日々

2014年9月13日 (土)

わかることのふしぎ(その1)

 息子が説明する。
「あの、ケモノが出てきて、吹雪の中で、高校生みたいなひとたちが、うおーっていうやつ」
さっぱりわからない。

 よくよく聞くとこれだった(音が出ます)

http://www.youtube.com/watch?v=Re9WQKhMfjo

 カップヌードルがたべたい、という趣旨だった。

 だいぶん前のCMだけど、覚えてる。
 就職氷河期ね。圧迫面接ね。かめばかむほどね。
 SINCE1993
 自分が就職活動をしたその年が、
 はじめてそう名付けられた年だった。

 しかし息子は「就職氷河期」を知らなかった。
 リクルートスーツは制服に見えたらしい。
 腹が減っては戦えないという、このCMの企画意図をまったく理解せず、「ケモノが出てきて、吹雪の中で、高校生みたいなひとたちが、うおーっていうCM」として認知していた。

 体験してないと、理解できないのか。

 育ち盛りハラ減り盛りの高校生たちも、だいたい「ケモノが出てきて、吹雪の中で、スーツ着たひとたちが、うおーっていうCM」として眺めてたのかしら。
 
 自分が経験してないことは、理解できない。

 死んじゃうってどういう感じ?というのが究極で、
 だれも教えてくれる人がいない。
 みんな死んじゃってるから。

 そこまでじゃなくても、
 働くってどういうこと?
 結婚てどうなの?結婚してよかった?
 子ども産んでどうだった?
 肉親を亡くすってどういう感じ?

 知らないと、聞いてみたくなる。
 答えは100人100通り
 経験した人からいくら話を聞いても、
 やっぱりよくわからない。

 だから
 経験済みの人が未経験の人に、
 いくら口を酸っぱくして言ったって
 ほぼ伝わらない
 そう思っておいた方がいいなあ。


 今度、10/10(金)、広島大学理学部の学生さんたちに、講師としてお話しする機会をいただいた。
 生物科学専攻の「社会実践生物学特講」というカリキュラムで、90分間。

 「広く社会で活躍されている方々に幅広い経験等をご講演いただき、生物科学博士課程前期の学生に、専門分野を越えた社会で広く役立つ実践的知識を身につけてほしい」という趣旨だそうだ。

 快諾したものの、後日送られてきた講師一覧を見てひるんだ。
 あきらかに、異生物だ。
 (だから生物学的におもしろいのか?)
 講演テーマも「後悔を少なくする人生の作り方」などとふざけたテーマは他にみあたらない。
 もうすでに後悔。

 学生さんたちに有意義な、実践的知識を教授することなんか無理だ。

 反面教師寺本と呼んでくれ。もうそれしかない。

 なにを話そうか、ぼんやり考えているけれど

 
 
 息子が就職氷河期を理解できなかったように、
 学生さんたちも、
 このおばさんの言うことが理解できないだろう。

 ふーん、けったいなおばさんようしゃべるな、くらいのものだろう。

 だけど、経験者から聞いた話というのは不思議なもので
 それは時限爆弾みたいに作用することがある。

 ああ、あのときあの人が言っていたことって、
 こういうことなのか
 という形で、後日理解される。
 
 それでなんかの役に立つのかは、
 その時になってみないとわからない。

 わたしの話も、耳の底に残ったいくつかが、
 誰かの「ああ!そういうことか」のお役に立てたらいいな。

 今、ちょっと先を歩んでいる人生の先輩である親が
 年をとるってこういうことよ、と、
 こんこんと話して聞かせてくれている。
 ああそう、たいへんねと聞き流しているけれど

 いつか、親をあの世に見送り、ずいぶんたって、
 「ああ、おかあさんが言ってたわ、
 年をとるってこういうことね」と
 わかる日が来るんだろうと思う。

 わかることのタイムラグ。無駄じゃない。愛おしい。
 
 
 

 

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2014年8月 6日 (水)

69年前の母と祖母のこと。

 台風が近づいているせいか、広島はここのところずっと雨。

 8月6日の平和式典の日はたいがい毎年かんかん照り、
 8時15分の黙祷は、ものすごい蝉時雨と青い空に立つ入道雲、というイメージが強い。
 でも明日は雨の中の祈りになるのでしょう。

 今日も広島市内は騒々しかった。

 デモ、街宣車、街頭演説、大きな声があちこちで怒鳴りあって、なにを言ってるかさっぱりわからない。

 毎年のことだから慣れているけど、この日が過ぎるのを、息をひそめるように待つ人も多い。

 母も「この日だけよそから来るんよね」と、うんざりしたように話している。
 黙祷しながら、あの日の朝を思い出すのだろう、明日の朝も。

 母は小学1年生、6歳の時に爆心地から約2.3kmの自宅近くで被爆しました。

 下記の文章は、5年前の夏、これまであまりちゃんと聞いたことがなかった、母が被爆した時のことを改めて聞いて書いたものです。
 おかげさまで母はまだ元気です。
 保育園だった息子も、今は小学5年生です。

 69年前の、広島の、ある女の子のお話。
 小さな記録、母の記憶の一部です。
 


ーーーーーー

 「祖母と母からもらったもの 」


 広島に生まれた私が小学生だったころ、夏になると毎年、「原爆」を知る「平和学習」があった。
 数十年前のあの日、八月六日八時十五分、広島市上空に一発の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして多くの人の命が絶たれた。
 それがどんなに惨い状況だったか、原爆資料館に見学に行ったり、体育館で映画を見たり、被爆者の方に話を聞いたり、調べたことを壁新聞にしたりした。原爆の歌も習って合唱した。

 「うちのお母さん、被爆者だよ」
 「うちのお父さんと、お母さんもだよ」
 友だちには、「被爆二世」がけっこういた。だけどお父さんとお母さんがどこでどんなふうに被爆し、どうして助かったか聞いていた子は少なかったように思う。

 モノクロ写真の、人のかたちをしていない死体や、ひどく焼けただれたからだや、めちゃくちゃに壊れた建物や、焼け野原や、目をつむってもはっきりと浮かんできて、あんな死体がいっぱいあった焼け土の上に今自分はいるんだと思うと、夏は夜ひとりで寝るのが怖かった。

 「たくさんの人々が、水を求めながら亡くなりました」
 「やけどをしていなかったり、後日市内に入った人たちも原爆症になり、亡くなっていきました」
 おばあちゃんもああやって生きたまま焼かれて、お母さんはちっちゃかったはずなのに、どうして死なずにすんだのか、わからない。でも怖くて聞けなかった。

 祖母の顔やからだには、ケロイドが残っていた。半袖Vネックの、服を着ていたところだけが綺麗だった。いつもきちんとお化粧していたけど
 「まひげがのうて描くのがやねこい(眉毛が無くて描くのが大変)」と笑っていた。
 夏に、テレビで原爆のことをやると思い出したように、猿猴橋で被爆したその時の話をしてくれた。

 「橋の欄干にどーんと吹っ飛ばされて叩き付けられたかぁ思うたら、ざざざざーっと反対に引きずられてから」

 時々は涙ぐみながら、身振り手振りで、恐ろしい顔でいろいろ話してくれたんだけど、怖くてよく覚えていない。

 わたしが中学生くらいの時だったか、祖母は脳血栓で倒れ、言葉が不自由になった。
 話したくてもうまくしゃべれないもどかしさで、だけど夏になると感情を振り乱して話そうとしていた。

 「瑠美子(母)にはかわいそうなことをした。あれはちいさいのに、ひとりで、かわいそうなことをした、瑠美子を頼んだで、ようしてやってくれよ」
 おばあちゃんはそればかり私に言うのだった。

 そんな祖母も、十三年前の春に亡くなった。


 やがて私も結婚し、五年前に子どもを生んだ。
 子どもを抱きながら、ああ、ちゃんと聞かなきゃいけないな、とぼんやり思った。
 母は、なぜ助かったのか。
 もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかった。
 この子ももちろん、生まれてこなかった。
 この子に、生まれてきた理由を説明できない。

 だけど、今度は、聞くことで母を傷つけるのではないかと思うと怖くて聞けなかった。
 たった5さいか6さいの小さな女の子が地獄を見たのだ。
 トラウマになっていないはずがない。
 思い出させれば、母の奥底に眠っていた小さな女の子がまた苦しんで、えーんえーんと泣き出すかもしれない。
 このままそっと、眠らせておいてあげたほうがいいのではないか。

