこに発生する新しい世界を目をひんむいて見たい。
 生きててよかったと思える瞬間を。

 全開の胸で行こう。    2010.9.21 Sunari


 

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2010年6月29日 (火)

転がる石

 この日曜、日本茶インストラクター初任者講習会に参加してきた。場所は京都・京大会館。朝7:30の新幹線に飛び乗り、JR、けいはんと乗り継いで到着。

 先日、友人に
 「しかしよくそうやっていろんなとこに行くよね。そのフットワークの軽さはどこからくるの?だって、子供がいるからとか、忙しいからとか、交通費もったいないとか、行かない理由はいくらでもあるじゃない。」

 うーん、なんでだろうねぇ。
 そんなこと考えたこともなかったので考えてみた。

 初めて勤めた広告会社で、若かりしころのわたしは気難しく内気だった(ほんとですってば)。
 若いから経験もなく、自信もなく、どうせできっこないと思っていた。
 なので、「やってみる?」と声をかけられたこと・・・仕事はもちろん社員の結婚式2次会の司会まで、「できません!」ときっぱり断っていたのだった。
 しないから当然できるようにもならないわけで、若いんだから多少失敗してもデヘヘで済まされた旬の時期を、むざむざ自分から手放したのだった。今考えたらアホである。

 宝のようなチャンスを自ら拒否し、鬱屈した日々を送った20代後半。
 長かったなぁ。いつか幸福の足音が聞こえてくるのではないかとただ耳を澄ませていた日々だった。
 そんな都合のいいハナシが歩いてくるわけはないのである、そう気がつきはじめたころから、突発的に事件が起こりはじめる。

 結婚。これ逃すと後がないと思った。
 会社の解散。ひえー。内乱による下克上、不当な扱いを受けていた社員たちが一致団結し経営者にもの申すのは痛快だった。会社は休眠、解散、一同社長に連れられて新しい会社に移った。
 まあしかし、どんなにひどい経営者でも社会的制裁を受けることもなく、すぐに新しい社名で再興し、われわれ無力さを噛み締めたのだった。
 闘う相手を失った社員たちのモチベーションは落ちた。
 倦んだ日々、
 そっから抜け出したくて出産、仕事復帰、ストレス倍増、保育園に通いはじめた息子が入院。

 ここで冷水をぶっかけられるように目が覚めた。
 人のせいにして、不満ばかりためてると、そのツケが、弱いもの・息子にいく。
 わたしが精神的に健康でないと息子がやられる。会社辞めた。

 さて、やっとそこから自分の人生を取り戻す過程に移る。
 ほんとにやりたいことはなに?雑誌の編集プロダクションに飛び込んだ。
 結果そこもすぐに辞めることになったが、そこで得たものは大きかった。
 「想像してたものと、自分の目で見たものは、こんなに違う。」

 きっとすごいんだ、と恐れつつ見てみたら「なーんだたいしたことないじゃないか」ということもあれば、見くびっていたのに「うわーすごい!」と背筋がのびることもある。
 どちらかというと、自分以外の人はみんなすごいんだと過分におののいていたので、自分の目で見ることで、すごさ度合いが計れるようになってきた。

 自分の中で基準がだんだん整っていく感じ。

 食べてみたり、飲んでみたり、会ってみたり、読んでみたり、そうやって自分の中を通してみないと、わからない。そんなシンプルな結論に至って今がある。

 

 などと自分史を振り返ってるヒマはないのだ。
 まだまだこれから続きがある。
 何者になるのか、どこに行くのか、自分でもまだ知らないけど、続きがあることはわかっている。
 なので、じゃんじゃん「楽しい勉強」をしたいのだ。

 「日本茶インストラクター初任者講習《インストラクション技術研修》」、その日予定無し、人に教える技術?自分には皆無、これ行っとこう。
 そう考えて行って見てきた。

 結果、知らなかったことがわかったのでよかったですよ。
 その講習とはこういうものだった。

 と書こうと思ったが紙面が尽きた(ウソ)
 続きは次回。

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2009年1月 8日 (木)

新しい年のごあいさつ

Sunari2009_4

あたらしい年がはじまりました。
今年もどうかよろしくおねがいいたします。

昨年は、対話によっていろんなことに気がついたり、思い出したりした一年でした。

スナリとなって今春で3年、
そもそも、スナリとは何者か。
肩書きは何なのか。何屋なのか。
そんなものは何だっていいと思っていました。今も思っています。

しかしそれは説明不足で、何ができる人なのかよくわからないということでもある。わたしをよく知る人が誰かに紹介してくださる時も、「えーと、」と説明に困られる。

仕事のはじまりは、広告会社からでした。
その会社は少数精鋭、すべてのスタッフがクリエイティブもアカウントも行い、広告だけにとどまらず、深夜のベルト番組を企画制作してもいました。
東京でつくったんだろうと思っていたCMをその会社がつくっていると知り、そこで仕事がしたいと入社を希望しました。
しかし、新卒ノンキャリアに給料を払いつつ教育する余裕はないと断られ、アルバイトでもいいからと手紙を送り、ちょうど空いた経理担当のポストなら、ということで入社したのでした。
社会人のマナーもままならないひよっこをよく採用してくれたものです。
経理を担当することで会社や社会の仕組みがなんとなく分かるようになりました。
経理だけで済むはずもなく、雑用はなんでもしました。
いつのまにか社長やスタッフとその仕事の動向に一番詳しくなり、必要な物を過不足なく渡すことができるようになりました。
この頃鍛えられたこの経験は財産だと、今になって思います。
そのうち経理だけでなく、先輩の仕事をフォローするようになり、やがて何社かのクライアントを担当し、広告制作のディレクションや、媒体計画・出稿管理、パブリシティ対応、イベント企画・実行まで広告周りの仕事の端から端までやりました。ハンドマイク片手に群衆を並ばせたり司会したりチラシ配ったり取り立てに行ったり・・・いろんなことやった。

残念ながらその会社は解散となったため(業績不振ではなく)当時の社長につれられて新しい会社に移り、インターネットのサーバー構築、サイト企画制作の仕事に携わるようになります。

ここでの仕事は「通訳」だった。クライアントとシステムエンジニアそれぞれの「言語」が全く通じない、機能しない。その間でやりたいこととできることの擦り合わせをしつつ、最善を目指す仕事でした。

数年して、やってみたいことがあった。
それは広島でいちばんいいなと思う雑誌の編集でした。編集長に手紙で直訴し、加えていただけることになりました。
編集の仕事は、これまでの仕事と全く違うようでいて実はすべて内包していると思いました。カメラマン、ライター、スタッフ、取材先、あらゆる人とよいコミュニケーションをとらなくては前に進めない。とても勉強になりました。

そして、3年前の春、独立してスナリになりました。
スナリはかつての、こういう仕事でできています。

昨年、新たな仕事や試みもありました。
サイエンスカフェのファシリテーターをやらせていただいたり、
お煎茶の美味しさ楽しさを体験していただく「お茶遊び」をやることになったり、
ますます「何屋?」度は増しています。

でも、今はぜんぶ自分の中でつじつまが合っていて、どれも自分の仕事だと思えます。

今やりたいことは
知ること、わかること、それで新しい喜びを獲得すること、
それがよい感情を生み、充実した暮しになり、よい社会になること。
そのための力になりたい。

最近思うことは、誰かの力になったり役に立ったりすることは、
力を持つ人でなくてはできない、ということ。
それに足りる自分であるかと自問します。

ことしもよい力を。

みなさまにとっての1年も、素晴らしいものでありますように。

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