瀬戸内生活工芸祭を見てきた
11/23,24と四国高松で開催された
「瀬戸内生活工芸祭2012」を見に行ってきました。
全国から公募で選ばれた87組の工芸作家さんが、玉藻公園にブースを出店販売。
有名作家などの選考委員によるブースも並び、香川県のうまいもんと音楽が楽しめるマルシェもオープン。
公園内の披雲閣と、フェリーに乗って約20分で行き来できる女木島では、5人の招待作家による「生活工芸5つのかたち」の展示も行われていた。
こういうクラフト展に来るのは初めて。
心がけたことは、「事前にいろいろ調べまい」ということだった。
作家さんの今までの作品や活動といったバックグラウンドを知れば、興味も湧くしもっと知りたくなる。
が、それが心を曇らせることもある。
なんせ広大な敷地にずらーっとブースが並んでる。
とにかく端から、
ただ見て、触って、
いいか、好きかだけ自分に問うように見ていった。
「作家たちは、工房でコツコツと手を動かして、
1年を過ごします。
だから、ひとつのお椀を手に取ることは、
作り手の1年と出会うこと。」(パンフレットの言葉より)
そうですね、作家さんたちは、自分がいいと思うものを丹誠込めて作るんだ。
だから、1軒1軒、真剣に見た。
わたしにはよいと思えないもの、素敵と思うもの、
その感じ方は万人で違う。
大勢の人たちがブースを回り、手にとり、作家さんと話し、歓声をあげ、頷き、
ほんとにお祭りだと思った。
作家さんも、遠来の、なじみの、はじめての、いろんなお客さんと話をしたり、知り合い同士で差し入れをしたり、お祭りを楽しんでおられるようだった。
あ、いいなと思うものに「売れるなよ」と念を送り、
ひとまず会場をぐるっとまわり、戻ってみるともう売れちゃってたものもたくさんあった。
そういうのとは、ご縁がなかったのよね。
ご縁があって、待っていてくれた子をいくつかつれて帰った。げっしっし。
■
小雨そぼふる会場に、ひときわ異様なひとだかりがあった。
なになに?ぜんぜん見えない。
そこは選考委員ブースで、
あの「ミナ ペルホネン」のグッズ販売コーナーだった。
しかも、皆川明氏ご本人が、そこで自ら手売りされていたのであった。
みんな声には出さないけど、「きゃ〜〜〜〜!」と黄色い声がしていた。
群衆の頭上にはちょうちょが乱舞していた(ように見えました)
人ごみをかき分けようとしたが熱意が足らず商品見れず。
皆川氏から買った商品を受け取るお客さんはみな、少女のように上気したいいお顔だった。
なんというか、ライブだった。
ミナー!ミナー!という歓声に応えるように、皆川氏は輝くような笑顔で殺到するお客さんに商品を手渡し続けていた。
まさに、服飾アイドル。
そりゃお客さんはうれしいよねぇ。
十分に、自分の作品や自分を好きな人がいると分かり、自信があり、それに応えることができるアイドルのありようは、正しいと思った。
それにひきかえ、というとおこられそうだけど、
著名な作家さんの中には、とっても所在なさそうな方もいらした。
あ!○○さんだ、と来場者はみなぴーんとわかる。
が、「○○さんですよね!」キャー、と話しかける人はあんまりいない。
気づいていながら、遠巻きにちらちら見て、とくに話しかけない。
恐れ多くて、なにを話したらいいのか分からないって感じだろうか。
あれ?なんで俺に気づかないわけ?話しかけないわけ?
と思ってらっしゃるかどうかは存じ上げないが、
プライドとさみしさと照れとめんどくささがないまぜになったような、
無愛想な大人を見るのはせつない。
自信のなさと凶暴な自意識があばれ、そういうものを必死に押さえつけるような沈黙が似合うのはせいぜい20代くらいまでじゃないだろうか。
なんか、中年はほがらかであるべきだ。
ただでさえ、肌は衰え、無表情ぎみになり、ホウレイ線や眉間のしわが深く刻まれた顔は険しい。
それを豊かに変えてみせるのは
笑顔や愛想じゃないかと思う。自戒をこめて強く思う。
いや、作家は語る必要なんかない、作品が語るのだ、
というご意見もあろうかと思う。
どっちだっていい。
ただ、多くのブースを巡り作品を手にとり、一番印象に残ったのは作家さんのたたずまいやお人柄だった。わたしは、そういうところを見ていた。
雨がばらばらと降りだし、あわてて作品を雨のあたらないところに動かす方が多い中、
降るならふれ、濡れればぬれろ、それが器だ、とばかりにほったらかし、
奥でおにぎりを頬張っておられた作家さんはかっこよかった。
雨にぬれた器は野性を取り戻し、美しかった。
ベーシストは曲のベースラインをなぞるように聞くらしい。
鍛冶屋さんは溶接部分に目を凝らし、
木工作家さんは木肌をなでるだろう。
それぞれの見たいものを見る、それが参加した人たちのご褒美なのでしょう。
■
ある作家さんの白木の重箱の蓋をとってもらうと中が黒漆だった。
美しかった。
「この木は使い込むと灰色に変わっていくんです。
買ってもらったお客さんに、10年後に見せてもらいたいなぁ、と思うんです。」
作家さんは、嫁に行ったあとの自分の作品を想うのだなぁ。
どう使われ、どうなっているのか、
大切に使われていけば、人より長生きして時代を超えていくもの。
それがどうなっていくのか、ずっと見てみたいと思う、
作家の魂の遠さ、みたいなものを思った。
その作品は作家の魂の分身で、
人の暮らしに役立ったり、
美しく彩ったりしながら使われ、
使われ続け
それをいったい誰が作ったのか分からなくなっても、
巡り巡って手にした誰かをまた歓ばせ、
言葉のいらない対話をするのだろう。
わたしの手の中にやってきたいくつかの道具を
あたたかいものとして愛そうと思いました。
四国高松、うどんもうまかった。
しあわせな2日間でした。
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