 そう迷って、幾度か夏が過ぎた。

 息子が4歳の夏、保育園で「ピカドン」という絵本をよんでもらったという。

 「あ、げんばくどーむ!げんばくがばくはつしたんよね。だれがやったん?」
 「ん?アメリカが落としたんだよ」「どうしてやったん?」「戦争してたからね」
 「だれが悪いん?」

 誰が悪いのだろうか。

 「りゅうのばあちゃんも、原爆にあったんだよ」
 「ばあちゃんもー!? パパちゃんとかーちゃんはどしたん」
 「パパちゃんとかーちゃんは生まれとらんよ。でもばあちゃんが死んどったらかーちゃんもりゅうも産まれとらんのんよ」
 「へー」

 まだ時間の感覚もよく分からない息子には理解しにくいことのようだが、やがて分かるようなったら、ちゃんと説明しないといけないだろう。

 母はまだまだ元気だ。でも母と過ごす夏はあと何度あるのか。
 母に、聞こう。


 実家に遊びにいき、なにげないふりをして
 「ねえ、あの、原爆の時の話、ちゃんと聞いたことなかったんよね。聞かせてくれる?」
 と聞いてみた。

 一瞬、ぎょっとした表情もすぐに隠し
 「ああ、そうよね、あんたも被爆二世じゃけぇ、知っとかんといけんようねぇ」
 と笑った。
 じゃ、今度の土曜、聞きにくるね、と帰った。


 そして土曜日、実家に行く前に寄るところがあった。
 祖母の墓だ。
 祖母に、お母さんにあの日のことを聞きます、と伝えたかった。

 息子を連れて丘の上の墓所に行くと、あれだけ晴れていた空がみるみる暗くなり、雷がごろごろ鳴りだした。
 「わーっ、かーちゃん、かみなりよ!あめがふるよ」
 息子がわくわくしながら怖がる。
 おばあちゃん、怒ってる?
 瑠美子に、思い出させるな、かわいそうなことをするなと。

 急いで墓に行き、掃除をして、線香を手向けて
 「おばあちゃん、お母さんにこれから話を聞きます、許してね」と手を合わせた。
 車に戻ると同時に、大粒の雨がバラバラと落ちはじめた。


 実家へ。
 やってきた孫に目を細めるじいとばあがいて、お茶でも飲みながらなんてことのない話をして、そして、話を切り出した。
 「取材」に徹するために、ノートとボールペンを持つ。
 「ええと、あのときお母さん、何歳だったんだっけ?」

 母は、そうじゃねぇ、六歳よ、広大附属東雲小学校の一年生じゃった、と答えた。

 それから、あの日の朝のことを話しはじめた。


 母・瑠美子は当時六歳、小学一年生だった。
 小学三年生以上は集団疎開で田舎に行っていたが、一年と二年は親元におり、学校も寺子屋みたいに小グループで集まって勉強していたそうだ。
 東蟹屋町(爆心地から約2.3km)の家で、母と、祖母と、祖母の両親と暮らしていた。
 祖母は結婚して母を生んだが、母が三歳のとき離婚して実家に帰っていた。

 昭和二十年八月六日の朝は月曜日だった。
 祖母・タネコ(三十一歳)は、流川に住む叔母「青木のおばさん」がいよいよもう疎開せんにゃあいけんということになり、その引っ越しの手伝いに駆り出され、出かけていった。
 当時県税事務所に勤めていたはずだが、その日は仕事を休んだのだろうか。
 引っ越しの手伝いということもあって、作業着であるモンペの上下を着て、大八車を押して出かけた。
 
 母は、近所の大きなおうちの菜園場で、ワタルくんとコーちゃんと一緒に遊んでいた。

 午前八時十五分、
 原爆炸裂の瞬間を母はよく覚えていないらしい。

 気がつくと、粉のようなものがぱらぱらいっぱい降りかかってきたという。

 一緒に遊んでいたワタルくんのおばあちゃんが、ワタルー、ワタルーと探しに来た。
 あんたぁここにおったんね、家に帰りんさいと母を自宅までつれて帰って来てくれた。

 おばあちゃんのハヤノさん(五十一歳)が「ああルミちゃんどこにおったんね」と出迎えてくれたが、顔や首は血まみれだった。家の仏壇を掃除していて、爆発の衝撃で落ちて来た先祖の遺影のガラスが刺さったのだった。

 しばらくして、おじいちゃんが帰って来た。おじいちゃんはやけども怪我もせず無事だった。勤めていた市役所に行く途中被爆し、電車が止まったので歩いて帰って来たらしい。
 その時間、市役所にもし到着していたら爆死していたかもしれない。
 ハヤノさんにささったガラスを抜いて、血をぬぐった。
 母も気がつけば足首あたりをガラスでざっくり切っていた。水もないので、そのあたりに生えていた「ニラグサ」を揉んで傷口にあて、布を巻いて応急手当てをしてもらった。

 祖母のタネコは広島駅前の猿猴橋の橋の上(爆心地から約1.5Km)で被爆した。

 よく晴れた朝だったが、一瞬ぱらぱらっと雨が降ったらしい。
 それを覚えていた人々は後に、「ありゃあB29がさきに空から油を撒いたんじゃ」とうわさしたという。
 あ、敵機が来たな、それにしても空襲警報が鳴らないし、と思って見ていた次の瞬間、ものすごい爆風に吹っ飛ばされ、欄干に激突し、揺り戻すように逆方向へ吸い寄せられて転がり倒れた。大八車も吹っ飛んでいた。
 そこにうずくまり、どのくらい時間が経ったか分からない。気がつくと、周りはぐちゃぐちゃになっていて、皮膚が焼けただれてお化けのようになった人たちが、みずー、みずー、と言いながら川に飛び込んでいるのが見えた。
 「ああ、瑠美子は」
 家に帰らなくては、しかし、見慣れた建物はほとんど倒壊し、方角も定かではない。遠くに見える二葉山を目印に、東へ東へと歩いて帰った。


 自宅にたどり着いた祖母は、祖母のかたちをほとんどとどめていなかったという。
 着ていたモンペはズタズタになってほとんど裸になっていた。焼け残った布が溶けて垂れ下がった皮膚にひっついていた。
 「柄の白いところだけが焼けて黒いところが残っとった」
 銘仙の着物を解いてつくったモンペの、その柄に見覚えがあったが、それがまさかおかあさんだとは思わなかったという。
 それが、「・・・瑠美子は・・・」と口をきいた。
 ハヤノさんが「あんたぁタネコさんか?ああ、かわいそうにむごいことになって!ああ、どうしよう、あわれなことになって」と半狂乱になっているのをぼーっと見ながら、「これは絶対おかあちゃんじゃない」と思ったそうだ。

 ひとまず家族がみな帰って来た、とにかく逃げんにゃいけん、ということで山へ向かう。
 大八車の荷台に、つぶれた家から布団を引っ張りだしてきて敷き、祖母を寝かせておじいちゃんが引っ張って運んだ。逃げる前、ハヤノさんは裏の防空壕をスコップで掘り、埋めていた通帳や貴重品をみな掘り出して持っていった。

 夕方、温品の小学校にたどり着く。
 母は、タカマガハラの高台から見た市内の様子が忘れられないという。
 「市内が一面真っ赤っかになって燃えとったねぇ」
 
 小学校で救護にあたっていた軍医さんが、たまたまおじいちゃんの知り合いだった。
 それもあって、祖母にたくさんはない薬を特別につけてくれたり、こっそりビタミン剤の注射をしたりしてくれたんだそうだ。
 しかし、「この人はもう死んででしょう、覚悟してください」と言われた。
 学校の校庭は死体の山で、焼いても焼いても間に合わない。

 ハヤノさんは祖母を必死に看病した。近くの農場に行って牛乳を買ってきては朝晩飲ませたり、蠅がたかってわいた蛆をピンセットでつまんだりしていた。祖母はただウンウン唸って生きていた。

 そうこうしているうちに、母の足の傷が膿みだした。
 化膿して、全身吹き出物だらけになった。吹き出物が膿んでどろどろになったが、ろくに薬もなくて、河原で体を洗ってもらうことぐらいしかしてもらえなかった。
 「こりゃあこの子もあぶない」と医者に言われたそうだ。
 「後から考えたら、あれで毒が全部出たんかもしれんね」

 広島の惨状を知って、田舎の親戚が駆けつけてくれた。
 ハヤノさんの従兄弟・ワタリのおじさんが山県郡千代田町のあたりにおり、市内に嫁に行ったのがハヤノさんだけだったので、広島に出てきた親戚の娘がみなハヤノさんの世話になったらしい。
 米や野菜を自転車に乗せて、遠いところから押して歩いて届けてくれたという。
 「これをタネコに食わせてやってくれ」と、二回くらい運んでくれたそうだ。


 そのころ、祖母と離婚し別居していた祖父・「おとうちゃん」が母を迎えにやって来た。
 祖父は商いをしていて、先代から勤めていた職人さんが「世話になっとるけぇぜひ来てくれ」と呉の狩留賀の家に呼んでくれたのだ。
 母を自転車にのせ、歩いて狩留賀まで連れて行ってくれたという。
 そこの家では、ごはんも食べさせてもらいよくしてもらった。しかし、ちいさい母はおばあちゃんとおかあちゃんが恋しくて仕方がなかった。

 なので、こっそり家を抜け出して、温品の小学校まで、ひとりで歩いて帰ったのだった。

 狩留賀の家では瑠美子がおらんようになったと大騒ぎになったそうだ。
 そんなこともおかまいなく、母はひとりでとっとと帰って来た。

 「どこをどうやって帰ったんか覚えてないんじゃけど、えらいじゃろ」
 呉から温品まで、車でも1時間はかかる。6歳の子が歩いて、一体どのくらいかかったのだろう。
 只々、おかあちゃんに会いたい思いが歩かせたのだろうか。


 さて、あの日祖母が引っ越しの手伝いに行く予定だった青木のおばさんはどうなったか。
 流川といえば中心地だ(爆心地から約1Km)。家は全壊し、おばさんは家の下敷きになった。
 助けてー!と叫んでいると、どこかの人が丸太をテコのように使い、がれきを持ち上げてくれて助かったのだそうだ。そのままいたら焼け死んでいただろう。

 その青木のおばさんの親しい人が、牛田の山の上に住んでいた。
 温品の小学校では、ハヤノさんは祖母の看病で手一杯、瑠美子まで面倒見きれない。
 ということで、母はこんどはそこの家に世話になることになった。
 いい人だったが、出されるご飯が赤い実のコーリャンご飯で、それが体に合わなかったのか全身にじんましんが出た。
 もういやだ、
 母はまた脱走した。

 「焼け野原でなーんにもなくてね。荒神陸橋の踏切のとこの線路を渡って帰ったのはよう覚えとる。よう帰ってきた、瑠美子はあれでみな知恵を使い果たしたんじゃゆーてよう言われたもんよ。それにしてもえらいよねぇ、よう帰ったよねぇ」


 知らなかった。
 「焼け野原を歩いて・・・」という話はちょっと聞いたことがあったが、まさか2回も、そんな遠くから脱走して帰って来たなんて。

 母はそこまで一気に話した。
 はっきりと、先を急くように早口で。
 長い年月をかけて、心の傷を飼いならした冷静さと、強さで。


 祖母はそうして、死ななかった。
 傷もだいぶん落ち着き、秋口には東蟹屋町の家に戻ることができたのだった。

 とはいえ、家は半壊し住める状態ではない。近所の、木谷のコウさんという大工さんが、急ごしらえのバラックを建ててくれたそうだ。バラックは雨露をしのげるほどの粗末なもので、冬は隙間から雪が吹き込んできていたのを覚えているという。

 しばらくして、元気だった人々にも症状が出はじめた。

 ハヤノさんにも全身に発疹のような赤斑が出た。近所の人どうし、「わしも出るんで」「ありゃあ原爆症らしいで」と話していた。当時はまだ放射能が原因だということは分からなかった。おじいちゃんは髪がごっそりと抜け、歯茎から出血し、赤班がでた。
 急性の症状が治まった後も、おじいちゃんはいつも胃が悪く、五十五歳の時に胃がんで亡くなった。

 その秋、大きな台風が来て猿猴川が洪水で氾濫し、荷物という荷物がみな流されたこともあった。首のあたりまで水が来て、荷物がぷかぷか浮いていたという。
 その中には母が買ってもらったお雛様もあった。マルタカという玩具店で特注し作ってもらったもので、お内裏様とお雛様の上に宮がついている、いいものだったそうだ。

 そういえば私が小さい頃、毎年お雛様を飾りながら「わたしが買ってもらったお雛様はいいお雛様だったんよ。上品なお顔でね、宮がついててね。原爆でみな無いなったけどね。惜しいことをしたねぇ」と話していたのを覚えている。

 そのお雛様も、飾って楽しくお祝いした家も、なにもかも原爆は壊し奪った。

 その後、2度ほどバラックを建て替え、やっとまともな家を建てたのはずっと後のことだった。

 食べるものを確保するのも大変だった。道ばたの雑草(鉄道草と言っていた)も湯がいて食べた。
 ハヤノさんと母は郊外へヤミ米を買いにいくのだが、検問で見つかりみな没収されたという。
 おばあちゃんが検閲されている間、母は子どもの身軽さで脇をすり抜けて逃げ、米を担いだまま家まで帰り着き、ものすごく褒められたんよと自慢そうに話した。


 そこから、どのように生活を立て直し暮らしてきたのかはよくわからない。
 子どもだった母はよく覚えていないからだ。

 全身大火傷を負った祖母は命を取り止め、回復し、働けるようになり、再婚した。

 「やけどで皮膚がひっついてね、腕がまがったまま伸びんのよ。
  それをあの人は、大きな金だらいに水を入れたものを両手でもって、力任せに腕をのばした。
  自力で腕をまっすぐにしたんよね」

 美人で評判だったという祖母はその顔も身体も焼かれてもとの姿を失った。
 母も残留放射能だらけの焼け野原を歩き回った。

 いくら話を聞いても、想像しても、たぶんぜんぜん足りない。わからない。
 しかし、死んでいてもおかしくなかったのに、よく死なずに生きていてくれたと思う。

 祖母も母もほんとうに強い。つよいつよい人だった。
 そうやってつながれた命がわたしであり、息子なのだ。
 生きていることの有り難さと意味をしみじみ想う。

 (2009年夏記録)

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2013年10月11日 (金)

やりすぎでちょうどいいくらい

 先日、洋菓子をつくる人が、「和菓子にもとても興味あるんです、つくってみたいとも思う。でも、あれだけの伝統がある世界、なかなか・・・」
 と言っていた。

 たしかに和菓子、とくに茶席菓子なんか、あの美しい姿や餡子に何百年も受け継がれたいろんなものがぎゅっと詰まっているようで、新参者がおいそれと手出しできるようなジャンルではないよね。なるほどねー。

 と、言いつつもなんか違和感があった。

 帰宅してしみじみ考えるに、「伝統の前には太刀打ちできない」というのは、もっともらしいけど、ちがうなと思うに至った。

 わたしのお茶のお師匠は、茶事で茶を振舞うだけでなく、自作の菓子や料理を出したいと、茶席菓子や懐石料理の勉強もされている。

 で、お稽古でその恩恵にあずかるというか、「つくってみたの、召し上がれ」とぴかぴかのお菓子を出していただくのだ。わーい。

 それが、ものすごく美味しい。
 
 それは、「お師匠の愛情がこもってるから」とかいう心情的な話ではない。実際旨い。

 豆や砂糖や粉がいいから。小豆を丁寧に炊いて、何度もさらして漉して、手間をかけて作るから。保存や衛生のための添加物が入ってないから。作りたてほやほやをいただくから。

 「こんなの、商売あがったりよ(笑)」

 そう、これを商売にしたら到底割が合わない。

 だけど、伝統の、老舗の、そういうものに太刀打ちするには、「割が合わない」ところでしか勝負できないんじゃないかと思った。

 お菓子の世界だけじゃないと思う。

 なにかに新規参入するならば、「やりすぎ」じゃないと、既存のものに勝てない。

 ・・・・とか書くと、ビジネス書みたいな感じでいやね。


 温泉茶は「あなたサービスしすぎよ!」といつも怒られる。いいお茶で、いいお菓子で、しゃべり過ぎで、やりすぎだ。
 身銭切って、損をして、なんのためにやってるわけ?

 阿呆は儲け方を知らない。

 ただ、やりすぎくらいじゃないと、ちょっとやそっとじゃ、人はこっちを向いてくれないことはたしかだと思うのだ。

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2013年9月20日 (金)

温泉みたいでありたい

 この秋から、温泉茶の「喫茶教室」をはじめようと思う。
 
 「人に淹れてもらったお茶は美味しいわ〜」←これはその通りなんだけど

 「自分で淹れるとどーも美味しくはいらないのよねー」←そんなことありませんてば。

 お茶を美味しく淹れるのなんか、誰でもすぐできます。
 わたしだって、お茶の葉に湯を注いでるだけなんです。
 コツは、「なにを“美味しい”と思うのか」
 ただそれだけなんです。秘伝もくそもございません。

 だから、お教えするというよりは、一緒に「ああ!これうまーい!」と発見する教室にしたいと思っています。

 ということで今あれこれ調べたり考えたりしてるんでございますが(決まりましたらまたお知らせ致しますのでよろしくお願い致します)、気になるブログにぶちあたった。

 県外のとあるお洒落珈琲店のことを書いた個人の方のブログなんだけど、読んで考えさせられた。

 「お洒落ならばそれでいいのか?」と。
 パッケージもお店のHPもお洒落ですてきだ。
 だけど、「彼らはどうも「自分たちによる、自分たちのための商品」を展開しているだけのような感じがする。」と。
 
 似たようなセンスのカフェも増えたが、アラサー以上のおばさんや年寄りがひとりで行くと怪訝な顔をされる、そういうのはいやだ、と。

 アラサー以上のおばはんであるわたしも、なんとなくわかる。
 だけどこの人、なんでこんなに怒ってるのかな。

 排斥された、と感じたから?

 どんなコミュニティにも、「トーン」がある。会社やお店や、類は友を呼ぶとか。

 そのお洒落珈琲店は、店主がお洒落さんで、かっこいいのが好きなんでしょう。そういうのが好きな方がいいね!と集って、それが結果「ある一定のセンスある人だけ選抜」な、敷居の高さを感じさせている、のかな。

 もしかしたらその店主は、アラサー以上のおばさんお断り、なんてちっとも思ってなくて、もっと多くの人に美味しい珈琲を飲んでもらいたい、と思ってるかもしれないのに。
 そうだったら、残念。伝わってない。
 その店主の思いは、わからないけれど。

 身内感で盛り上がってるところに、疎外感を感じながら行くのは誰だっていやだよな。
 異質な自分を感じながら、身内たちにすりよって仲間に入れてもらうの、けっこうしんどい。

 この「身内感」は、知らず知らずできてしまうものなので、やっかいだ。
 しかも、身内感になじんで身を浸すのは心地いい。連帯感とか、わかり合える感とか。
 異質なものは入ってこない方がいい。へんなのは排斥してしまったほうがいい。
 
 ・・・やばいよ。
 細胞だって、外とのやり取りがなくなれば死んでしまうんだぜ。
 生命ってのは、膜があって、そこの内と外が行き来するもの、なんだと聞いたよ。

 寺本は、いくつも会社を辞めてきた。同僚も同期もいない。倍返ししたい相手も見つからない。
 心地よい、所属場所を持たなかったからこそ、
 そういう境界をぶっこわしたいと思うのかもしれない。

 お洒落かお洒落じゃないか、若いか若くないか、持ってるか持たないか、知ってるか知らないか、生きてるか死んでるか・・・・そんなの関係ないぜ。
 
 閉じてないぜ、ウエルカムだぜ、清濁合わせ飲むぜ、
 できてるかどうかわからないけど、そういうことをずっと言い続けたい。
 ユーモアで。


 それを大昔からあたりまえのようにやってるのが、温泉場なんですよ。
 温泉先輩にはまだまだかなわない。


Photo_3


お洒落カフェ風にしてみたが、やはり素材に難がありほのぼのしてしまった例。

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2013年8月 5日 (月)

68年前の祖母と母のこと

 今年もまた8月6日を迎えます。
 
 いま、5日の夜。

 明日の朝、どうなるかなんか誰も知らず
 蒸し暑かった一日の疲れに、眠り込んでいたのでしょう。
 
 6歳だった母も、すやすやと寝ていたのでしょう。

 911も
 阪神大震災も
 東日本大震災も

 その前の日は、明日の災難を知ることなく、ふつうの生活がそこにあった。
 その夜に、みんなをかえしてあげたいと思うことがあります。

 今夜も静かです。
 息子もすやすや眠っています。

 明日、悲しみに命を落とすことがないように
 そう思います。

 この文章は、4年前の夏、これまであまりちゃんと聞いたことがなかった母が被爆した時のことを改めて聞いて書いたものです。
 おかげさまで母はまだ元気です。
 保育園だった息子も、今は小学4年生です。

 68年前の、広島の、ある女の子のお話。
 小さな記録、母の記憶の一部です。
 


ーーーーーー

 「祖母と母からもらったもの 」


 広島に生まれた私が小学生だったころ、夏になると毎年、「原爆」を知る「平和学習」があった。
 数十年前のあの日、八月六日八時十五分、広島市上空に一発の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして多くの人の命が絶たれた。
 それがどんなに惨い状況だったか、原爆資料館に見学に行ったり、体育館で映画を見たり、被爆者の方に話を聞いたり、調べたことを壁新聞にしたりした。原爆の歌も習って合唱した。

 「うちのお母さん、被爆者だよ」
 「うちのお父さんと、お母さんもだよ」
 友だちには、「被爆二世」がけっこういた。だけどお父さんとお母さんがどこでどんなふうに被爆し、どうして助かったか聞いていた子は少なかったように思う。

 モノクロ写真の、人のかたちをしていない死体や、ひどく焼けただれたからだや、めちゃくちゃに壊れた建物や、焼け野原や、目をつむってもはっきりと浮かんできて、あんな死体がいっぱいあった焼け土の上に今自分はいるんだと思うと、夏は夜ひとりで寝るのが怖かった。

 「たくさんの人々が、水を求めながら亡くなりました」
 「やけどをしていなかったり、後日市内に入った人たちも原爆症になり、亡くなっていきました」
 おばあちゃんもああやって生きたまま焼かれて、お母さんはちっちゃかったはずなのに、どうして死なずにすんだのか、わからない。でも怖くて聞けなかった。

 祖母の顔やからだには、ケロイドが残っていた。半袖Vネックの、服を着ていたところだけが綺麗だった。いつもきちんとお化粧していたけど
 「まひげがのうて描くのがやねこい(眉毛が無くて描くのが大変)」と笑っていた。
 夏に、テレビで原爆のことをやると思い出したように、猿猴橋で被爆したその時の話をしてくれた。

 「橋の欄干にどーんと吹っ飛ばされて叩き付けられたかぁ思うたら、ざざざざーっと反対に引きずられてから」

 時々は涙ぐみながら、身振り手振りで、恐ろしい顔でいろいろ話してくれたんだけど、怖くてよく覚えていない。

 わたしが中学生くらいの時だったか、祖母は脳血栓で倒れ、言葉が不自由になった。
 話したくてもうまくしゃべれないもどかしさで、だけど夏になると感情を振り乱して話そうとしていた。

 「瑠美子(母)にはかわいそうなことをした。あれはちいさいのに、ひとりで、かわいそうなことをした、瑠美子を頼んだで、ようしてやってくれよ」
 おばあちゃんはそればかり私に言うのだった。

 そんな祖母も、十三年前の春に亡くなった。


 やがて私も結婚し、五年前に子どもを生んだ。
 子どもを抱きながら、ああ、ちゃんと聞かなきゃいけないな、とぼんやり思った。
 母は、なぜ助かったのか。
 もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかった。
 この子ももちろん、生まれてこなかった。
 この子に、生まれてきた理由を説明できない。

 だけど、今度は、聞くことで母を傷つけるのではないかと思うと怖くて聞けなかった。
 たった5さいか6さいの小さな女の子が地獄を見たのだ。
 トラウマになっていないはずがない。
 思い出させれば、母の奥底に眠っていた小さな女の子がまた苦しんで、えーんえーんと泣き出すかもしれない。
 このままそっと、眠らせておいてあげたほうがいいのではないか。

 そう迷って、幾度か夏が過ぎた。



 息子が4歳の夏、保育園で「ピカドン」という絵本をよんでもらったという。

 「あ、げんばくどーむ!げんばくがばくはつしたんよね。だれがやったん?」
 「ん?アメリカが落としたんだよ」「どうしてやったん?」「戦争してたからね」
 「だれが悪いん?」

 誰が悪いのだろうか。

 「りゅうのばあちゃんも、原爆にあったんだよ」
 「ばあちゃんもー!? パパちゃんとかーちゃんはどしたん」
 「パパちゃんとかーちゃんは生まれとらんよ。でもばあちゃんが死んどったらかーちゃんもりゅうも産まれとらんのんよ」
 「へー」

 まだ時間の感覚もよく分からない息子には理解しにくいことのようだが、やがて分かるようなったら、ちゃんと説明しないといけないだろう。

 母はまだまだ元気だ。でも母と過ごす夏はあと何度あるのか。
 母に、聞こう。


 実家に遊びにいき、なにげないふりをして
 「ねえ、あの、原爆の時の話、ちゃんと聞いたことなかったんよね。聞かせてくれる?」
 と聞いてみた。

 一瞬、ぎょっとした表情もすぐに隠し
 「ああ、そうよね、あんたも被爆二世じゃけぇ、知っとかんといけんようねぇ」
 と笑った。
 じゃ、今度の土曜、聞きにくるね、と帰った。


 そして土曜日、実家に行く前に寄るところがあった。
 祖母の墓だ。
 祖母に、お母さんにあの日のことを聞きます、と伝えたかった。

 息子を連れて丘の上の墓所に行くと、あれだけ晴れていた空がみるみる暗くなり、雷がごろごろ鳴りだした。
 「わーっ、かーちゃん、かみなりよ!あめがふるよ」
 息子がわくわくしながら怖がる。
 おばあちゃん、怒ってる?
 瑠美子に、思い出させるな、かわいそうなことをするなと。

 急いで墓に行き、掃除をして、線香を手向けて
 「おばあちゃん、お母さんにこれから話を聞きます、許してね」と手を合わせた。
 車に戻ると同時に、大粒の雨がバラバラと落ちはじめた。


 実家へ。
 やってきた孫に目を細めるじいとばあがいて、お茶でも飲みながらなんてことのない話をして、そして、話を切り出した。
 「取材」に徹するために、ノートとボールペンを持つ。
 「ええと、あのときお母さん、何歳だったんだっけ?」

 母は、そうじゃねぇ、六歳よ、広大附属東雲小学校の一年生じゃった、と答えた。

 それから、あの日の朝のことを話しはじめた。


 母・瑠美子は当時六歳、小学一年生だった。
 小学三年生以上は集団疎開で田舎に行っていたが、一年と二年は親元におり、学校も寺子屋みたいに小グループで集まって勉強していたそうだ。
 東蟹屋町(爆心地から約2.3km)の家で、母と、祖母と、祖母の両親と暮らしていた。
 祖母は結婚して母を生んだが、母が三歳のとき離婚して実家に帰っていた。

 昭和二十年八月六日の朝は月曜日だった。
 祖母・タネコ(三十一歳)は、流川に住む叔母「青木のおばさん」がいよいよもう疎開せんにゃあいけんということになり、その引っ越しの手伝いに駆り出され、出かけていった。
 当時県税事務所に勤めていたはずだが、その日は仕事を休んだのだろうか。
 引っ越しの手伝いということもあって、作業着であるモンペの上下を着て、大八車を押して出かけた。
 
 母は、近所の大きなおうちの菜園場で、ワタルくんとコーちゃんと一緒に遊んでいた。

 八時十五分、
 原爆炸裂の瞬間を母はよく覚えていないらしい。

 気がつくと、粉のようなものがぱらぱらいっぱい降りかかってきたという。

 一緒に遊んでいたワタルくんのおばあちゃんが、ワタルー、ワタルーと探しに来た。
 あんたぁここにおったんね、家に帰りんさいと母を自宅までつれて帰って来てくれた。

 おばあちゃんのハヤノさん(五十一歳)が「ああルミちゃんどこにおったんね」と出迎えてくれたが、顔や首は血まみれだった。家の仏壇を掃除していて、爆発の衝撃で落ちて来た先祖の遺影のガラスが刺さったのだった。

 しばらくして、おじいちゃんが帰って来た。おじいちゃんはやけども怪我もせず無事だった。勤めていた市役所に行く途中被爆し、電車が止まったので歩いて帰って来たらしい。
 その時間、市役所にもし到着していたら爆死していたかもしれない。
 ハヤノさんにささったガラスを抜いて、血をぬぐった。
 母も気がつけば足首あたりをガラスでざっくり切っていた。水もないので、そのあたりに生えていた「ニラグサ」を揉んで傷口にあて、布を巻いて応急手当てをしてもらった。

 祖母のタネコは広島駅前の猿猴橋の橋の上(爆心地から約1.5Km)で被爆した。

 よく晴れた朝だったが、一瞬ぱらぱらっと雨が降ったらしい。
 それを覚えていた人々は後に、「ありゃあB29がさきに空から油を撒いたんじゃ」とうわさしたという。
 あ、敵機が来たな、それにしても空襲警報が鳴らないし、と思って見ていた次の瞬間、ものすごい爆風に吹っ飛ばされ、欄干に激突し、揺り戻すように逆方向へ吸い寄せられて転がり倒れた。大八車も吹っ飛んでいた。
 そこにうずくまり、どのくらい時間が経ったか分からない。気がつくと、周りはぐちゃぐちゃになっていて、お化けのようになった人たちがみずー、みずー、と言いながら川に飛び込んでいるのが見えた。
 「ああ、瑠美子は」
 家に帰らなくては、しかし、見慣れた建物はほとんど倒壊し、方角も定かではない。遠くに見える二葉山を目印に、東へ東へと歩いて帰った。


 自宅にたどり着いた祖母は、祖母のかたちをほとんどとどめていなかったという。
 着ていたモンペはズタズタになってほとんど裸になっていた。焼け残った布が溶けて垂れ下がった皮膚にひっついていた。
 「柄の白いところだけが焼けて黒いところが残っとった」
 銘仙の着物を解いてつくったモンペの、その柄に覚えがあったが、それがまさかおかあさんだとは思わなかったという。
 それが、「・・・瑠美子は・・・」と口をきいた。
 ハヤノさんが「あんたぁタネコさんか?ああ、かわいそうにむごいことになって!ああ、どうしよう、あわれなことになって」と半狂乱になっているのをぼーっと見ながら、「これは絶対おかあちゃんじゃない」と思ったそうだ。

 ひとまず家族がみな帰って来た、とにかく逃げんにゃいけん、ということで山へ向かう。
 大八車の荷台に、つぶれた家から布団を引っ張りだしてきて敷き、祖母を寝かせておじいちゃんが引っ張って運んだ。逃げる前、ハヤノさんは裏の防空壕をスコップで掘り、埋めていた通帳や貴重品をみな掘り出して持っていった。

 夕方、温品の小学校にたどり着く。
 母は、タカマガハラの高台から見た市内の様子が忘れられないという。
 「市内が一面真っ赤っかになって燃えとったねぇ」
 
 小学校で救護にあたっていた軍医さんが、たまたまおじいちゃんの知り合いだった。
 それもあって、祖母にたくさんはない薬を特別につけてくれたり、こっそりビタミン剤の注射をしたりしてくれたんだそうだ。
 しかし、「この人はもう死んででしょう、覚悟してください」と言われた。
 学校の校庭は死体の山で、焼いても焼いても間に合わない。

 ハヤノさんは祖母を必死に看病した。近くの農場に行って牛乳を買ってきては朝晩飲ませたり、蠅がたかってわいた蛆をピンセットでつまんだりしていた。祖母はただウンウン唸って生きていた。

 そうこうしているうちに、母の足の傷が膿みだした。
 化膿して、全身吹き出物だらけになった。吹き出物が膿んでどろどろになったが、ろくに薬もなくて、河原で体を洗ってもらうことぐらいしかしてもらえなかった。
 「こりゃあこの子もあぶない」と医者に言われたそうだ。
 「後から考えたら、あれで毒が全部出たんかもしれんね」

 広島の惨状を知って、田舎の親戚が駆けつけてくれた。
 ハヤノさんの従兄弟・ワタリのおじさんが山県郡千代田町のあたりにおり、市内に嫁に行ったのがハヤノさんだけだったので、広島に出てきた親戚の娘がみなハヤノさんの世話になったらしい。
 米や野菜を自転車に乗せて、遠いところから押して歩いて届けてくれたという。
 「これをタネコに食わせてやってくれ」と、二回くらい運んでくれたそうだ。


 そのころ、祖母と離婚し別居していた祖父・「おとうちゃん」が母を迎えにやって来た。
 祖父は商いをしていて、先代から勤めていた職人さんが「世話になっとるけぇぜひ来てくれ」と呉の狩留賀の家に呼んでくれたのだ。
 母を自転車にのせ、歩いて狩留賀まで連れて行ってくれたという。
 そこの家では、ごはんも食べさせてもらいよくしてもらった。しかし、ちいさい母はおばあちゃんとおかあちゃんが恋しくて仕方がなかった。

 なので、こっそり家を抜け出して、温品の小学校まで、ひとりで歩いて帰ったのだった。

 狩留賀の家では瑠美子がおらんようになったと大騒ぎになったそうだ。
 そんなこともおかまいなく、母はひとりでとっとと帰って来た。

 「どこをどうやって帰ったんか覚えてないんじゃけど、えらいじゃろ」
 呉から温品まで、車でも1時間はかかる。6歳の子が歩いて、一体どのくらいかかったのだろう。
 只々、おかあちゃんに会いたい思いが歩かせたのだろうか。


 さて、あの日祖母が引っ越しの手伝いに行く予定だった青木のおばさんはどうなったか。
 流川といえば中心地だ(爆心地から約1Km)。家は全壊し、おばさんは家の下敷きになった。
 助けてー!と叫んでいると、どこかの人が丸太をテコのように使い、がれきを持ち上げてくれて助かったのだそうだ。そのままいたら焼け死んでいただろう。

 その青木のおばさんの親しい人が、牛田の山の上に住んでいた。
 温品の小学校では、ハヤノさんは祖母の看病で手一杯、瑠美子まで面倒見きれない。
 ということで、母はこんどはそこの家に世話になることになった。
 いい人だったが、出されるご飯が赤い実のコーリャンご飯で、それが体に合わなかったのか全身にじんましんが出た。
 もういやだ、
 母はまた脱走した。

 「焼け野原でなーんにもなくてね。荒神陸橋の踏切のとこの線路を渡って帰ったのはよう覚えとる。よう帰ってきた、瑠美子はあれでみな知恵を使い果たしたんじゃゆーてよう言われたもんよ。それにしてもえらいよねぇ、よう帰ったよねぇ」


 知らなかった。
 「焼け野原を歩いて・・・」という話はちょっと聞いたことがあったが、まさか2回も、そんな遠くから脱走して帰って来たなんて。

 母はそこまで一気に話した。
 はっきりと、先を急くように早口で。
 長い年月をかけて、心の傷を飼いならした冷静さと、強さで。


 祖母はそうして、死ななかった。
 傷もだいぶん落ち着き、秋口には東蟹屋町の家に戻ることができたのだった。

 とはいえ、家は半壊し住める状態ではない。近所の、木谷のコウさんという大工さんが、急ごしらえのバラックを建ててくれたそうだ。バラックは雨露をしのげるほどの粗末なもので、冬は隙間から雪が吹き込んできていたのを覚えているという。

 しばらくして、元気だった人々にも症状が出はじめた。

 ハヤノさんにも全身に発疹のような赤斑が出た。近所の人どうし、「わしも出るんで」「ありゃあ原爆症らしいで」と話していた。当時はまだ放射能が原因だということは分からなかった。おじいちゃんは髪がごっそりと抜け、歯茎から出血し、赤班がでた。
 急性の症状が治まった後も、おじいちゃんはいつも胃が悪く、五十五歳の時に胃がんで亡くなった。

 その秋、大きな台風が来て猿猴川が洪水で氾濫し、荷物という荷物がみな流されたこともあった。首のあたりまで水が来て、荷物がぷかぷか浮いていたという。
 その中には母が買ってもらったお雛様もあった。マルタカという玩具店で特注し作ってもらったもので、お内裏様とお雛様の上に宮がついている、いいものだったそうだ。

 そういえば私が小さい頃、毎年お雛様を飾りながら「わたしが買ってもらったお雛様はいいお雛様だったんよ。上品なお顔でね、宮がついててね。原爆でみな無いなったけどね。惜しいことをしたねぇ」と話していたのを覚えている。

 そのお雛様も、飾って楽しくお祝いした家も、なにもかも原爆は壊し奪った。

 その後、2度ほどバラックを建て替え、やっとまともな家を建てたのはずっと後のことだった。

 食べるものを確保するのも大変だった。道ばたの雑草も湯がいて食べた。
 ハヤノさんと母は郊外へヤミ米を買いにいくのだが、検問で見つかりみな没収されたという。
 おばあちゃんが検閲されている間、母は子どもの身軽さで脇をすり抜けて逃げ、米を担いだまま家まで帰り着き、ものすごく褒められたんよと自慢そうに話した。


 そこから、どのように生活を立て直し暮らしてきたのかはよくわからない。
 子どもだった母はよく覚えていないからだ。

 全身大火傷を負った祖母は命を取り止め、回復し、働けるようになり、再婚した。

 「やけどで皮膚がひっついてね、腕がまがったまま伸びんのよ。
  それをあの人は、大きな金だらいに水を入れたものを両手でもって、力任せに腕をのばした。
  自力で腕をまっすぐにしたんよね」

 美人で評判だったという祖母はその顔も身体も焼かれてもとの姿を失った。
 母も残留放射能だらけの焼け野原を歩き回った。

 いくら話を聞いても、想像しても、たぶんぜんぜん足りない。わからない。
 しかし、死んでいてもおかしくなかったのに、よく死なずに生きていてくれたと思う。

 祖母も母もほんとうに強い。つよいつよい人だった。
 そうやってつながれた命がわたしであり、息子なのだ。
 生きていることの有り難さと意味をしみじみ想う。

 (2009年夏記録)

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2013年7月 4日 (木)

他人に映して見えることと見えないもの

 「温泉茶」ができた。

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 ことの始まりは、「あー、オリジナルのお茶つくりたいなー」 だった。

 そのいきさつはこちら、「話す温泉 ♨ いい茶だな」公式タンブラーにて詳しく書いております。

 ジェネラルストア84店主・大田さんが「いいですね、やりましょうよ!」と面白がってくれたおかげで、事が運びはじめた。

 パッケージデザイン、うんと素敵にしたいですね! ということで、今をときめく関浦《ムッシュ》通友氏にお願いすることになった。

 3月、尾道の今川玉香園茶舗さんのところに向かう道中、冗談みたいな軽口を開放して、思ってること、考えたこと、こんなのが素敵よねー、ということをずっとみんなでおしゃべりした。

 じゃあ、デビューは6月末。 
 「温泉茶プロジェクト」が走りはじめた。

 パッケージデザインについてのイメージや、どうしたらいいか、それはもう、関浦氏にまかせようと思った。

 でも普段の寺本の仕事はここ。

 デザイナーさんや、カメラマンさんや、コピーライターさんに、お客さんにとってどのようにしたらいちばんいいのかを、確信を持って伝える = ディレクション をするのが寺本の仕事。

 お客さんから概要を聞いてきて、デザイナーさんに伝えて、じゃああとはよろしく、というのでは、まかされた方もたまったもんじゃない。目をつむって玉を投げるようなもんで。的はどこなんだよ。それならディレクターいらない、デザイナーが直接お客と話した方が精度があがる。


 じゃあ、温泉茶もきっちりディレクションしたらどうか。とも思ったけど、これは「お客が自分」な案件だ。もう、おまかせしてみよう。

 そうして、しばし時が流れ、「こんなのどうですか」と見せてもらったら、そこに、

5

 この子たちがいたのだった。

 温泉てぬぐいキャップかぶってる!!!
 自分だったら絶対思いつかなかったなー。

 関浦氏が、わたしを見て聞いて、そこから掘り出したイメージがこれなんだ。
 そっかー。温泉茶って、こうだったんだ。
 新発見だった。

 じつは、このデザイン、完成間近でがらっとトーンが変わった。(バラしてすいません)

 関浦氏が、こつこつ精度を上げる中で、どーんと変えた、その決断にいたる「発見」とか、得た刺激とか、一体なにがそこに作用して、これほどまでに劇的に変えてきたのだろうか。
 関浦氏本人にも、説明がはっきりつかない、ただ「こっちのほうがいいと思った」ということなんだろうけど、すごく面白いなぁと思った。

 
 中身の方も、すばらしい仕事があった。

 煎茶とひとくちに言っても、ものすごいバリエーションがある。
 今川さんのとこのお茶は、何飲んでもうまい。間違いない。
 その上で、寺本がうなるのはどこか、
 静岡と鹿児島の茶を、すこしずつ割合を変えて、目の前で合組(ブレンド)してテイスティングさせてもらった。
 「・・・うまい・・・」

 しかしそこから完成までに、さらに割合塩梅を調整してきた。さっすがプロのプライド。たまらない。


 そうやって、出来上がったのです。「温泉茶」。


 お披露目の日、84店頭で

 「・・・で、寺本さんは、なにをされたんですか?」ときかれた。

 これまで、何度も何度もきかれてきた質問だ。おまえは何者だ?と。

 デザインしたわけじゃない、お茶は尾道で詰めてもらった、
 「いやあ、ああだこうだ、言ってるだけなんですけどね」

 なにをしたか、
 プロたちの中に、温泉茶のイメージを呼びました。
 
・・・・まあ、その場で言えなかったんだけど、そう思った。


 自分のことは案外分かってないんだな、と今回はとても思った。
 だれかに、鏡のように映してみると意外な姿が見えるんだねと思った。


 その反面、他の人や他の事例をいくら見ても聞いても駄目なんだなととも思った。

 いま、わたしのまわりにいる人たちは、それぞれのプロで、親切で、話せばちゃんとこたえてくれる。素晴らしい人々に恵まれていると思う。

 だから、「ねぇ、どうしたらいいと思う?」と甘えたくなるのだが、
 自分の中に答えがないことを、いくら優秀な人に聞いてもたぶん正解はでてこない。


 先日、宇宙ステーションで新曲を録音する斉藤和義を見た。夢で。(また妄想話かよ)
 オーケストラの方々も音合わせをしている。
 録音ブースの中で彼は、ひとり、なんのメロディともつかない音を、ずっとギターを弾いて鳴らしていた。それは、自分の中に鳴っている音を、現実の音にしているような、探しているような、目は開いているけれど、なにも見ていないように自分の深いところに耳を澄ましているようだった。

 あの、「歌うたいのバラッド」を作った時も、自分が作ったんじゃなくて、その曲だけが流れているラジオ局があって、たまたまそこにチューニングを合わせることができて、自分だけが聞けた感じ、と雑誌かなにかで話していた。

 小川洋子さんも、小説を書きながら、書き手の自分がいちばん後ろをおいかけてる感じ、と話していた。物語はすでに存在していて、語られるのを待ってると。

 たぶん、もうこたえはあるんだな。探してるものはあるんだろうな。
 そこにアクセスできるかどうか。


 温泉茶のパッケージをデザインしてくれた関浦氏も、煎茶の合組をしてくれた今川さんも、耳を澄まし目を凝らして、それぞれの深海の底で光ってた、「これ」っていうのを、拾ってきてくれたんだと思う。

 目に見えないものをキャッチして奏でる、スナリもそうありたいと思う。

 


 


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2013年5月21日 (火)

65歳

 この春は、大先輩と飲む機会が多々あった。

 大先輩方は、わたしの年をきいて

 「わかっ!!!」

 と声をそろえて言った。

 40越えまして、そう若くもないと思っていたが、20も30も年上の先輩方から見たらまだまだヒヨッコ、ぴっちぴちらしい。
 
 ある方は
 「小学生にねぇ、君たち、いまからたくさん生きられていいねぇって言ったら、キョトンとしてたよね。まだ、わかんないだろうなぁ。10年後、まだ成人してないんだもんなぁ、彼らは。10年後、もう僕はいないかもしれないのに」
 と言った。

 研究職だったりすると、プロジェクトは10年やそこらのタイムスケールなわけで、自分が生きているうちに見届けられないかもしれないと思うのだそうだ。

 ある人はこうも言った。
 「夢に母親がでてきてね、実家の縁側でうとうとしてたら、風邪引くよ、と毛布をかけてくれるのよ。ずずっと、肩まで。あれ、頭までかけられてたら、わたし、死んでたと思うのよ。母親が迎えに来たんじゃないかと、思ったのよ」

 70を過ぎると、今日死にはしないと思うけど、明日はわからないと思うのよ、とその人は言った。


 先日久しぶりにお目にかかった方がこう打ち明けた。

 「もう決めてたことなんだけど、65になったから、この6月末で店を閉める。若いもんに店は譲る。でも、自分の名前の看板はおろす」

 お店の仕事の他に、海外への展開や他企業へのアドバイスなど、飛び回るように活躍されている方だったのでびっくりした。

 隣で飲んでいた方も

 「わかる! ぼくも! 65。 あと3年。決めてんねん。」

 定年がない仕事の、自分で決めた期限なんだという。

 そんなー
 65歳なんて、まだまだ若いですやん、どうされますの?

 お二人とも仕事を離れて楽隠居、とはこれっぽっちも考えてなかった。

 年をとると、身体もしんどい、気力もついてこん、規模がもう無理やと思うねん、せやけどな、やるべきことに、自分のやるべきことに力を集中したいねん、と言われた。

 そうはいっても、
 あと10年はないかもなぁ


 先輩たちは、人生のお仕舞いを見ている。


 41歳のわたしは、まだ死にはしないと思っている。
 息子は日々刻々と成長し、それを見てるだけで月日が過ぎる。
 あと40年くらいは生きてる気がする。

 長閑な日々。それなりに、存在する理由もあり、忙しく、生きている。

 今日、偶然5年前の自分を見た。録画したビデオの中で笑っていた。
 今より肌のツヤもよく、命のハリがちがうと思った。
 5年分衰えた自分は、5年前の自分よりなにが優れているだろうか。
 息子は漢字が読めるようになった、割り算ができるようになった、
 わたしはなにができるようになっただろうか。
 ぼんやり、5年をただ生きた。
 これからも、それなりに、忙しく、あっという間に5年経つ。
 5年後の自分が、今の自分を見て、まだ若かったと思うだろう。
 どんどん生体は老いていく。ゆるやかに死んでいく。
 5年、10年、飛ぶように過ぎるだろう。
 そして65歳になったとき
 「精一杯やった」と思えるなにかがあるのだろうか。

 今日一日も、もう午後だ。
 午前中にやりたかったことが、ここにこうして引きずっていて
 たぶん明日に先延ばしして
 
 だから「今でしょ!」という言葉が流行るのだろう。

 自分を、ものすごく厳しく、取り締まる力と
 今を刻んでちゃんとリズムと習慣にできる力だけが
 65歳の決断できる大人にするんだと思う。

 「ちょっとだけ余計に生きとるからね」と
 先輩方が、笑って教えてくれたことを、今思う。


 

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2012年12月20日 (木)

頭の中で鳴る言葉

 FBのタイムラインに、編みかけのセーターの画像が登場した。
 その方は編み物作家さんなので、たぶん、市販の編み図なんかは見ずに、ブラインド編み(?)されるんだと思う。
 裾からぐるっとまわって、背中に立ち上がっていく。
 きっと、そのセーターのデザインは、頭の中にもう完成しているのだと思う。

 先日、さしもの家具職人さんと話したときも、
 「完成した形は、つくるまえにもう頭の中にあります。
 それを立体的に、こう、まわしてみたりできます。」
 と言っていた。

 仏像を彫る人なんかも、木の中からそのお姿をとり出して差し上げるんだ、みたいなことを言っていた。

 デザイナーも、頭の中にあるデザインを、パソコンを使って再現するんだと言う。

 武道家は
 「同機が成立するためには同機に先立って同機していなければならない」
 つまり、
 「考える前に考えるんだ」と言う。

 とにかく、熟達したプロたちは、頭の中で一度完成させている。
 頭の中で、「ありありと」完成形を見る
 それができないと、実際にやってもうまくいかないそうだ。

 「すべてのものは2度つくられる」ってことか。
 
 行動しようとする前に、すでに脳は活動していて、それは「意識の原型」と言われるようなものなんだそうだ。
 で、
 「正しい反射をしてくれるか否かは、本人が過去にどれほどよい経験をしてきているかに依存する」
 らしい。(池谷佑司『脳には妙なクセがある』より)

 よい経験かぁ。


 自分の中に「よい経験」
 基準となる、理想となる、美しいもの、美味しいもの、それをサンプルとして備えておいて、そこに近づくように、「よい経験」に照らし合わせて、自分の身体で調整していくんだな。
 その繰り返しで、うまくなる。
 
 なるほど。

 ギターを弾く人は、きっと頭の中で鳴ってるよい音を、弦を弾いて探してるんだと思う。

 今年ウクレレを買って、生まれてはじめて弦をならしてみた。
 楽器の胴を伝って身体に音が響いてくるのをはじめて感じた。
 それは、聞いていただけじゃわからない、生々しい体験だった。
 そしたら、ギターを弾くのを見る感覚が今までとはちがっていた。
 ほんの少し、寄り添う感じ。
 でもまだタブ譜とコード表がないと弾けません。

 息子なんかは、ぜんぜん譜面なんか見ないんだよな。
 耳で聞いた音を、指で探してじゃかじゃか鳴らす。
 そして、かーちゃんなんかより上達がはやい。


 しかしわたしは、次に編み物に手を出そうとしている。
 ウクレレもろくに弾けないのに、だ。
 編み棒を持つのは高校生以来だ。
 
 なんか、たしかに手元に残るものを生み出してみたかった。
 こつこつと、手を動かすなにかがしたかった。
 当然、作り目から忘れてる。本を買った。毛糸は土曜に届く。
 上手にできなくてもいい、わくわくする。

 ひとつのことをとにかく極めていけない性分なので、
 だったらひとつでも多く、自分の手でやってみたいと思う。
 どれひとつ熟達はしないかもしれないけど、やってみたい。
 やらないとわからないことが、世の中にはまだまだたくさんある。

 やってみたことが、「よい経験」になる。
 それはとっさに、言葉となってわたしを助ける。

 編み物したら、頭の中で、どんな言葉が鳴るのだろうか。

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2012年12月12日 (水)

さよなら時代

 あの「料理の鉄人」がまた復活した。
 「料理の鉄人」とはwikiによると、1993年10月10日から1999年9月24日までフジテレビで放送されていた料理をテーマとしたバラエティ番組、である。
 
 タイトルも「アイアンシェフ」となり、主宰も「アーレキュイジーヌ」もいろいろ変わったわけだが、13年ぶりにレギュラー番組として復活したのだそうだ。

 おお、復活かぁ、と楽しみに見てみた。

 登場する人物だとか、ナレーターだとか、前と違うことはいろいろある。
 それはそうだ。
 それがいいとか悪いとか、そういうのはどっちでもよかったが、
 見ていて、なんかちょっと気分が悪くなった。

 なんでだろう。

 「料理の鉄人」毎週見てたなぁ。
 わくわくして、舌なめずりして楽しみに見てた。

 そのころはまだ実家におり、父も生きていた。
 「うわー、うまそう〜」「こりゃ今回は挑戦者じゃね」「いややっぱり鉄人だろう」などと盛り上がりながら見ていた。

 たまに広島のホテルのスペシャルディナーショーにも坂井シェフや陳さんなどがやってきたりなんかして、家族で行き、「さすがに鉄人の料理はうまい」と、父もうれしそうに食べていた。

 究極の食材を、贅沢に、ゴージャスな料理に仕立てる様子は憧れたし、ちょっとがんばってお金を出せば、その憧れの味も体験できた。
 
 がんばれば、もっと上に行ける
 バブルはもうはじけていたはずだけど、まだ、そういう感じはあった。


 それが、今は、そうじゃなくなったんだなぁと思う。

 父は家族のために、会社のために、よく働いた。
 若い頃はずいぶん苦労もしたそうだが、わたしは不自由なく育ててもらった。
 年々、仕事に見合う地位と収入を得て、定年後も仕事をし続け、
 やっと母とゆっくり、と思った矢先に病を得て亡くなった。

 わたしは父とちがい、会社から逃げて自営となった。
 今年の年収が、来年もっと増えるとは限らない、
 それどころか、来月がどうなるかわからない仕事をしている。
 年々出世するわけでもなく、
 トシとって衰えていくものを、どう価値ある能力とトレードしていくかばかりを切々と考えている。

 まあ、そういう社会のアウトローが世間を語る資格もないのだけど、
 今のご時世、正社員だって「がんばれば、もっと上に行ける」かどうかわかんないんじゃないですかね。


 それにさ、ざーーっと海があふれて、たくさん亡くなって、命あった人も、家もなにもかも失って、水が足りません、食べ物が足りません、毛布が足りません、って毎日聞いていた、あのころからまだ2年も経っていないのだ。
 今だって、仮の住まいで冬を迎え、仕事も、暮しも、ぎりぎりとしながらなんとかやっている人たちがたくさんいるはずだ。
 そんな人たちに、こんな番組見せますか。
 忘れ過ぎですよね。

 金にあかせてきらきらと積み上げた高級食材を、湯水のように使う料理番組、
 見ていてもう、胸がいっぱいになった。
 食べてもないのに食あたり。


 また別の番組なんだが(わたしテレビよく見てますね)
 ユーミンのデビュー40年を振り返る番組を見た。
 
 青春や恋がユーミンとジャストミートするのは、わたしより少し上の世代なのかなぁ。
 でも、いろんな番組の主題歌にもなったし、テレビでもラジオでもヒット曲として流れていたし、恋人はサンタクロースなのかと妄想し、わたしはスキーに連れて行ってほしかった。(いずれも実現せず)

 ユーミンが水着で、ソバージュの髪を振り乱して歌っていた。
 スキーウエアを着て、雪の中で歌っていた。
 宙吊りで歌っていた。
 ユーミンが歌うその回りを、人魚が水を跳ね上げて踊っていた。
 どんどん仕掛けが巨大になり、
 ぴかーーーーっと、どかーーーーんと、
 とんでもないスペクタクルなステージで、ユーミンは歌っていた。

 その光りに目をくらましながら、みんな熱狂したんだろうな。

 原発でつくった電気をめいっぱいつかって、
 とんでもない額のお金が動いたんだろうな。

 儲かった思い出は忘れられなくて、
 売れ続けなくては、売り続けなくては、もっともっと、刺激的に、
 もっともっと、どんどん、大きく、高く、伸びていって、
 そうしないと死んじゃう
 原発停めたら死んじゃう
 そう思っている人も、少なからずいるんだろう。

 でも、もういいです。
 もう、いいです。

 ギラギラとした、そういう時代は、アーカイブして
 もう、次にいこう。

 ていねいにつくった一杯のあたたかいスープを、ゆっくり飲むような
 そっと弾いたギターの音に、耳をすますような
 しずかに、歌いはじめるような
 その声に、どこかからハーモニーが重なってくるような
 そういう豊かさにしたい。

 そういう文化をつくるのが、たぶん私たちの今からの仕事なのだろう。
 
 時代をつくって、育ててくれた方々の背中を見送りつつ、
 残ったもので幸せにやっていく知恵を
 若い人や子どもに伝えられるか。

 あんがい、大仕事となりそうだ。
 力を貸してくれますよね。


 
 
 

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2012年11月 2日 (金)

よいよい

 春先も新年度やら新学期やらありますけど、秋もいろいろありますね。
 9月・10月末をもちまして、という話をいろいろ聞いた。
 秋だから、余計さみすぃい。

 お別れは、始まりでもあるので、お祝いであります。

 先日、お世話になってる会社の若い娘さんの送別会に伺った。
 送別会というより、送別の宴というか、しみじみ3人で飲んだ。

 気だての良い、かつ、仕事のできる娘さんだったので、
 そこのボスも「いつでも帰っておいでー」ばっかり言ってた。
 わかるよ、未練。

 なんというか、さみしいけど、おめでたいし、
 これから新しい生活に向う彼女に
 なにか役に立つようなことを、言いたいような気がしたのだが、
 うまく言葉にならず、
 さみしさを薄めるようにぺらぺらしゃべっては、
 となりのボスと酒をあおっていた。

 お酒の飲めない彼女はこれまた聞き上手で、
 今までのこと、いろんなこと、
 思い出し出し、話すことになった。

「寺本さんって、わたしのまわりに、だーれもいないタイプなんです」
「あー、世の中の アウト ロー・・・(このへん)だからねぇ」

 内角高めを目指したはずが、
 いつのまにか日陰で息をして
 忘れていたような、べつにたいしたこともない話、
 今の寺本に至った話、
 酔いにまかせて
 おもしろおかしくはしゃべったが、
 ほんとにどうでもいいことばっかりだ。


 かつてわたしも若かったころ、
 いろんな先輩に飲みに連れて行ってもらった。
 べつにわたしに言って聞かせようとしたことじゃない、
 大人同士で飛び交う会話を
 テニスの試合を見るように
 よくわからないけどふーんと聞いていた、
 あれがずいぶん、見えない肥やしになっていると思う。

 だから今でも、年上でも、年下でも、
 人の話をふーんと聞くのが好きだ。
 

 だけど、大人たちは、いろんな呪文をわたしにかけもした。

 「しおりちゃんは、30歳過ぎるまでだめじゃね、
 30過ぎてから、ようやくわかるんじゃない?」
 
 「もっとあつかましく生きないと、損しちゃうよ」

 「ぜんぜん期待してないからね」 ・・・

 どういうつもりでアドバイスしてくれたのかわからないけど、
 素直な耳をしていたあのころは、その言葉の呪縛にすくんだ。

 あのころの大人たちと同じくらいのトシになり、
 そういう不用意な言葉を、若いもんに投げつけたりしたくないと思う。

 話を聞かれる気恥ずかしさは、
 自分の至らなさのせいだけど、
 えらそうに、
 時限爆弾みたいな言葉は、しゃべりたくない。

 
 彼女から
 「ありがとうございました。また、いろいろ楽しいお話きかせてください。」
 とメッセージをもらったので、
 「酒にまかせて、年少の方にくだらない話をしたと、酔い覚めに反省しきりです。
おっさんらの言うことは聞き流して、さわやかに前進してください。」
 と返事をした。


 ちょっと先をあるく人の話は、面白いかもしれないけど、役に立つとは限らないよ、くらいの感じで話につきあってもらえるんなら、また旨い茶でもすすりながら、笑い話をしましょうね。

 

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